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中田考の近未来、世界はこうなる!講座 第2回

【対談】中田考×島田裕巳 未来の宗教はどうなるのか? これから世界はどうなるのか?

2017年10月4日、東京渋谷のロフト9にて、「未来の宗教はどうなるのか? これから世界はどうなるのか? イスラーム、ムスリム、宗教、どんな疑問にもお答えします!」というイベントが開催された。出演は、中田考(イスラーム法学者)さんと島田裕巳(宗教学者)さん。 イスラーム法学では世界的権威である中田考さん(同志社大学客員教授)。世界では5人に1人がムスリムであるのに、日本では数少ないムスリムであるが故か毀誉褒貶にさらされているが、いったい彼らが何をどう考えているのか、イスラームからの声を知るための非常に重要な存在である。 最新刊『帝国の復興と啓蒙の未来』(太田出版)では、ミッシェル・ウエルベック『服従』(河出書房新社)の物語から、現代の帝国が復興し文明が再編される時代を見通すための、イスラームの側から歴史を解き明かそうと果敢に試みた。今回は「世界と日本の宗教が衰退している現象」を論じた『宗教消滅』(SB新書)や中田さんとの共著『世界はこのままイスラーム化するのか』(幻冬舎新書)でも知られる宗教学者・島田裕巳さんと、イスラームのこれから、世界の宗教のこれからに関してとことん語り合った。
イラスト : 山下航, 写真 : 伊丹豪
イラスト : 山下航, 写真 : 伊丹豪
2017年10月4日、LOFT9 Shibuyaにて
イスラーム法学者・中田考さん(左)と、宗教学者・島田裕巳さん(右) イスラーム法学者・中田考さん(左)と、宗教学者・島田裕巳さん(右)

世界の宗教人口が
減り続けているのに
なぜ
イスラームが増えるのか?

『帝国の復興と啓蒙の未来』
『帝国の復興と啓蒙の未来』
中田考/太田出版
『宗教消滅』
『宗教消滅』
島田裕巳/SB新書
『世界はこのままイスラーム化するのか』
『世界はこのままイスラーム化するのか』
中田考+島田裕巳/幻冬舎

―――今日はイスラーム法学者の中田考先生と宗教学者の島田裕巳先生をお招きしています。お二人は古いお知り合いで、今回、中田さんの『帝国の復興と啓蒙の未来』という新刊の出版を記念して対談をすることになりました。しかし、公の場でのお2人の対談は今回が初めてです。せっかくの機会なので、「イスラーム、ムスリム、宗教、どんな疑問にもお答えします!」というテーマでお話ししましょうということになりました。

島田先生は2016年に出された『宗教消滅』(SB新書)という本の中で、世界中の宗教人口がどんどん減っている現状を指摘されています。キリスト教しかり、日本でも新宗教が下火になっていて最終的には消滅するのではないか。その中でイスラームだけが伸びているという事実があります。まずは、そのあたりの事情について、いったい宗教になにが起きているのかというところからお二人にお話しいただければと思います。よろしくお願いします。まず、島田先生から、日本だけではなくて世界から宗教がどんどんと消滅しつつあるというご指摘についてご説明いただけますか。

島田 宗教消滅ということを考えるきっかけは日本の新宗教の信者数の現象です。たとえば、一時期高校野球の名門だったPL学園という学校がありますが、不祥事もあって野球部が廃部になりました。その背景には母体のPL教団の信者が減り、お金がなくなり、野球部に対してお金を出すことが難しくなってきたという状況が関わっています。PLでは毎年8月1日に「PL花火芸術」というイベントをやっていて、数年前に家族と一緒に行ったことがあります。30年ぐらい前に行ったこともあるのですが、そのときはすごい花火の数だったので、家族にも見てもらいたくて久しぶりに行ったのですが昔と比べて見る影もない。

新宗教の信者数は一応、毎年、文化庁宗務課が出している『宗教年鑑』に載っているのですが、これは自称信者数なので実際はもっと少ないでしょう。それでも、PLについていえば、この30年の間に信者数が1/3になっている。立正佼成会もそうだし、霊友会もそう。戦前からある天理教も半分以下。僅か30年の間に巨大教団の信者数が、それほど減ってきている。

では、世界的にはどうなのだろうかと見てみると、ヨーロッパのキリスト教もかなり衰退しています。ヨーロッパ人やアメリカ人は、必ず日曜日に教会へ行っていると思っている人もいると思うんですけど、じつはそういう人はかなり少なくてせいぜい10%や5%ぐらいです。お年寄り以外は日曜日に教会なんかに行かないというのが現状です。数字を見ていると、そういうことがわかります。

ドイツでは教会税というのがあって、教会に属していると教会税が課されるんです。だいたい所得税の8%~10%ぐらい。ただし教会が取るのではなくドイツの税務署が取る。それを嫌って、今、毎年何十万もの人たちが教会から離れています。

そんな事情のある一方、ヨーロッパでは今、移民を通してイスラーム教徒が増えています。各国押し並べて5%ぐらいのイスラーム教徒を抱えている。アメリカの研究所は、2030年にはこの数字が大体10%前後になるんじゃないかと推計しています。そのアメリカはまだキリスト教離れがそこまで進んでいません。アメリカには福音派というプロテスタントのキリスト教徒がいます。これはいわばキリスト教の新興宗教的なものといってもいいでしょう。最近「反知性主義」という言い方でいわれている人たちでもあるのですが、この福音派が大体25%ぐらい。そのほかにオーソドックスなキリスト教信者もいます。そのアメリカですら徐々に無宗教の人が増えていて、大体1/4ぐらいが無宗教です。

日本人は自分たちは無宗教だと思っていますが、日本人の場合、高齢になるにつれてじつは信仰を持つ人の数は増えています。50代、60代になると、半分以上の人たちが一応は信仰を持っているんです。それは家の宗教ということでもあるのですが。

こうした事態を見ていると、どうも先進国ではキリスト教が大幅に衰退して力を失っている。ヨーロッパではイスラームが移民という形でイスラーム教徒の数が増えている。一方、経済発展が続いている中国だとかブラジルでは、アメリカにある福音派にあたるような新興のキリスト教徒がかなり増えています。その先鞭をつけたのは韓国です。韓国は戦後経済発展するなかでこの福音派的なキリスト教が増えて、今、人口の30%を超えるぐらいを占めています。これはシャーマニズム的で説教師が神がかりになったりします。しかし、韓国も経済成長が落ち着いた今では、だんだん下火になっています。

同じことが中国やブラジルでも起きています。中国の事情は、あまりよく分からないんですけど、人口の8%ぐらいがキリスト教に改宗したということです。ブラジルの場合は、田舎にいたときは皆カトリックなんですが、リオデジャネイロなどの都市に出てくると、そこで福音派に改宗ししてしまう。そうやってかなりの数がカトリックからプロテスタントに移行していることが、統計的にわかります。

つまり、先進国では、経済が発展しきったところではキリスト教やその他の宗教がどんどん衰えていき、経済発展しているところでは一応今のところは福音派が増えている。しかし経済発展が止まると、韓国がそうであるように福音派の増加も止まるという現象が見られます。その中で信者数が増えているのが先ほども申し上げたようにイスラーム教です。アジアで、今、一番イスラーム教徒が多いのはインドネシアですが、このままいくとパキスタンが一番世界でイスラーム人口が多い国になっていくでしょう。アジア全体としてイスラーム教が支配的な宗教になりつつあります。同様のことは移民の増えているヨーロッパでも起きています。ですから、宗教消滅というより、キリスト教や他の宗教が衰退してイスラーム教だけが増えていくのかもしれません。

ただ、そこで問題となってくるのはイスラーム教というのは果たして宗教なのかどうかということです。キリスト教的な宗教とはどうも性格が違う。また、イスラーム教の内部でもソフトイスラーム化とかいろんな変化が起こっています。中田さんからしたら、けしからんイスラーム教なのかもしれないけれど、それがいったい今後どう変化していくの、大きな転換期にさしかかっているような気がします。

中田 私はイスラーム教徒なんですが、東大の宗教学科の出身ですので、イスラーム教徒としての視点と宗教学者としての視点があります。イスラーム教徒の視点で話すと、イスラームに馴染みの薄い日本人のお客さまがたには話が通じなくなってしまいかねないので、できるだけ二つの視点を分けてお話したいと思います。

島田先生がご指摘された宗教が消滅しているというお話ですが、宗教学の世界では宗教とは消滅するものだという見方が基本にありますね。フランス革命のころから宗教とは迷信であって、科学が進んでいけば滅びていくものだという言説が強かった。その風向きがちょっと風向きが変わったのが実は1979年のイラン革命でした。

イラン革命があったのは、私が大学に入って感受性が強かったときで、それがイスラーム学を志すようになった直接のきっかけでした。宗教とは消えていくものだと思っていたところに、イスラーム教が出てきて「えっ」と思ったんです。もちろん、それまでにも世界の中ではイスラームはあったんですけれど人々の目が行っていなかった。例えば若い方は知らないと思いますけれども、ミュンヘンオリンピックのときに日本赤軍がテルアビブの空港で無差別テロを行ったんです。それを日本人はアラブが革命をやっているというふうに思っていたんですが、実はそこにはイスラームがあった。でもそれは見えていなかったんです。それがはっきり見えたのが1979年のイラン革命だったんです。それをきっかけに、宗教はまだなくならないのではないというふうに、世の中の見方も少し変わってきたように思います。

昨年出た『文藝春秋SPECIAL 2016年冬号』(文藝春秋)という本に欧米でイスラームへの改宗者が増えているという記事が載っていました。改宗した人間に取材しているので、背景には欧米社会の堕落や行き詰まりがあるとか、女性の場合はいままでは男性を意識した服装をしなくてはならず自分が商品化していた気がしたが、スカーフを被ることで自由になったとか、そういうステレオタイプの書き方ではあるんですが、ともかくそういうことが普通にいわれるようになった。

でもイスラーム教徒が増えている一番の理由は、イスラーム法上結婚相手はイスラーム教徒でなければいけないということがあるからです。正確にいうと、イスラーム教徒の女性が結婚するときには相手はイスラーム教徒でなければいけないし、イスラーム教徒の男性が結婚するときにはクリスチャンかイスラーム教徒のどちらかでなければいけないという規則がある。日本人はそもそもクリスチャンもイスラーム教徒も少ないので、日本人女性が結婚するとイスラーム教徒に改宗します。イスラーム教徒と結婚する女性の数がそんなに多いわけではないですが、それでも増えているのは確かです。

イスラーム教徒が増えているもう一つの理由は単純に子だくさんだからです。イスラーム世界では子供が非常に多い。だからイスラーム世界の人が日本に来ると、街に子供がいないのでみな驚きます。ですので、宗教人口が減っていく中でイスラーム教徒が増えていくのは、結婚するときには異教徒であってもイスラーム教徒に改宗するし、子供もイスラーム教徒になる。しかも、子だくさんだからです。

あとイスラームの「クルアーン」という啓典はアラビアで書かれているのですが、それをアラブ人はもちろんアラブ人でなくてもそれをそのままアラビア語で読みます。日本人キリスト教徒は日本語で聖書を読んでいるかもしれませんが、原典のヘブライ語やギリシャ語の聖書を読んでいる人間なんて、欧米だってほとんどいません。日本人で仏教徒だといっても、パーリ語やサンスクリット語でお経を読む人はほとんどいません。ところがアラブにいくと子供のときから原典でクルアーンを読んでいる。それは大きなちがいだと思います。

イスラームは
日本だと神道に近い

―――つまり、イスラームが増えたり、力を持ったりしているのは、もともとイスラームが持っているシステムのおかげということですか。

中田 そういうことです。今のは宗教学者の視点からの話です。けれども、イスラーム教徒という視点からすると、そもそもいま世界でイスラーム教徒と称ばれている人たちが、本当にイスラーム教徒なのかという点は非常に疑問です。例えば日本の話だと分かりやすいと思うのですが、日本の『宗教年鑑』を見ると神道の信者と仏教徒を合わせると1億8000万ぐらいいるそうです。つまり、ほとんどの人間が仏教か神道のどちらか、あるいは両方の信者になっているわけことになります。では、その中で模範的な信者であるといえる人がどれだけいるでしょう。それはイスラームも同じです。皆さんから見るとイスラーム教徒に見えるかもしれませんけれども、イスラームの教学を勉強した私から見て、その人たちはイスラーム教徒といえるかというと、少なくともまともなイスラーム教徒ではない。

ただしイスラームには、イスラーム教徒かどうかを判定する立場の人間はいません。それは神だけしか知らないということになっています。ですから「こいつはイスラーム教徒ではない」とは言えないのですが、少なくとも、中学高佼の倫理や世界史の教科書に載っているイスラームの六信五行というイスラームの規範に照らし合わせても、それすらやっていない人たちが大半です。今、イスラーム教徒といわれる人たちは世界で10億人ぐらいいるのですが、私から見ると99.99%ぐらいはまともなイスラーム教徒ではない。

島田 「宗教を信じている」というのは一体どういうことなのかという問題がそこにあると思います。たとえば、仏教には戒律があります。一番基本的な五戒では、酒を飲んではいけないとか、いかがわしいことしてはいけないとか、人を殺してはいけないというのがあります。ではそれを守っている人が信者なのか。逆に守っていなかったらその人は信者じゃないのか。そこら辺の基準というのが、どの宗教においても難しい。

しかもイスラームの場合、一番難しいのは組織というものがないことです。この点はイスラーム学者の人もあまり説明しません。たとえばキリスト教徒は教会に属していて、そこには教会委員会というのがあってメンバーがはっきりしています。お寺だったら檀家があります。でも、イスラームのモスクにはそういう仕組みがない。イスラーム教徒がモスクに属するという形がないんです。だから、イスラーム教徒の名簿は世の中には存在しません。誰がイスラーム教徒なのか誰も把握していない。モスクに行っている人なら、ああイスラーム教徒なのかな、とわかりますが、モスクにも行かないで家で一日5回礼拝をしているだけだと、だれもその人がイスラーム教徒だと分かりません。神は把握しているのですが、神がどう考えているかは直接問いただせない。

その意味で、今までの宗教の基準にイスラームは当てはまらないんです。宗教学はヨーロッパで出来たのでキリスト教がベースにあります。キリスト教に当てはまるものが宗教だと考えている。たまたま日本の仏教は高度な教義や哲学があり、組織としても進んでいるのでキリスト教と比較しやすいんです。そのため日本では仏教とキリスト教を元にして宗教を論じてきたのですが、イスラームが入ってくるとそれが全部崩れてしまう。組織のない宗教なんてとらえどころがない。だから理解出来ないというふうになっていしまう。イスラームを宗教の枠に入れて、あらためて「宗教って何?」と聞かれると、宗教学者として非常に困ってしまうんです。

中田 そうなんですね。ヨーロッパと日本が実は非常に特殊で、宗教だけじゃなくて社会構造や組織原理自体もたまたま似ているんです。宗教に限っていえば、今、島田先生がおっしゃったように日本には檀家制度があって一人の人間は必ずどこかのお寺に所属するというシステムがある。カトリックもそうです。日本の戸籍みたいに教会籍というのがあって一人が一つしか入れない。ですからそれを全部合わせると総人口が分かるんです。

日本も明治までは全体の戸籍がなかったので、お寺がそれを管理していました。それを全部合わせると信者数がわかる。そういうシステムは実はヨーロッパと日本だけでした。イスラームだけでなくヒンドゥー教世界でも分かりません。信者を統括している教会もなければ教祖もいない。儒教や道教も分からない。だからイスラームが特殊だというよりも、むしろキリスト教が特殊なんです。その特殊なキリスト教と日本の仏教のシステムがたまたま似ていた。日本は、基本的には宗教に限らず学問は全てヨーロッパから入っています。そのヨーロッパのシステムに似たものが自分たちにもあったので、これが世界基準だと思ってしまった。そのために世界が見えなくなってしまった。そうとらえるのが正しいんです。

島田 この前アメリカ生まれのサイエントロジーという新宗教の会合に呼ばれて行ってきました。トム・クルーズが入っているので有名なのですが、東京の大久保に日本本部があります。オウムなどに似て修行するにつれてステージが上がっていくというシステムになっていて、日本で一番上のステージにいるという人のパフォーマンスというか礼拝を見ました。ところが面白いことに、その人が立正佼成会の信者でもあるんです。サイエントロジーは日本ではまだ宗教法人ではないので、2つの宗教法人に入っているというわけではないのですが、立正佼成会の信者でありながらサイエントロジーの信者でもある。やっぱり宗教ですから。2つの宗教に同時に入っている。そういう人がいるんです。

中田 そのサイエントロジーは自分たちは宗教だと言っているわけですか?

島田 言っています。でも多分、日本では宗教法人にはなれないと思いますね。立派なビルがあって、1階で教祖の本を売っているのですが、みんなお金が絡んでいるので、文化庁の役人が見たらこれを宗教とみなすのはむずかしいかもしれないですね。現にアメリカやヨーロッパではカルト扱いされています。それでも日本では入門団体の人が大体5万人ぐらいいるということです。熱心な人は1000人ぐらいと言っていましたけれど。まあそんな規模ですね。

宗教団体って意外とそんなに大きくないんです。最近創価学会の会員数を改めて計算してみたんです。大阪商業大学が毎年行っている意識調査の中に「あなたはどの宗教を信じていますか?」というのが出てくるんですが、そこに創価学会や天理教や真光や真如苑なども入っている。それによると創価学会の会員数は大体4500位のサンプルでコンスタントに2.2%か2.1%となっています。2.2%だと大体280万人。これを今後は私は創価学会の会員数として使おうと思っています。

その他の教団になると0.1%とかそのぐらいの数なので、10万とか20万ぐらいのレベルです。幸福の科学も信者数1000万と言っていますが、実際は10万いるかいないかというようなところでしょう。

中田 まあ、そうですね。イスラームは先生がおっしゃったように教団がないので、信者数ははっきりわかりません。「どの宗教を信じているか」という質問は日本だとなんの違和感もありませんが、イスラーム世界では信じるものは神であって、宗教ではありません。ですからそもそも質問になっていないんです。イスラーム世界でも、たとえば社会団体のムスリム同胞団とか、スーフィー教団に属しているというアイデンティティはありますが、イスラームという宗教団体に属するという考え方はありません。その意味ではイスラームは日本だと神道に近い。神道は統計上8000万人とかいるわけですね。本当に信じているのかというと、あまり信じていないように見えるんですが、教団に属するという形ではないという意味ではイスラームは神道に近いですね。

島田 イスラームの人たちは自分たちの仲間という意識は持っているんですか。

中田 まあそうですね。どこへ行ってもモスクに行けばいっしょに礼拝するし、同じ宗教だというふうに考えますね。日本人の仏教徒がタイのお寺に行っても言葉も通じないですが、イスラームではモスクに行けばたとえ言葉が通じなくても、アラビア語でのあいさつや礼拝のやり方などは世界中どこでも同じですし、必ず誰か助けてくれます。

島田 日本の中でイスラーム教徒同士が、連帯的な同胞意識で集まることなどはあるのですか?

中田 それはむしろ外国人の方にありますね。モスクに行けば同国人がいることもあります。でも、日本人ムスリムではそういうことは全くないと言ってもいいぐらいありません。

島田 日本人イスラーム教徒は一応1万人ぐらいいるといわれていますね。

中田 ええ。でも、そのうちの9割ぐらいは結婚でイスラーム教徒になった人たちです。さらに、そのうちの9割ぐらいは「ああ、そういえば、なったこともあるね」ぐらいの人たちです(笑)。自分がイスラーム教徒であるといつも意識して生きている人は1割ぐらいではないでしょうか。

島田 1000人ぐらい?

中田 そんなものだと思います。それも組織がないので横の連絡もあまりないんです。

『帝国の復興と啓蒙の未来』
『帝国の復興と啓蒙の未来』
中田考/太田出版

―――さて、そろそろ中田先生に新刊『帝国の復興と啓蒙の未来』(太田出版)の内容についてお話しいただきたいと思います。日本で初めてイスラームの側から見た世界史を描き、そして世界がこれからどうなるかということが描かれた本です。

中田 この本はイスラームを前面に出したものではなく、イスラームの立場から世界史や現在の状況を見ていこうとしたものです。先ほどの島田先生との話の中で、日本にはたまたまヨーロッパと似たものがあったおかげで、「ヨーロッパが世界である」と思ってしまった部分がある。そのことをもう一度見直すうえでイスラームという補助線を引いてみると分かりやすいということで書いた本です。

民主主義や自由主義といった世界に広まっている西欧的な考え方からすれば、世界は非常にフラットな世界になると思われていました。しかし、実際にはそうではなくなっている。でも、学問自体が細分化されていることもあって、それを言う人があまりいないんです。

この本では近代から現代にかけての世界史の流れをだいたい次のようにとらえています。まず、19世紀はヨーロッパが世界を征服した時代です。そのころアジアで独立を保っている国は、日本とタイしかなく、中国も半分植民地化されていました。イスラーム世界ではオスマン帝国とイランが一応独立を保ってはいましたが、経済的には借金漬けで、実質的にはヨーロッパに支配されていました。

ところが20世紀にこのヨーロッパが自滅します。ヨーロッパの自滅をもたらしたのは、いうまでもなく第一次世界大戦と第二次世界大戦です。このときヨーロッパの内部だけで数千万人が殺し合いました。しかも、これは対外戦争ではなく内戦なんです。内戦によって、ヨーロッパの総人口の1/4が死んだ。そのことは語れないようなトラウマを残しています。しかし、そのことを彼らは言おうとしないので、我々には見えていない。でも、そのことをしっかり考えないことには、これからの世界は見えないと思います。いまヨーロッパに起きているイスラーム蜂起にしても、こういう背景から考える必要があると思います。

いま、ヨーロッパ世界とイスラームが対立し合っているというふうに見えるかもしれませんが、歴史的に見ると、じつはそんなことはなかったんです。時代を遡りますが、最初の十字軍がエルサレムに入ったときには、確かに2万ぐらいの人を殺して足が血の海に浸かるような虐殺が行われたんですけど、それは最初だけなんです。その後の戦争はイスラーム教徒同士だったり、キリスト教徒同士の戦争がほとんどで、殲滅戦のようなものは一切やっていない。むしろヨーロッパで起こった宗教戦争こそが殲滅戦で、お互いに殺しあって人口が1/3になるというようなことをしていた。その最大のものが二度の世界大戦です。そのことから目を逸らさせるために、イスラームが敵にされている。でも実際にはイスラーム教徒とキリスト教徒との間では歴史的には、そういうことは起きていない。そのことを見ないと、今、ヨーロッパで起きていることが分からない。

先日ラスベガスでアメリカ史上最悪の銃撃事件がありました(2017年ラスベガス銃乱射事件。58人が無差別に銃で殺害された)。どういうわけかイスラーム国が犯行声明を出しましたが、まったく関係ない(笑)。興味深いことに、この事件ではテロという言葉は使われておらず、あくまでシューティング(銃撃)とされています。アメリカ人にとって一番危険なのはアメリカ人なんです。しかも白人のアメリカ人なんです。これは統計的にも明らかなんですけれども、そのことは言われない。そのことを隠すためにイスラーム教徒を悪者にする。そこには実は彼ら自身のトラウマがあるからなんです。

政治と宗教がいっしょになると
戦争が起きやすい!?

中田 よくイスラームは政教分離がない、それに対して、ヨーロッパは政教分離がある、といわれます。政教分離とは宗教が政治に介入したり、政治が宗教に介入しないよう、両者を分離することとされています。政教分離こそが近代国家の条件で、政教分離がされていないイスラーム世界は遅れている、政治と宗教がいっしょになると戦争が起きやすくなるという言い方がされます。

しかし、これは正しくありません。ヨーロッパが政教分離を行ったのは大体18世紀ころからですが、その結果として戦争がなくなかったかというと、まったくそんなことはありません。それどころか20世紀になって二度に亘る世界大戦でお互いに何千万人も殺し合っている。ユダヤ人だけでも600万人殺している。政教分離というのは全く平和には役に立たない。政治と宗教がいっしょになっているから人を殺すのではない。

では、何によって人を殺しているのか。それはナショナリズムです。第一次世界大戦も第二次世界大戦も基本的にナショナリズムによって人を殺している。もし平和にとって一番邪魔になる要因を取り除こうと思ったら、ナショナリズムを禁じるべきなんです。

私の本の中ではトインビーを引用しているのですが、トインビーが、イスラームが文明として果たした大きな貢献が二つあるといっています。1つがお酒の禁止で、もう1つがナショナリズムを否定したことだというんです。お酒の禁止も重要だとは思うんですけども、ナショナリズムの否定というのはイスラームにとって、もっとも重要なことなんです。イスラーム教徒の数が増えているということは、イスラーム教徒の立場からするとどうでもいい話なんです。本来のイスラームの理念を実現しなければ、数が増えても仕方がありませんから。

ですから、本来はいまこそ人類は1つであって、ナショナリズムによって人類を分断するのは間違っていると言わないといけないと思うのですが、残念ながら、逆にナショナリズムを称揚しようとする傾向がここ数年間強まっている。イスラーム国がやっていることがいいとは言いませんが、イスラーム国が国境をなくして1つにしようとしていた、というその一点に絞っていえば、本来、イスラーム教徒であれば誰一人文句を言えないはずなのに、それについてはみな沈黙を守っている。イスラーム教徒が15億人いても、それでは何にもなりません。それで私は悶々としているわけです。

あと、この本の中でこれからの世界がどうなるかということについても書いているのですが、焦点となるのはおそらくトルコです。イスラームというのはアラブというイメージがあるかもしれませんが、実は、アラブ人が活躍したのはイスラームが始まってわずか1世紀か2世紀なんですね。その後、西暦9世紀当たりからは、イスラーム世界で軍事面を支えてきたのは全部トルコ人です。トルコ系の傭兵がイスラーム世界を支えて来たわけです。今はそのことがほとんど忘れられてしまっています。石油を持っていて威張っているので、あたかもアラブ人たちがイスラームの中心と思われていますが、実はそうではなくて、注目すべきはトルコ系民族だというのも、この本の重要な主張の一つです。

―――中田先生の思想の核心をまとめていただいた気がします。それに関して島田先生の方からお話をうかがえればと思います。先生は今お酒を飲まれておられるところですが。

島田 創価学会の第二代会長の戸田城聖の講演のレコードが残っているのですが、それを聞くと戸田が酒を飲みながら話をしているんです。YouTubeでも聞けるんですが、酔っ払いの度合いの変化がよくわかる(笑)。それでも酔っ払って喋っている戸田の話を、聴衆が喜んで聞いているんです。どうしてそんなことになったのか未だに分からないんですが、その戸田の気分を味わおうかな(笑)と思って飲んでいます。ちなみに池田大作は飲めないそうです。

創価学会はいま世界宗教と称しています。特に佐藤優さんは今、創価学会を持ち上げていますね。佐藤さんは中田さんを天敵視していて「共謀罪が必要なのは、中田がいるせいだ」といっているそうですね。

中田 実は私が「私戦予備及び陰謀罪」の容疑をかけられる前なのですが、日本で国際サミットを開催するにあたって、日本からイスラーム国へ行く人がいると困るので国内法を整備しろという共同声明が出されたんです。そのころ、私はツイッターで「イスラーム国にいるよ」などと呟いていたので、そういうのを野放しにしていたらまずいという話になったんです。でも、サミットまであと一週間しかなくて新しい立法をつくる時間的余裕がなかった。そこで今まで誰にも適用されたことのない「私戦予備及び陰謀罪」というのを使ってとりあえず抑えようとしたんです。とりあえずコンピューターなどを差し押さえて外に出られないようにして、その後で国内法の整備をしようということになった。そういう事実はありました。

島田 もし警察の手入れとかがなかったとしたら、中田さんはまたイスラーム国に行っていたんですか。

中田 そうですね、行っていたかもしれません。人道支援のために少なくともトルコくらいまでは行っていた可能性はありますね。ただ、今は足が悪くて身体的に無理です。一番最後に常岡浩介さんと行ったのは日本人人質事件のときで、通訳として来てくれと頼まれたんですが、あのときも車椅子で行ったんです。

島田 中田さんはイスラーム国のリーダーのバグダディとかそういう人たちとも知り合いなんですか?

中田 いえいえ、私はそんなレベルじゃないです。バグダディと直接会っている人間はけっこう親しく話はしていましたけども。バグダディと直接には会っていないです。

島田 反ナショナリズムの国際運動の拠点みたいなものを目指しているんですか?

中田 そうですね、イスラームの、とくにスンナ派の場合には、預言者ムハンマドのあとには間違いを犯さない人間はいないというのは全ての学派が認める合意事項です。ですから、どんな組織でも必ず間違っている。100%正しいものはないので、イスラーム国も例外ではない。それはスンナ派のムスリムには当たり前であって、もちろんイスラーム国のメンバーも同じで、自分たちが間違いを犯さない、などとは思っていません。私自身はカリフがいないところではイスラーム法は適用出来ないという考え方です。でも、イスラーム国はそうは考えていません。

イスラーム国がカリフ宣言をしたのは2014年です。そのときイラクのモスルとシリアのラッカの間の中間の国境の部分を自分たちの支配領としたんです。つまり、それによって、領域国民国家システムが定めたシリアとイラクの国境をまたがる地域を実効支配することで、既存の国際システムの支配を打破した、カリフ制を再興した、と主張したわけです。しかし実はそれ以前にはISIS、つまりイラクとシャームのイスラーム国を称しており、さらにその前はイラク・イスラーム国と名乗っていたのです。つまり彼らは実は、カリフ制がなくても、領域国家のレベルでイスラーム法を施行すれば、それでイスラーム国家ができると考えており、カリフ制を再興する前に、イラクと、シリアでイスラーム国家を作った、と自認していたのである。その時点で、カリフ制再興以外にイスラームが実施される国は決して作れないと信ずる私とは考え方が全くちがうんです。

『カリフ制再興 未完のプロジェクト、その歴史・理念・未来』
『カリフ制再興 未完のプロジェクト、その歴史・理念・未来』
中田考/書肆心水

私は『カリフ制再興』(書肆心水)という本の中で、カリフ制というのは、どこかの領域に出来るものではなく、信徒の心の中に打ち立てるものだと書きました。カリフ制というのは領域性を持たない。カリフがいると思えばそこにカリフ制があるんですね。ツイッターでは私の居所はバーチャル・ヒラーファ(預言者の代理人、カリフ)と書いています。私自身の心の中ではカリフ制はすでに復活しているんです。

島田 ナショナリズムには非常に色濃いものもあれば薄いものもありますが、今の人たちのほとんどは国境を前提に物事を考えていますね。オリンピックでも自然にナショナリズムを感じていきますよね。しかし、ヨーロッパ中世では軍隊は傭兵でした。ナショナリズムに基づいて軍事活動をするんじゃなくて、自分たちがたとえばメディチ家とかに雇われて戦争をするという形態でした。彼ら自身が戦闘行為をするわけではなく、商売でやっているんです。それが、近代になって国家が徴兵をするようになると、ナショナリズムが必要とされ、戦争の形態が根本から変わっていくわけです。日本もそうですね。それに対して、中田さんの言う領域国家を否定する考え方をとっている人って世界的にはあんまりいないですね。

中田 この本のタイトルにある「帝国の復興」とは、実は、領域国民国家を超える帝国的なものです。国民国家が出来る前には多くの民族を抱えた帝国があって、いままた、そこに戻っていくような動きがある。ただしそのうち、ロシアと中国は2つの顔を持っています。領域国民国家の顔も持っていますし、それを超えた帝国の顔も持っている。それを使い分けている。領域国民国家であることを表立っては否定しませんけど、実は動きとしては領域国民国家を超えた動きが出てきているわけですね。現代のイスラーム世界はバラバラなために、本来豊かになれるポテンシャルを活用できていない。それをまとめるのがカリフ制です。

日本では帝国というと帝国主義という言葉が浮かびますが、これはいまのネトウヨのようにアジアの諸民族をバカにするものというよりは、アジアの諸民族は同胞であるという見方があったと思います。欧米諸国によって迫害されているアジアの諸民族を解放しなければならない、そのためにまとまらなければならないというアジア主義です。日本にもそういう見方があったのですが、それがいまではすっかりなくなってしまった。その意味では、帝国主義の方がいまより開かれていた部分はあったと思います。残念ながら、今は帝国化しつつある中国が、本来の儒教の徳治によって統治を広める王道ではなく覇道の方へ行ってしまっている。日本に果たせる役割があると思うのですが出てきませんね。

島田 全く出てきませんね。新宗教だって、大本教は国際連盟みたいにアジアの中でまとまろうとする道を探って中国の団体と協力し合おうとしたのですが、大本にいてのちに「生長の家」を立ち上げた谷口雅春が出てきてナショナリズムになってしまった。その中で確かに佐藤優さんがおっしゃるように創価学会は指向性としてはアジア世界というのを目指す宗教ではあります。ただ形の上ではそうでも、実質があるかどうかはちょっと難しいですね。佐藤さんはいまや、池田大作さんの代わりみたいですね。池田さん自体が機能しなくなっているので創価学会を代弁する人が佐藤さんしかいない。

「第三の文明」とイスラーム

『クルアーンを読む カリフとキリスト』
『クルアーンを読む カリフとキリスト』
中田考+橋爪大三郎/太田出版

―――中田先生と『クルアーンを読む』(太田出版)という本を出している橋爪大三郎さんが、『帝国の復興と啓蒙の未来』について公明新聞で長い書評を書いてくださいました。

その中に「わが国で言えば、国学が尊皇思想やアジア主義にあたるその思想」とあるんです。中田先生が時々お話しなさる要町のバー「エデン」で、評論家の浅羽通明さんがよくいらっしゃっていて、浅羽さんに言わせると、自分が平成の北一輝で中田さんが平成の大川周明だと冗談めかしておっしゃっています。そのことを思いかえしてみると、中田さんの思想が国学や尊皇思想やアジア主義に当たるというのは興味深いです。

島田 この本にはトインビーがよく出ていますね。池田大作はトインビーと対談しています。池田vsトインビー対談というのは創価学会のインテリ層に、ものすごく影響を与えているので、それがこういう形で出てきたので、ちょっとビックリしました。トインビーは昔は有名でしたけど、今、トインビーのことを言う人はほとんどいないですね。中田さんと創価学会って実は非常に近い関係にあるのではといま思いました。もちろん思想的には近くはないですが、どちらも世界宗教を目指しているという点は共通しているんじゃないかと思うんです。

中田 いまふれていただいた「エデン」には創価学会関係の若い人がよく来てくれて、創価学会ナイトという企画をやったこともあります。創価学会は基本的に折伏(しゃくぶく)で有名ですが、イスラーム世界では折伏をしない方針になっているそうです。折伏は、あくまでも仏教の最低限の知識があって初めて出来るので、それのないところ、世界観が全く違う所でやっても全く無意味があって、そもそも出来ないし、揉めるだけなので、それをやらないという方針なんです。その点はイスラームも同じです。

イスラームはキリスト教とはもともと同じ宗教なのでアダムとかモーゼとか同じ人間がいっぱい出てきます。ですからある程度は話が出来ます。でも、日本みたいにそうではないところでは話が通じないので放っておきます。それと実は似ているんじゃないかと思っているんですけども。

島田 中田さんがまだ同志社大学の先生で、しかも私戦予備及び陰謀罪も関係ない時代で(笑)、なおかつ池田さんが元気だったら、もしかしたら対談とかしたら面白かったでしょうね。池田さんは対談するときには、日蓮仏法や創価学会の話をしないのですごく、合ったんじゃないですかね。

創価学会のスローガンのひとつに第三文明っていうのがあります。第三文明社という出版社が雑誌を出していますけど、池田さんが目指していたのは「第三の文明」を提起していこうという文明論の宗教なんです。ですから、もし中田・池田対談が実現していたら、中田思想が創価学会に影響をしていたかもしれない。佐藤さんはそこまで踏み込んで文明論を展開していないので興味深いことになったと思います。

この本は今までの中田さんの本とはちょっと違いますね。イスラームっていう枠じゃなくて、もっと文明論を語る学者としてここに出ている、この本を書いた動機は何なんですか?

中田 私はこれまでカリフ制の仕組みについては書いていますが、それを理解するにはカリフ制の世界的な意味をちゃんと理解しないとそもそも出来ない。それをしようと思ったんです。ウエルベックという作家がフランスのなかにイスラーム政権が出来る『服従』(河出書房新社)という未来小説として書いていて、内容は浅いのですが、実際にヨーロッパで想像しうる未来の可能性として考えられるということがひとつのきっかけですね。

島田 さっき言ったように、イスラームがこれから広がっていって、キリスト教がどんどん衰退していくっていく事態が起こりえないことではないですね。

中田 実際に起こりえると思います。いわば古代ローマ帝国の復興なんです。地中海世界に広がったローマ帝国はイスラームとキリスト教の世界をのみこんでいました。イスラーム世界は東南アジアにも広がっていますが、とりあえず中東や地中海世界を見ますと、ギリシャやユダヤも文化的に近い世界で地理的にも近く、経済的にも合理性があるので、一つにまとまれるのではないかという話です。実際、トルコが目指しているのはその方向ですので、それもあり得る未来の1つかなと思います。

今から5年前、世界がこんなふうになるとは誰も思っていませんでした。その意味で実はたくさんの未来が開けていく、そのことに気づいてもらいたいというのがありました。いまは、それくらいたくさんの選択肢がある。逆にいうとぐじゃぐじゃなんですけど、ぐじゃぐじゃだということはいろんな可能性があるということでもあります。その可能性の1つとして、中東世界とヨーロッパが仲良くして、それによって中国・ロシアとアメリカと均衡を達成するのが私が考える平和のイメージです。いま平和というと、とにかく治安を厳しくするという方向で実現しようとしていますが、そうではなく勢力均衡によって自由に人が動けるようにして平和や安定を実現するという方向性です。それは国際関係論の基本でもあるのですが。

島田 今の民主的であるとされている領域国家の多くでは、国民が大統領を選びます。大統領という存在は宗教とは全く無縁なところにある存在ですね。つまり政教分離を徹底しながら民主制をとって大統領制を敷くシステムです。ところがその前は日本の天皇みたいに宗教的権威を身にまとった存在があって、その存在が国家という枠を超えて、同一の宗教を信仰する人たちの間で共通の1つの権威として君臨していた。仏教では転輪聖王という考え方があり、イスラームにはカリフ制がある。ローマ教皇だってそうだです。そういう存在が頂点に立つ体制が、中世、近世までつづいてきた。どっちが正しいか、好ましいかは別として、近代は前者の方を選択したわけですね。そこに大きな問題点がある。

中田 そうですね。そこにはあまり踏み込まなかったんですけれども、最終的には死の問題になるわけですね。現世は死んでしまえば終わりですが、世俗社会はそこは棚上げします。基本的には生きている方がいい。できるだけ長く生きて、命が一番大切だという価値観です。しかし命が大切だと言いながら、人間は必ず死んでしまうわけで、死んでしまえばお仕舞いなわけです。この問題はけっして解決できない。

ところが、イスラームでも仏教でもキリスト教でもいいんですが、最終的にはこの世界の先の世界があることによってこの世界を基礎づけるという考え方がある。それなしに基礎づけをしようとすると、いろんなところで問題が出て来る。「お国のために死ね」というのもそうですね。人間は結局、死んでしまう。世俗社会はそこから目を逸らして、死を遠ざけようとする。本当に遠ざけられればいいんですけど、遠ざけられないわけですよ、結局死んでしまいますから。

個人主義が進むと、子供はどんどん減っていきます。すると老人が増えていって、若い人間が減っていなくなる。この問題は、おそらく世俗主義や国民国家という枠組みでは解決出来ない。ほんとはこちらが一番根本的な問題であるんですけど、これは政治とは関わらないので、この本では書いていないですけれど、そういう背景があるのはたしかですね。

ウエルベック「服従」の根底にあるもの

『服従』
『服従』
ミシェル・ウエルベック/河出書房新社

島田 先ほど中田さんが取り上げたウエルベックの『服従』という小説ですが、あの小説自体はくだらないし、イスラームのことも分かっていない感じがするのですが、あの本には、フランス人の中に服従に対する強い憧れがあることがはっきり現れていますね。フランスは革命によって宗教的権威である教会を撲滅しようとした。だけど結局のところ、キリスト教的な考え方が教会を抜きにしてもやっぱり存続している。無理に政教分離を強行しているが故に、逆に「何かに服従したい」という願望が強まっている気がするんです。ミシェル・フーコーの議論にしても、権力構造を指摘しているように見えて、実は権力に服従することへの強い憧れが表現されている思想ではないかと僕はずっと思っていたんです。そういう意味で「服従」というタイトルには、カトリックに戻るわけにはいかない、だけどイスラームにはいけない。神の言ったことをそのままやるイスラームは西洋の合理主義者からすれば理不尽な宗教です。しかし、あの小説の根底には、そういう理不尽で不合理なものへの強い憧れが、あるような気がするんです。

中田 ちょっと文脈の違う話ですが、フランスは自分たちは自由・平等でなんにも服従しないということを、強く主張するわけです。でも、なにかを強く主張するときには、必ずそこに裏、隠されたコンプレックス、トラウマがある。実際に、フランス革命をやった後に、ナポレオンが出てきて皇帝にわざわざ選んでしまう。その後、せっかくナポレオンがいなくなった後に、ナポレオン三世というものまで出てきてしまって、マルクスに笑われる(笑)。実は彼らは全然自由を愛してなどおらず、独裁者が大好きなんです。ヒトラーにもすぐ降伏してペタン元帥の独裁のヴィシー政権ができるし、第二次世界大戦後も、ドゴールが「強い」大統領になる。特にシャルリーエブドの事件のときはひどかった。テロが起きたといって国民全体が1つにまとまって旗を振る。自由でも何でもない全体主義者なんです。そういうことが、彼ら自身に意識出来ていない。それが先程言ったようなトラウマということにかかわってくる。その意味で、おっしゃる通り、彼らは、実は服従に対する憧れがすごく強い。その裏返しで自由を言っているんだと思います。

島田 だから、フランスをイスラーム化するっていうことが、ある意味フランス人の解放になり得るという可能性があるってことですね。

中田 実際、先程ヨーロッパでイスラーム教徒に改宗した人たちの記事の話をしましたが、彼らはまさに自分たちは解放されたといっているんですね。ですから、ある程度の合理性は絶対にあるわけです。

島田 スペインが、イスラームに支配されていた時代っていうのはどうだったんですか?

中田 非常によかったというふうに思いますね。もちろんスペイン人はそうは言わないとは思いますが(笑)、少なくとも、スペインはそのあと異端審問の嵐が吹き荒れるので、どう考えてもイスラームの時代の方が寛容でよかったとはけっこう言われますね。

島田 イスラームに異端審問という考え方はないですよね。

中田 ないですね。無理矢理に言わせるというのはない。異端審問とは言ってもやってもいないことを無理矢理に言わせるわけです。イスラームでは、基本的に内心は出来るだけ隠そうとするので、全く逆になります。内心は信じていないとしても、そこはあえて突っ込まない。

島田 すると世界がイスラーム化した方がいいと言うことですかね(笑)

中田 もちろん、そういうことです(笑)

島田 日本人にもそういう感覚ってあるんですかね?

中田 私はそう思いますけどもね。

島田 少なくとも日本にも結婚などでイスラーム教徒の人が、かなり入っていますけれど、トラブルはないですね。

中田 大きなトラブルはないですね。ヨーロッパだとイスラーム教徒を焼き殺したりというようなことが起きていますが、そういうことは日本ではまだありませんし、イスラーム教徒の側がテロを起こすということもあまりありませんね。もちろん少数派だからということはありますが、今のところそういうことは起きていないですね。

島田 日本という国はよい意味でいい加減な宗教観があって、キリスト教のように正義とか、正統とか、異端とかそういうものを区別する考え方をとらないですよね。他宗教に対しても、「それは悪魔が付いている」というふうには捉えない。イスラーム教徒が入ってきたとしても、熱心な宗教活動をすれば日本人からは立派な人たちだとおそらく捉えられる。自分たちとの習慣とは違うことをやっている危険そうな人たちという受け取り方はしないと思うんです。

『日本人とユダヤ人』
『日本人とユダヤ人』
イザヤ・ベンダサン/角川文庫ソフィア

中田 まあ、そうですね。これは、今の若い人は知らないと思うんですけど、イザヤ・ベンダサンって、私が若い頃にすごく流行った思想家がいます。本名は山本七平ですけども、彼の考え方は、いまだに妥当性があると思います。山本七平は日本人は日本教徒だという考え方をした人です。たとえば、日本のキリスト教徒はあくまでも日本教徒のキリスト派であって日本教徒なんです。日本教のベースには基本的に「日本人=人間」という見方がある。日本人なら「ちゃんとした人間としての常識をわきまえ」ていなければいけないけれど、無知な外国人がやることならば大目に見られているということがあると思います。日本人が同じことをやると、暴力を振るわれることはなくても、職場にいられなくなるとか、おそらくかなりの反発を受けるのではないでしょうか。外国人だったらなんの問題もないですけどね。

島田 小池百合子さんは日本教徒なんですか?

中田 えぇ~とですね、非常に微妙というか、私は小池百合子さんはアラブだといっていいと思います。アラブというのは、実は2つ考え方があります。アラブ人を父親とするものがアラブ人という血統主義と、アラビア語を喋る者がアラブ人という2つの考え方が古くからあるんです。アラブというのは大きく分けてカフターン族とアドナーン族という2つに分かれるんですけれども、カフターン族というのはもともとの生粋のアラブ人で、周辺の民族がアラビア語を喋るようになってアラブ化したのがアドナーン族なんです。実はこの中に、アブラハムとかイスマイルといった預言者の系統が含まれる。ですので、彼らは、アラブ化したアラブ人です。つまり、アラビア語をしゃべればその人間はアラブになるわけです。なので私もアラブなんです。小池百合子も当然アラブなんです(笑)

―――アラブ人女性首相が現れるかもしれないんですね。

島田 少なくとも都知事ではあるからね。東京都をアラブ人が支配している(笑)

―――アラビア語通訳なんで、喋れるわけですよね。

中田 喋れますよ。アラブはまだエジプトあたりに行くと文字の書けない人がいますから、それに比べれば我々の方が遥かに「アラブ文化人」なんです(笑)。当然、彼女もアラブ人として扱うことが出来る。思考様式も、私も含めてですけれども、アラビア語を喋らせると人格がガラッと変わるんです。私も日本語では、こういうふうに温厚に喋っているんですけど、これが全然変わってしまう。キツくなるんです(笑)。基本的にアラブ世界は、言葉も違うし、民族も違う人っていっぱいいるんで、日本のような忖度とかはあんまりないんですね。

島田 あまりじゃなくて、全然ない。

中田 全然ないですね。言いたいことは言う。言いたいことを言って、10のものが欲しければとりあえず1万って言うというところから始めるんですね。そういうことを日本でやると「恥ずかしい」とか「要りません」というところから始めたりする。交渉のパターンが全然違うわけです。そういう点から小池百合子を見ると、「ああ、アラブ人だな」と感じます。

島田 どこが一番アラブ人ですか。

中田 これはイスラーム的にいいことではないですけれども、とりあえず「今よければいい」という考えですね。たぶん「希望の党」も、あくまで自分が総理大臣にステップアップするためにあるような気がしますが。

―――彼女はどうしてカイロ大学に行ったのですか?

中田 もともと小池百合子さんのお父さんが本物の右翼だったんです。戦前は大陸浪人といって、大東亜共栄圏を目指して王道楽土を作ろうと言って世界に出ていった人たちがたくさんいたんですが、その生き残りの一人が小池さんのお父さんでした。石油関係の仕事をしていたのですが、私自身もカイロに留学していたとき小池さんのお父さんに連れられて戦前に日本の外務省のアフガニスタンで工作活動をしていた方やエジプトで文化大臣をされていた方に紹介されたりというつながりはありました。

当時はエジプトとかインドネシアなど石油もあればイスラーム文化もある、そういうアジアの国々をまとめて戦前の夢をもう一度という人たちがいたんです。小池さんのお父さんもそういう方で、その影響で、小池さんはエジプトに行っている。ですから、いま国粋主義的なことを口にしていますが、もともとそういう人なんです。

島田 アラブの大学を出た日本人は珍しいですよね。

中田 実際、アラブの大学を卒業した人間は20数人しかいません。女性は3人でそのうちの1人です。あとの2人はイスラームの大学なんですね。非常に珍しいんです。

―――ちょうど、東京都知事が、アラブ人だというこ、そして、もしかしたら「第三文明」としてカリフ制が実現するかもしれない。まさにこの場所にいる我々にも共謀罪が適用されかねないラジカルな?結論になりました。お2人ともありがとうございました。

(司会:穂原俊二/構成:田中真知)
島田裕巳 プロフィール
一九五三年東京生まれ。宗教学者、作家、東京女子大学非常勤講師。76年、東京大学文学部宗教学科卒業。84年、同大学大学院人文科学研究科博士課程修了。専攻は宗教学。日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員などを歴任。日本宗教から出発し、世界の宗教を統合的に理解する方法の確立をめざす。主な著書に『なぞのイスラム教』 (宝島社)、『葬式は、要らない』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『もう親を捨てるしかない』(以上、幻冬舎新書)、『戦後日本の宗教史』(筑摩選書)、『ブッダは実在しない』(角川新書)など多数。
『帝国の復興と啓蒙の未来』
『帝国の復興と啓蒙の未来』
著: 中田考
カバー写真: 伊丹豪
発売: 2017年7月18日
価格: 2,500円+税
ISBN: 978-4-7783-1585-6
*全国書店&通販サイトで好評発売中
本を購入する Amazon.co.jp お試し読み Yondemill.jp
*当連載は「『帝国の復興と啓蒙の未来』出版記念特設サイト」から「Ohta Collective」に移設しました。連載第1回「どうなる「イスラーム国」消滅後の世界?」は特設サイトでお読みいたけます。

OVERVIEW
概要

“未来の宗教はどうなるのか? これから世界はどうなるのか?
イスラーム、ムスリム、宗教、どんな疑問にもお答えします!”
at
LOFT9 Shibuya

2017年10月4日(水) 18:00-19:00
東京都渋谷区円山町1-5 KINOHAUS(キノハウス)1F
http://www.loft-prj.co.jp/schedule/loft9/74752

WRITER
執筆者

  • 中田考
    なかた こう
    中田考

    一九六〇年生まれ。同志社大学客員教授。一神教学際研究センター客員フェロー。八三年イスラーム入信。ムスリム名ハサン。灘中学校、灘高等学校卒。早稲田大学政治経済学部中退。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。カイロ大学大学院哲学科博士課程修了(哲学博士)。クルアーン釈義免状取得、ハナフィー派法学修学免状取得、在サウジアラビア日本国大使館専門調査員、山口大学教育学部助教授、同志社大学神学部教授、日本ムスリム教会理事などを歴任。著書に『イスラームのロジック』(講談社)、『イスラーム法の存立構造』(ナカニシヤ出版)、『イスラーム 生と死と聖戦』(集英社)、『カリフ制再興』(書肆心水)。監修書に『日亜対訳クルアーン』(作品社)。

    連載一覧: 中田考の近未来、世界はこうなる!講座