【寄稿】連載第5回:柳田國男で読む主権者教育

【寄稿】 連載第5回:柳田國男で読む主権者教育 『北小浦民俗誌』を読む/柳田國男はなぜSNS型データベースを作ったか

  • 2018.04.13

※柳田國男『北小浦民俗誌』(昭和二四年、三省堂)の抜粋を、当記事最後部に掲載しています。
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柳田國男『郷土生活の研究法』Kindle版
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 それでは『北小浦民俗誌』を読んで見ましょう。同書の序文で、柳田は自身の学問のこれまでを以下のように振り返っていることは、この本の「読み方」を理解する上で重要です。

この目前の需要に応ずるために、民俗学研究所の創設以前から、我々の進めて行こうとしていた方法が二つあります。その一つは今まで永い間に拾い集められた民俗資料を、綜合整理して検索の用に供すること、すなわち民俗語彙(ごい)の編纂(へんさん)であります。これが乱雑で精確を欠くもの多く、ことに全国の隅々にわたって、まだまだ観察の及ばぬ区域の弘いことがわかって、第二段に手を着けましたのが昭和十年以来の郷土調査であります。これは比較的交通に恵まれず、かつこれまで省みられずにあったいわゆる偏鄙(へんぴ)な土地を選び、やや長い日数を費して精細なる視察なくり返したもので、間(とい)の出し方とか物の見方とか、または話の聴き方とかに、かなり念入りな用意をもって掛(かか)りました。不幸にして時局の制限を受け、三年あまりで中絶のうき目を見ましたけれども、それでもなお百何十かの山村と海村とは、これによって始めて我々の学問と交渉を持つことになりました。そうしてその記録は原形のまま、すべてこの研究所の宝物として保存せられるだけで、今はまだ一般の利用には供せられずにあるのであります。
(柳田國男『北小浦民俗誌』昭和24年、三省堂)

 柳田の目的が民俗資料を整理して検索用に提供すること、つまり、データベースづくりにあったことがはっきりとわかります。そのデータベースがあって初めて彼の学問は「主権者」の共通の「歴史」を考える方法になるわけです。
 柳田は幾度か民俗学の専門誌を創刊してはアカデミックなメンバーと対立して喧嘩別れする、ということを繰り返してきました。アカデミシャンたちが考える雑誌とは学会報や紀要、つまり、学者たちが学術論文を書くための雑誌、学術成果を発表する場です。つまり、アカデミシャンのための雑誌です。しかし柳田が考えた雑誌はデータベースとしての雑誌です。一般の人々が「報告」、つまり、それぞれが書き留めた眼前の日常の記録を短文(200字程度と示した時もありましたからtwitter並みです)を投稿するメディアとして常に構想されました。そうやって「報告」をシェアするわけです。そして投稿からなる雑誌が1年分たまると必ず「索引」を付しました。つまり、検索機能を持たせたわけです。
 一方ではこれらの語彙は、「産育」「葬送」などに分類されて、分類ごとに書籍化されました。項目別分類とは「タグ」付けです。
 こういった柳田の営みが資料の中央集権化と批判されたわけです。しかし、今、柳田のこのような営みは「データベースづくり」という一言で理解できます。柳田は「日常」の歴史をデータベース化し、タグ付け、そして検索可能なものとしてシェアしようとするとともに、このデータベースそのものをオープンソースにして、利用者が同時に自ら更新できるものイメージしていました。つまり、柳田の考える雑誌は今日のS N Sです。それをコンピュータもWebもない時代に考えていたわけです。そういう仕組みがあって初めて彼の学問は理想論でなく現実に「主権者」の「方法」になるわけです。
 このように、柳田の考える学問に参加することは、まずデータベース構築に参加することであり、そして次にシェアされたデータベースに基づく「歴史」を自ら語ることの二つからなります。このデータベースのイメージそのものは柳田の明治期の書『石神問答』が、複数の書簡による資料提供の羅列からなり、目次として索引めいたものを付していた(この「索引」付きの構成は『遠野物語』にも見られます)から、かなり早い時期からあったと思いますが、それを実践するのは昭和に入ってからですから、戦時下を通し、二十余年でようやく『北小浦民俗誌』の時点で、データベースの最低限ができたわけです。
 ですから、この『北小浦民俗誌』はデータベースの構築から、それを用いた歴史の記述へとようやく柳田の学問が進もうとする時期に、いわばデータベースからいかに歴史を語るかを示すお手本としてあったことは以下の記述からうかがえます。

その倉田君が不慮に世を去って、遺編空しく伝わるのを見ると、今度のような民俗誌の企てがなくても、なお私は代ってこういう一書を、まとめておくのに躊躇をしなかったであろう。しかしいよいよ実際に当ってみて、これは思ったほど簡単な仕事でないことが始めてわかった。どんなに忠実な行き届いた観察であろうとも、彼の手帳には統一がない。『方言集』はまた綿密な排列というに止まり、ことに今ちょうど私が書いてみようとするようなことを、書こうという計画は倉田君にはなかった。その上に文字以外の印象、手帳に取らずにしまった体験まではまだ私は完全に承け継いでいないのである。そこで同じ人が、すでに貯え持っていたろうと思う知識を、海と海ばたの村の生活について、彼が整頓してくれた「分類漁村語彙」の中から復原してどうやら漁業の諸問題だけは、彼が活きていて自ら筆を執ったとしても、いたであろうというところまで、持って来ることができた。
(同)

 倉田のノートは「綿密な配列」はするが「統一」はない、という言い方の中に、このノートがデータベース的なものだったことが伺えます。データベースから歴史へという視点が強調されていることに注意すべきです。『方言集』、「分類漁村語彙」といった倉田の残したデータベースが活用されていることも伺えます。一方、「今ちょうど私が書いてみようとするようなことを、書こうという計画」が倉田にはなかったと言います。つまり、データベースの「使い方」、データベースからいかにして歴史を描くか、という方法が倉田にかけていたとやや厳しい言い方です。一方、データベースの限界も「文字以外の印象、手帳に取らずにしまった体験まではまだ私は完全に承け継いでいない」と語ります。このことから、柳田は、共有できるデータベースがあった上で、それぞれが、具体的な場所に実際に立ち、非文字的な「印象」「体験」(かつて柳田が「実験」と呼んだものです)を踏まえて「歴史」を書くことが必要だと考えていることがわかります。

 それではいかにしてデータベースの項目を柳田は配置したのでしょう。
 その記述はまず、「北小浦」の景観を導入とし、その空間構成が語られます。

外海府は土地が広く里の数が多く、人の勢いも盛んであるゆえに、今では誰が見てもこの方が表口、あちらは裏手のように感じない者はなく、
   内は山かげだ、
   外は今から日ざかりだ(佐渡の民謡)

というような歌が、内の人たちの口にさえ上るくらいで、どうして都からの距離の大きい向う側の方を、内海府ということになったのかを、いぶかる者がだんだんと多くなっているが記録にちっとも伝わらぬ海の上の往来というものを、考えてみるならばこれは不思議でない。つまりは最初の移住者が、まずこの方面から入って来たから こちらを内というのである。
(柳田國男『北小浦民俗誌』昭和24年、三省堂)

 つまり目で見える風景を「読む」わけです。いわば、「地理学」の領域です。
 次に、外海府では漁に出られぬが内海府では漁の季節である「イソネギ」という語に注目し、そこからその他の生業である漁業の話に入ります。そして「ナシフリ」というイカのわたを用いた漁のエサの話と、漁法の具体的な記述が続きます。
 次に「テンガイ」「クリブネ」といった舟の名称から、その工作法の話を間に置いて、舟を造る舟大工が村の外からやってくる、つまり村の外の労働力の存在に触れます。柳田は農政学者としてスタートし、自分の学問を「経済学」だと考えていた時期もありました。経済という、マルクス主義でいう下部構造から説き起こしているのは重要です。
 そこから漁業以外の生業としての牧牛とそれに関わる習慣へと話は弾み、そして、牧牛のみ身につける「耳ジルシ」(耳に刃で切れ込みを入れ所有者を示す)から「家ジルシ」(簡易な家紋のようなもの)へと話は広がって、村の社会制度への話へとなっていきます。「社会学」の領域です。
 この耳ジルシ、家ジルシあたりまでは「目」で観察できる資料です。しかし、社会制度、つまり本家分家の関係や相続、隠居や部屋依みの制度、そして結婚制度といった事案は現地で、ヒアリングをしないと見えてこない部分が出てきます。
 そして結婚制度から「若者宿」、つまり成人した男女が結婚までの期間、親の手を離れ若者村と娘宿に移り住む習慣、そして若者宿が「成人」のための教育機関であったことが語られ、社会制度の話は「教育」へと展開すします。つまり「教育」という内在化していく知識や教養の話となり、それを受けて「信仰」、つまり「心の内」の問題へと話は連なっていく。すなわち「倫理学」です。
 こうして見たとき、いわゆる「社会科」に含まれる領域が網羅され、それが分断されず接続されていることがわかります。
 同時に、これらのプロセスが柳田が言う民俗資料の「三部分類」の考えに従っていることは明らかです。かつて柳田はこう記していることは重要です。

すなわちまず目に映ずる資料を第一部とし、耳に聞える言語資料を第二部に置き、最も微妙な心意感覚に訴えて始めて理解できるものを第三部に入れるのである。目は採訪の最初から働き、遠くからも活動し得る。村落・住家・衣服、その他我々の研究資料で目によって採集せられるものははなはだ多い。目の次に働くのは耳であるが、これを働かせるには近よって行く必要がある。心意の問題はこの両者に比してなお面倒である。
(同)

 この時、柳田が「三部分類」のイメージとして添えているのは【図1】です。

大塚英志 連載第5回:柳田國男で読む主権者教育【図1】
【図1】

 このことから柳田が「日常」の資料を三つの層からなるレイヤーとして考えていることがわかります。「三部分類」については批判可能な部分は当然あります。しかし、柳田がデータベースの中の資料をフラットなものとしてでなく「レイヤー」として考えていたことは興味深い問題です。それは、人がものを認識し、理解していく順番であるという点でひどく単純ですが、しかし、私たちの「日常」がレイヤー的である、というのは案外とこれから深めていける議論です。しかもこの三部分類に従った記述は、風景、つまり地理的条件から経済が語られ、それが社会形態、そして養育や信仰などの文化を規定していくという、下部構造論的な構成になっていることも注意していいでしょう。「英雄」「災厄」に依存しない「日常の歴史」はマルクス主義的な歴史観に内的な領域を導入したものに結果としてなっているわけです。
 しかし、それが終着点ではありません。「歴史」の問題です。『北小浦民俗誌』では北小浦内での生活習慣の変化にも言及されます。しかし、柳田がデータベースから立ち上がらせようとする歴史は違う形のものです。
 ですから、記述にはもう一つ別の「軸」があります。

中国九州の類例を見渡すと、こういう作業に用いられる物を、ナギワタまたはいう土地が少なくない。ナギは水面の平静になること、ワタは魚介の内臓のことだが、それには鮑のわたを、それも腐らせてから使うものが多かった。佐渡の海府では、もとは主としてナギガイといって烏賊のわたを用いていた。それをナシフリまたはナシヲフルといったのは、他の地方にはまだ聴かぬ言葉だが、島では魚類の屑を腐らせて肥料とするものをナワシといっているから、それと一つの語であろう。現に田畠にそういうものを散布して、肥培にも駆虫用にもすることを、ここでもやはりナシフリといっているのだから、この語はむしろ農業からの転用とも見られる。
(柳田國男『北小浦民俗誌』昭和二四年、三省堂)

 「ナシフリ」についての記述ですが、佐渡から遠い中国地方の「ナギワタ」という類語が参照されていることがわかります。この例に留まらず、北小浦で紹介された日常の記録は「民俗語彙」を手がかりに他領域の類似した事象と常に「比較」されます。こういった地域間の「比較」から、柳田は日常の歴史の推移が最終的に導き出せると考えていました。

 柳田は地域間の多様性は歴史の進展が一体ではない、ということを意味している、と考えていました。【図2】は「燈火」の燃料の変遷を図式的に示したものですが、松火から種油、石油、電気へとその燃料の推移は同時進行ではない、とひどく当り前のことを言っているわけです。世界は同時にがらりと変わるわけではなく、その遅延こそが「歴史」、つまり日常の推移を感じ取る手がかりなのだということです。

大塚英志 連載第5回:柳田國男で読む主権者教育【図2】
【図2】

 この「比較」を考古学の編年のように、変化の過程に完全に置き換えるいわゆる「周圏説」による歴史の再構築を柳田が考えていた時期もありましたが、むしろ「生活単位の歴史」をデータベースを参照することでレイヤー化し、同時に、繋いでいくことで、私たちの「日常」をレイヤー化され動態としてイメージすることが、柳田の考える「歴史」だと言えます。
 だからこそ『北小浦民俗誌』の最終章は、「旅と旅人」、つまり村と村の間を移動しながら文化を伝達してムラとムラを繋いでいく人々の存在で終わるのです。柳田は「郷土のことは郷土の人にしかわからない」といいながら、同時に彼自身は「旅人」として自己規定してきました。「郷土のことは郷土の人にしかわからない」ことに閉じてしまわないようにそれらを繋ぐものがかつてはいて、彼らが「世間」という公共空間を形成すると同時に歴史を動態に変えていく役悪を果たしていました。そういう人々を柳田は「世間師」と呼び、それが柳田の研究者としての自己像でもあったことは随分前に論じた記憶があります。(参照 『社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門』柳田が示したのは「世間師」の方法といえるかもしれません。こう記すとまるで、東浩紀の「観光客」のように聞こえますが、柳田が『北小浦民俗誌』で例に挙げるのは「ホイト」や旅芸人など、漂泊する賤民たちであって、決して現代思想的に格好いいものでは少しもありません。
 こうして、「日常の歴史」を一人一人がデータベースづくりに参画しつつ「歴史」を誰にでも記述し得るものとすることで、過去を省み、将来を設計する責任主体としての「主権者」たり得ることが柳田の学問の目標でした。それが柳田の考えた近代を可能にする手段です。それは「物語の歴史」をただ受容するのに比してとてつもなく面倒な作業ですが、それが主権者としてのいわば「教養」であるということにもなります。
 現在、このような柳田の学問が可能なインフラが私たちの目の前にあります。様々なデータベースがWeb上にあります。それらを更新し、つなぎ合わせ、自らの「歴史」に対する見解をSNSで発信することも誰もが参画可能になっています。そうして語られたものが、世論となり、選挙結果に反映するようにもなっています。しかし、私たちの前にあるのはかくも機能不全を起こした近代であり民主主義です。それを勇ましく葬送することを宣言することは容易いですが、さて、近代や民主主義が未だ達成されないのはそれが不完全な制度であったり、耐用年数が尽きたからでしょうか。インフラがあり、達成できていないというのはつまりは怠惰でありサボタージュであり、それが「思想」のふりをしているのが現在です。
 柳田の學問が達成は、民俗語彙のデータベースづくりを継承することでなく、Web上のデータベースの質やそれを用いた情報発信の仕方といったインフラを使う側の問題としてあります。そのための「思想」こそが、柳田の学問の中にあるのです。

柳田國男『北小浦民俗誌』(昭和二四年、三省堂)より

 民俗学研究所の初期の事業の一つとして、我々は全国の隅々の、最も世に知られない小区域の採訪記録を世に残すことを思い立ち、多数の同志諸君から、これに協力しようという約諾を得ました。私一個人にとっては、とても実現はしないだろうとあきらめていた若い頃からの夢でありましたが、新たなる時勢はこれを可能にし、また極度にこれを必要にしたのであります。
 古い生活ぶりが、時とともに改まって行くのは当然の事でありますが、以前はまだそれがどういう風に改良せられたかを、覚えておろうとする人が多かったのみか、中にはあまり急激な変化に対して、幾分の危惧(きぐ)不安を感ずる者が、少なくとも元はこうではなかったということを、言わば用心のために少しずつ、語り残しておこうとする態度が見えました。村の寄合(よりあい)には面白い思い出話が多く、それに耳を傾けようとする若い男女も、少なくはなかったのであります。しかるにこの動乱の十数年の間に、そういう親切な故老は次々と去って行きました。わずかに留まった者も見当を失って、ただ嗟嘆(さたん)を事としております。進取追随の気風は一世を蔽(おお)いました。そうして我々の日常生活は、また新たに大いなる変貌(へんぼう)を重ねなければならなかったのであります。考古学などにいわゆる表面採集は、ここでも甚だしく困難なものになってしまいました。しかも一方には過去を明らかにしようとする希望が、普通教育の面において、一般に非常に高まって来ているのであります。
 この目前の需要に応ずるために、民俗学研究所の創設以前から、我々の進めて行こうとしていた方法が二つあります。その一つは今まで永い間に拾い集められた民俗資料を、綜合整理して検索の用に供すること、すなわち民俗語彙(ごい)の編纂(へんさん)であります。これが乱雑で精確を欠くもの多く、ことに全国の隅々にわたって、まだまだ観察の及ばぬ区域の弘いことがわかって、第二段に手を着けましたのが昭和十年以来の郷土調査であります。これは比較的交通に恵まれず、かつこれまで省みられずにあったいわゆる偏鄙(へんぴ)な土地を選び、やや長い日数を費して精細なる視察なくり返したもので、間(とい)の出し方とか物の見方とか、または話の聴き方とかに、かなり念入りな用意をもって掛(かか)りました。不幸にして時局の制限を受け、三年あまりで中絶のうき目を見ましたけれども、それでもなお百何十かの山村と海村とは、これによって始めて我々の学問と交渉を持つことになりました。そうしてその記録は原形のまま、すべてこの研究所の宝物として保存せられるだけで、今はまだ一般の利用には供せられずにあるのであります。
 今度の各地民俗誌は、まずこの記録の公表をもって出発するのでありますが、この中にももちろん価値の差等は認められまして、多分はその全部までは公表せずにすむかと思います。その代りには我々の壮挙に刺戟せられて、あれから以後同じ種類の計画が、すでに各方面に実行せられております。将来はまたさらに一段と立ち優った知慮と熱心とをもって、前者を凌駕(りょうが)するような成績を収めることができるかと期待せられます。困難はもとより増加しておりますが、若い人たちの勇気はこの方面において、また一段と昂揚(こうよう)せられております。これがあればこそ私たちは、こうしていつまでも働こうとするのであります。
 現在予定し得る民俗誌の目録は、かりに二十何篇としてありますが、我々はこれを少なくとも百篇ぐらいにはしたいと思っております。個々の郷土の特色が次第に目に立たず、共通一致の点のみが多くなれば、それを目的の完成と見てよいのですが、そういう時期は容易には来ぬだろうと思います。やがて三十なり五十なりの巻の数がたまった上で、一つの総合索引を作って、各地重複の多少を調べてみることが、我々としては大きな楽しみであります。
 民俗誌という書物は、今から十数年以前にも、一時連続して幾冊か世に出たことがありました。それと今度のものとのはっきりとした相違は、あちらは壱岐島(いきのしま)とか天草島(あまくさじま)とかのやや広い地域の総覧であり、こちらは一つの町村の中の、また一段と小さい部落を目標としております。山村とか漁村とか題した民俗誌なども、現実にはある限られた郷土に対象をおいていますが、やはりできるならば国の全体に通ずるものを、見定めようとする意図を抱いておりました。民俗学の素志とするところは、窮極はそれに到達しようというにあります。ただ奈何(いかん)せん資料事実の調査が、今はまだ十分に周到でなく、またそういう知識を貯蓄することは、一人の能力に余るという状態であります。個々の特色ある地域の記述と、その比較綜合は欠くべからざる準備でありまして、それが現在まではできずにいたのであります。日本一国の民俗学も同じことですが、各自の内側を精確にした上でないと、実際は外との比較は望まれなかったので、言わば今までは仮定の上に立って、概論をしていたという姿であります。いわゆる人文の科学に対立して、他の一方の自然科学のみに、エキザクトという名を冠(かぶ)らせていた、口惜(くや)しい理由はこんなところにあるのです。土地に生れた人たちの学問が、仲間から誤りを発見せられるようなことがあるのでは、いつの世になっても文化の論を、外国人の著述からいき呑(の)みにしなければなりません。今度の民俗誌なども、主として外からやって来た人の観察が物を言っているのですから、誤った判断はありがちでありますが、土地を指定せられている以上は、その土地の人は読まずにはいられず、読めばその誤解を指摘せずにはおられますまい。それを私たちはこの学問の最も着実なる基底であると思いまして、国の中央のたった一つの研究所の、ぜひとも最初に手を着けなければならぬ事業だと考えたのであります。
 しかしながらかなり大きな事業であります。有縁無縁の内外の理解者の、広い声援を得なければ、成功は得にくいことと思っております。国は悲しい時代に沈淪(ちんりん)していますけれども、幸いなことには日本文の読める外人が、近頃急劇に多くなって来ました。飜訳の煩わしい仲介によらず、直接にこういうものを読もうというような人々へは、あらゆる方法を尽してこの本を頒布(はんぷ)してみようと思っております。それにはまた文章の平易明瞭(めいりょう)ということが、たとえできないまでも常に心掛けられねばなりません。あまりやさしいから学問の本らしくないなどと、つまらぬことを言ってもらいたくないものであります。

昭和二十三年十月

著者プロフィール(大塚英志

大塚英志(おおつかえいじ)1958年生まれ。まんが原作者、批評家。最新刊『感情化する社会』。本書は韓国での翻訳出版が決定。本書に関わるまんが原作としては、山口二矢、三島由紀夫、大江健三郎らをモチーフとした偽史的作品『クウデタア2』、本書に関連する批評として、『物語消費論』『サブカルチャー文学論』『少女たちの「かわいい」天皇』『キャラクター小説の作り方』『更新期の文学』『公民の民俗学』などがある。

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