医師にとって患者の死の意味するところは? 得るものはなんでしょう?
患者さんをお看取りするとき、担当医からみた「死」にはいろんな側面があります。前にも書いたように、医師は「神」ではありませんので、一人の人間として、壮大な人生の終焉〔しゅうえん〕に立ち会う際には、重く複雑な感情が渦〔うず〕巻きます。
お看取りする機会は他の科の医師よりも多いので、「慣れ」がないわけではありませんが、死の意味の重さが軽くなることはなく、旅立ちの時を迎える一人ひとりの患者さん、あるいは、死にゆく過程の貴重な時間と空間を共有しているご家族やご友人とともに、その意味を受け止めています。
ただ、どんな感情が起きようとも、医師としての仕事を全〔まっと〕うしなければなりません。医師には、冷静な立場で、死亡したことを診断し、法律上の「死亡時刻」を宣告し、死亡診断書を作成するという業務があります。
そういう業務上の視点からみた患者さんの死は、「3人称の死」と言われます。ニュースキャスターが淡々と伝えるような、あるいは、交番で「昨日の交通事故 死者〇人」と掲示されるような、客観的な「死」です。
でも、大事な患者さんが亡くなり、永遠のお別れとなるわけですので、担当医として悲しくないわけがありません。最愛の家族を亡くすときの「2人称の死」まではいかないとしても、「2.5人称の死」くらいにはなるでしょう。担当医として、「2人称の死」と「3人称の死」の間で、こみ上げる涙をおさえながら、できるだけ冷静に、死亡確認を行っているわけです。
仕事柄、「死」について考える機会は多く、いつか迎えるであろう自分の死、すなわち、「1人称の死」について想いを巡らせることもよくあります。大事な患者さんを看取ったあとの夜、患者さんの死に、自分の死を重ね合わせて、あれやこれや考えこんだりもします。でも、それを考える私は、今は生きているのであって、「1人称の死」は、その日を迎えるまでは、けっして、想像以上のものとはなりえません。結局は、「死」については、ほとんど何もわかっていないということです。
「1人称の死」は得体の知れない恐ろしいものであり、想いを巡らせるだけでも、何かに押しつぶされそうな、あるいは、底の見えない暗闇に吸い込まれるような、言いようのない不安な気持ちになります。そして、「2人称の死」は、現実的な断絶、喪失として、重く深い悲しみをもたらします。
死から超越した神であれば、このような感情に苛〔さいな〕まれることもなく、すべての死を「3人称の死」として冷静に扱うことができるのかもしれませんが、人間である医師には難しいことです。でも、この意味と向き合い、考え続けることこそが、医師の大事な仕事なのではないかと思っています。
私が医学生だった頃、現実としての死に触れたことはほとんどないというのに、自分がこれから向き合うであろう「死」について知ろうと、いろんな書物を読み漁〔あさ〕った時期がありました。その頃に書いた文章〔*〕を読むと、若かったあの頃の想いが今の自分にも伝わってきます。あの頃から今に至るまで、そして、これから私が死を迎えるまで、答えのない「死」についての問いについて考え続けるのが、私のライフワークだと思っています。
〔*〕高野利実「21世紀の「医」を考える」第3回「『医』と『死』」(『鉄門だより』5521、1997年3月号)
http://toshimitakano.c.ooco.jp/2-7/11.html
医学生の頃に、私は、こんなことを考えていました。
誰にとっても避けられない、いつかは迎える、運命づけられた「死」。そんなものを内在させながら誕生する「生」とはなんなのだろう。「生」には、「死」を超越するだけの意味があるのだろうか。「死」をも超えて残される「生」の意味があるとしたら、それは何だろう。
この問いに対して、当時の私が見つけた答えは2つでした。1つは「遺伝子」で、もう一つは「脳の共有」です。人間は、死を乗り越えようという欲求を、「遺伝子」を残し、守るという欲求と、「脳の共有」という欲求に置き換えて、日々の生を送っているのではないかと。
「遺伝子」は、先祖から引き継がれ、子孫に引き継いでいくもので、自分の生を形作り、彩〔いろど〕ったDNAは、自分の死後も子孫の中で生き続けます。子供を作ろうとする欲求、生まれた子供を守り抜こうとする欲求は、死を乗り越える欲求とつながっているのかもしれません。
「脳の共有」というのは、私の恩師でもある養老孟司先生がよく使っていた言葉です。身体を共有することはできず、死後に残すことはできませんが、脳の中身は形を変えて残すことができます。人間が他人と接し、会話を交わし、文章を書いたり、様々な文化的・社会的な活動をしたりするのは、「脳の共有」をしているということに他ならず、そうやって、人とつながったり、文章や芸術などで表現しようとする欲求もまた、死を乗り越える欲求とつながっているのかもしれません。
さらに、「遺伝子」と「脳の共有」の欲求を包含するものとして、「愛」がある、というのが、当時の私の持論でした。遺伝子を残す欲求も、人とつながる欲求も、「愛」の表れであり、「愛」こそが「死」を乗り越える究極のものであると。
私自身の結婚式は「人前式」でしたが、キリスト教式で使われる「死が二人を分かつまで」というフレーズを、「死が二人を分かつとも」と書き換えた「誓いの言葉」を二人で述べました。死が二人を分けたあとでも永遠に続く「愛」の存在を高らかに宣言したわけです。この「愛」が今どうなっているかは置いておくとして、実際に、「愛」は死を乗り越えうるものだと、今も思っています。
この文章を私が書いている今、冨田さんは、この世にはいません。冨田さんは、人生の幕を閉じようとする病床で、最期のときまで、本書のことを気にしていて、死後であっても、この本が世に出ることを望んでいたそうです。その想いは、私の脳にも共有され、こうして、私の脳の中身とも混ざり合って、本書が形成され、さらには、これを読んでくださっている読者の脳にも共有されているわけです。冨田さんの死という現実に対して今の私には何もすることができませんが、冨田さんの「脳の共有」をお手伝いすることで、冨田さんの「生」の意味を高めることに少しは貢献できているのかもしれません。
冨田さんと中嶋さんご夫妻の「愛」もまた、冨田さんの死後も、確実に生き続けています。それは、冨田さんと中嶋さんの文章に、ありありと感じられ、多くの読者の脳にも共有されているわけです。
人間は、死を避けることはできませんが、死を乗り越えることはできるのかもしれません。そして、死を乗り越えるのに必要なのは、「医学」でも「神」でもなく、「愛」であり、それは、人間にもともと備わっている究極の力なのだと思います。
「死」と向き合っている患者さんにとっては、こんな観念的な話は現実離れしていると感じられるかもしれません。こんな話をここで書くのが適切なのかもわかりませんし、「これが死を乗り越えるための答えだ」と言って押し付けるつもりもありません。
でも、医学でも避けることができない「死」と向き合うとき、それを乗り越える可能性、あるいは、人間に備わった「愛」の力について想いを巡らせることは、死にゆく人にとっても、それを看取る人々にとっても、救いになるのかもしれません。
わからないことだらけですが、「死」の意味については、私なりにこれからも考え続けたいと思っています。
それが、今回の質問に対する答えですが、天国の冨田さんの本音もぜひお聞きしたいところです。
がんというこの病気から生還した方のコメントが雑誌等に紹介されることがあります。それを読んだ患者さんは思います、その方はどんな治療をしたのだろうか、なぜ自分に奇跡が起きないのだろうかと。
前世で悪いことをしたのか、治療方法が間違っているのか、病院を変えたほうがよいのか、風水が悪いのか、親が悪いのか、自分が悪いのか。患者さんも、ご家族も頭の中は収拾がつかず、疲れきってしまいます。
たぶん、主治医に訊いても怒られるか、笑われるか、軽くあしらわれるか、正面から受け止めてはもらえないはずです。
香保里さんのコメントが、ある民間療法の手作り機関誌に掲載されたことがありました。その記事では、目黒区のN・Kがその療法のおかげで症状がおさまり、完治したことになっていました。
私から見れば、むしろ悪化しているようにしか見えないのに、香保里さんが商品注文の際に電話で話した、その治療にたいする期待や思い、お世話になっているという感謝の言葉が「改善した」と誤解あるいは勝手に意訳され、コメントとして掲載されたのです。
香保里さんには、そのコメントどおりに完治したい、よくなりたいという気持ちが強くありましたから、当時、あの記事を未来予知(こうなってほしいという願望)のような気分で読んでいたのではないでしょうか。
東北の田舎町で、世のため人のためと思い、こつこつとお年寄りが小さな商売をされていると思うと、民間療法の機関誌に苦情を言う気にはなりませんでした。
しかし、この香保里さんのコメントを読んで、民間療法を試そうとする方々がいるのではないかと思うと、胸が痛みました。
私は、このような商売を、無邪気な善意のビジネスだと思います。
この病気の方々やご家族は、よい情報がほしいのです。自分の治療が成功した他の事例を聞いて安心したいのです。それが一番うれしい情報なのです。
転移や再発の不安、恐れが入り混じった治療生活から解放されて、苦痛も副作用もない、快適な日常生活を送りながらやがて完治する。そんな夢のような治療法がないものかと探し続けるのです。
しかし、医学的エビデンスに基づいた治療を指向する良識ある医師は、患者さんを糠喜びさせるようなことは、決して言いませんし、大抵の代替医療や民間療法を否定し、忌み嫌います。
主治医に、マジナイのような話や、安心感だけの治療を求めるわけではありませんが、代替療法や民間療法には、医学的に信頼性の確立した標準治療では満たされない、切実な願いに光をあててくれるような、独特の魅力があるような気がします。
無邪気な善意のビジネスが、人びとの心に入り込む隙〔すき〕はそこにあるのだと思います。そして、がん患者や家族や、その周りに多く存在する、善意のコミュニティを通じて拡散していくのです、マルチ商法のように。知らず知らずのうちに、自らが加害者になっていくのです。
友人の紹介から、健康食品の問い合わせから、患者会から、代替療法の施術者や医師から、インターネットから。
その中には、善意の仮面を被〔かぶ〕ったオオカミ君もいるのです。もっとも厄介なのは、自分がオオカミ君だと気付かない方々です。
いわゆる自費診療主体のクリニック系の病院で、代替療法と、美容効果を高める治療・施術をメニューとして同列に掲示しているところは、オオカミ君であることを自覚しているのです。しかし、オオカミ君であることを隠すために、もっともらしいHPやセミナー、出版、空間環境等のプレゼンテーションという衣装を上手に身にまといます。
藁にもすがる気持ちが強くなると、患者さんには、彼らがオオカミ君とは見えなくなってしまうのでしょう。冷静になれば、美容効果を求める方々の近くで、生きるか死ぬかの治療ができるとは普通は思わないものですから。
(前回に続き、冨田香保里さんからの質問への私のお答えを続けます。)
冨田さんは、「医師は、患者の病状に対して常にネガティブな見解を述べます」と書いていますね。患者さんにとって「ネガティブ」と思われるような現実が待っているのであれば、それをある程度は伝えなければいけないわけですが、ネガティブなことを言ったあとには、必ずポジティブなことを言い添えるようにします。ネガティブなことを言わないようにすれば解決するという問題ではないというのが難しいところです。
前にも書いたように、「治らない」という事実はきちんと伝えるべきだと思っています。冨田さんは、「ウソでも『治る』と言ってほしい」と書いていますが、ウソをつくのはいけません。現実と違う説明をして、そこに希望を持ってもらうというのは、そのときはいいにしても、結局は「見せかけの希望」にすぎませんので、いずれ、患者さん自身が、厳しい現実に気づき、医師の説明がウソだったと知ることになります。
そこで直面する現実というのは、期待が大きかった分、より絶望的に感じられるかもしれません。そのあとで、医師がいくら「希望」の言葉を添えても、なかなか信用してもらえません。現実から目を背け、「見せかけの希望」にすがりつき、その見せかけの希望のために過剰な治療を受け、そのあとで絶望的な現実を知るよりも、まずは現実を受け止めた上で、その現実の中から「真の希望」をいかに見出すかが重要なのだと思います。それは容易なことではないわけですが、だからといって、安易に、「見せかけの希望」に逃げてしまうのは得策ではありません。
私は、治らないがんと向き合っている患者さんには、「治らない」という事実を伝えます。その上で、「でも、」と続けるわけです。
「がん細胞が体からすべて消えてなくなることを『治る』と言うのなら、冨田さんのがんは、治りません。がん細胞を根絶することを目標に負担の大きい治療をあれこれやっても、結局その目標は達成できません。でも、がん細胞をゼロにすることがそんなに重要でしょうか。たとえ、ゼロにならなくても、それが悪さをしないように適度に抑〔おさ〕えながら、うまく長くつきあっていくというふうに考えたらどうでしょうか。うまく長くつきあって、『天寿〔てんじゅ〕』を全〔まっと〕うできるとしたら、それは、『治る』のとどう違うでしょうか。がん細胞がゼロになるかどうかよりも、いい状態を保ちながら長生きすることの方が重要ですよね。これからは、『がんとうまく長くつきあう』という目標に向かって、そのためにプラスになるような治療を選び、マイナスになるような治療は使わず、力を合わせてやっていきましょう」。
「天寿を全うする」という言葉を私はよく使いますが、この言葉の意味は曖昧で、患者さんの受け止め方も様々です。そんな曖昧な言葉は使わない方がよいという意見もあるかもしれませんが、「いい方の可能性」を、幅を持って表現するには、ちょうどよい言葉だと、私は思っています。
「天寿」というのは、「天から授〔さず〕かった寿命。自然の寿命」という意味だと、『大辞林 第三版』に書いてあります。多くの人がイメージするのは、「平均寿命よりも長生きして、老衰で亡くなる」という感じでしょうか。がんで命を落とすのは、どうも「自然」とは思われていないようで、「天寿を全うした」というよりも、「非業〔ひごう〕の死」と表現されることが多いようです。
がん患者さんが「天寿を全うする」のは、「がんで命を落とすのではなく、それ以外の原因で命を落とすこと」なのかもしれませんが、がんでなくとも、不慮〔ふりょ〕の事故で最期を迎えたりしたら、「天寿を全うした」とは言えないですね。逆に、日本人の死因のトップを占める「がん」という病気で亡くなるのは、誰にでも起こりうる「自然」なことであって、それが「天から授かった寿命」なのだと言えなくもありません。
死因が何であれ、年齢がいくつであれ、その人なりの人生を生き切ったのであれば、「天寿」なのではないかと思います。「生き切る」というのも曖昧な表現ですが、自分の人生を振り返って「幸せだったなあ」と思えること、まわりの人たちに感謝しながら、満足して死を迎えられること、と言い換えられるでしょうか。
不条理な死に直面しながら、満足なんてできるわけがない、と思われるかもしれません。でも、がんで最期を迎える方の中には、「天寿を全うした」と思える方が、確実にいます。それは、年齢とは関係なく、私よりも若い方をお看取〔みと〕りするようなときにも感じることがあります。
ただ、現代の日本人で、そうやって最期を迎えられる方というのは少数派です。「もっと長く生きられたはずなのに、無念だ」という「不全感」や「満たされない気持ち」を抱きながら終焉〔しゅうえん〕の時を過ごす方が多く、特に、がん患者ではその傾向が強いようです。
「10年後に生きていればもっといい治療を受けられたのに」「アメリカにいたら、夢の新薬を使えたのに」といった思いを抱く患者さんも多くおられますが、この傾向は、新薬が多く開発され、医療が進歩すればするほど強くなっているように感じます。実際、この10年でがんの治療はだいぶ進化していますので、10年前に無念の死を遂〔と〕げた患者さんが切望していた医療が、今ここにあるわけですが、結局、それで満足は得られていないということです。「10年後」を夢見る患者さんが10年後にタイムスリップできたとしても、やはり、「満たされない気持ち」は変わらないのではないかという気がします。
逆に言うと、今のような医療がなかった時代、たとえば、抗癌剤なんてものが存在しなかった20世紀前半の人類の方が、満足して最期を迎えていたのではないか、「天寿を全うした」と言える方が多かったのではないか、と想像します。
がんとうまく長くつきあって、天寿を全うすることを目指す。これこそが、治らないがんに対する医療の目的なのだと、私は思っています。新薬を開発し、がん医療を進化させていくのが、われわれの使命ですが、それと同時に、「天から授かった寿命」を生き切るには、医療の限界についても知り、がんという病気の意味、人生の意味、そして死の意味について思索〔しさく〕していく必要があるのだと思います。
今ある医療の中で最善を尽くしつつ、ときには、そういう医療を受けられることに感謝しつつ、医療を超えたところにある「幸せ」を一人ひとりが見つけることが重要なのではないでしょうか。
医師は、神ではありませんが、私は、人間として、患者さんとともに「死」と向き合い、「生」を楽しみ、「幸せ」を語り合いたいと思っています。
冨田さんとも、生前にもっと、こんなことを語り合ってみたかったですね。
私は1999年にそれまで勤めていた会社を辞め、中目黒で餃子屋を営んでおりました。
当連載担当の赤井さんもよく来ていただいていましたし、友人たちや香保里さんの仕事関係者もよく顔を出してくれましたが、実際の収入はひどいものでした。
ランチの準備のため、朝9時には家を出て、帰りは深夜1時頃、定休日も仕込みと掃除、年末は31日まで営業し、年明け2日には営業という生活でありながら、実収入は、会社員時代に比べるべくもないものでした。
月末になると、仕入れ先の支払いに充てる店の売り上げを生活費として家に入れ、仕入れ分の支払いは猶予〔ゆうよ〕してもらうという自転車操業です。
そのくせ、古い友人が来れば、一緒になって飲んでしまい、一晩中店でDJをして、泥酔〔でいすい〕して家に帰るというだらしなさです。
香保里さんの仕事上での変化が顕在化〔けんざいか〕しはじめた時期でしたから、私の独立開業に続き、商売や経済観念に無自覚な私の生活態度は、相当なストレスや不安を香保里さんの心に与えていただろう、と後になって思いました。
2002年6月には、香保里さんが親しくしていた、イラストレーターでコラムニストの友人が、深夜帰宅途中のタクシー内で心臓発作を起こし、車内で亡くなるという出来事がありました。その友人の死は、香保里さんに甚大〔じんだい〕なショックを与えることになりました。
その日、亡くなった友人と彼女の古い友人、香保里さんの三人は、私の餃子屋で食事をしていました。亡くなった友人が食後、これからみんなでカラオケ行こうよと誘いましたが、もう一人の友人が明日入稿だから今日は帰るといって、三人は店を出て、中目黒の駅前で別れたとのことです。
香保里さんは、もし一緒にカラオケに行っていたら、発作が起きても救急車を呼び、病院に連れて行けたら、助かったのでないかと悔やんでいました。
コラムニストとして週刊誌の連載も順調で、イラストレーターとしても絶頂期の彼女は、その特徴的な身体と健康に不安を持ち、香保里さんに相談していたようです。
そして、今度こそ病院へ行く、と本人もやっとその気になった矢先のことだったので、もっと早く、強引にでも病院に連れて行き、診察してもらえば良かったんだと毎日泣いていました。
家の中は暗く、私には堪えがたかった。店を言い訳に、朝は可能な限り早く家を出て、夜はできるだけ遅く帰る。香保里さんの悲しみから逃げるような毎日でした。
約一年後の2003年9月に告知を受け、香保里さん本人が死と向き合う生活が始まります。私は逃げ場となっていた餃子屋を閉め、香保里さんの治療生活をバックアップするために、フリーランスで仕事を始めました。
しかし、その後数年間は、バックアップするどころか、店を閉めるために内緒で借金したことが香保里さんに発覚したり、私がフリーの仕事の収入をごまかしたり、諍〔いさか〕いが絶えませんでした。
香保里さんも私も、告知当時ハッキリと離婚を考えていました。でも不思議なことに、冷静に正面から話し合うことはありませんでした。
治療方針や今後の生活について、毎日言い争いが起きます。その中で、「出ていく」、「死んでしまう」と、感情的になって別れを口に出しても、喧嘩が終わると、そのことにはお互い触れないのです。
香保里さんは、離婚したらこの人は本当に出鱈目〔でたらめ〕なまま人生を終えてしまう、と心の底から考えていました。自分が何とかしなければという責任感を持ち続けていました。
当然、病気を抱えて一人で生活していけるかという不安はあったと思いますし、治療方針が不明確のままでは、両親に病気のことを話すこともできずにいました。
香保里さんの病気が、なぜ・いつ発症したか、はっきりとはわかりません。でも1999年頃から2003年9月まで、仕事上の壁に突き当たり、連れ合いの独立開業、友人の死といった、過去に経験のない精神的・肉体的ストレスや不安が重なったことが、この病気の一因であったのかと思っています。
医師は神様じゃありません。少なくとも、私は神様じゃなくて、普通の人間です。
「ゴッドハンド(神の手)」を持つという外科医が、「スーパードクター」と紹介され、よくテレビに出てきますが、神様とは、そういう医者のことでしょうか? 不器用な私の手は、ゴッドハンドとは程遠く、緊張すると震えるし、患者さんに問い詰められると、冷や汗をぬぐったり、無意味な動きをしたり、落ち着かなくなります。私の手は、まぎれもなく、「人間の手」であり、手だけではなく、顔つきも、心も体も、こてこての「人間」です。
患者さんにとっては、神様と、人間と、どちらがお望みでしょうか? 手術を受けるのなら、不器用な医者よりも、指先の器用な外科医の方がいいですよね。私だって、自分が手術を受けるのなら、そう思います。でも、最近は、「ロボット手術」も実用化され、人間(外科医)の遠隔操作のもと、正確な手術が行われています。ロボットが神業〔かみわざ〕のような手術をしてくれる時代も遠くなさそうですが、かといって、ロボットが神様になるわけではないですね。
神様のように人間離れした仕事をこなすロボットができたとしても、診察室には、ロボット医者ではなく、人間味のある医者にいてほしいと、多くの患者さんは思うのではないでしょうか。
だいぶ話がそれてしまいましたが、冨田さんが問題にしているのは、そういうレベルの話ではなく、医者の「死」に対する態度、あるいは、「死」をめぐる患者さんとの語り合いについてですね。
冨田さんの言う「神様」は、患者さんの死からは超越したところに存在し、上から目線で「死」や「人生」を俯瞰〔ふかん〕し、死についてすべてを知り、時には死を操〔あやつ〕るようなイメージでしょうか。そういう意味で、医師は神様か?と訊いているわけですね。
確かに、医師以外の職業と比べて、医師は、「人間の死」に接することが多いわけですが、死についてすべてを知っているわけではありません。むしろ、わからないことだらけです。そもそも、医師自身も、死から超越した存在ではなく、いずれは死にゆく普通の人間です。
死についてわかっていないとしても、医師として、「死に至るまでのプロセス」がある程度見通せるというのは、冨田さんの指摘のとおりかもしれません。でも、冨田さんが思っているほどには見通せていないというのが正直なところです。
もし、亡くなる日時が正確に予測できて、そこに至るプロセスを正確に予測できるのだとすれば、その情報は患者さん本人に伝えるべき重要な情報かもしれません(冨田さんのように、そんな情報があっても知りたくないという人もいると思いますが)。
でも、それは医師にも予測しにくいものなのです。諸行無常の世の中、自分自身に明日起こることもわからないのに、患者さんの将来がすべてわかるわけがありません。「運命というのがあって、神様だったらそれを知っているのかもしれませんが、私にはわからないんですよ」なんて言うこともあります。
「あなたはあと○ヶ月の命です」という言い方をする医師がいるという話は聞いたことがありますし、ドラマでそんな場面を見たこともありますが、私はそんなことを言ったことはありません。だって、そんなことはわからないからです。
患者さんから、「私の命はあとどれくらいなんでしょう?」と聞かれることは、ときどきあります。患者さんがそういう質問をする背景にある気持ちを汲み取ることが一番大事なのですが、その質問に対して正面から答えるとしたら、「わかりません」というのが最も正確な回答になるかと思います。
医師としてたくさんの患者さんを看取ってきた経験や、過去の臨床試験のデータなどから、病状によって、残された時間が、「10年単位」なのか、「年単位」なのか、「月単位」なのか、「週単位」なのか、「日単位」なのか、「時間単位」なのか、「分単位」なのか、という予測は、ある程度つきます。
たとえば、「月単位」と予測するということは、今日と1か月後では病状が明らかに違っていそうで、月を重ねるにつれて、厳しい局面を迎える可能性が高まっていき、1年後を迎えるのは厳しそうだ、といった感覚です。他の、「年単位」や「週単位」や「時間単位」などについても、同様に説明可能です。
患者さんとの会話の中で、そういった感覚を伝えることはありますが、その場合も、可能性の幅は広めに説明するようにしています。
可能性の幅を最大限広げて説明するとすれば、「何が起こるかわからないという意味では、今日明日に命を落とす可能性もゼロではないですし、何十年も頑張れる可能性もあります」と言ったりします。「今現在から100年後までのどこかで最期を迎えますよ」ということなので、これは、「わからない」と言っているのとほぼ同義なのですが、あえてこういう言い方をしたあとで、次のように続けます。
「(近いうちに最期を迎えるかもしれないという)悪い方の可能性も頭の片隅に入れて、準備すべきことは準備しておき、その上で、(天寿をまっとうできるかもしれないという)いい方の可能性に期待して生きていくのがいいかもしれません」。
英語では、「Hope for the best and prepare for the worst.(最善を望み、最悪に備える。)」という慣用句もあるそうです。こうやって、二つの側面を想像することで、わからないなりに、現実をバランスよく見つめられるのではないかという気がします。
いい方の可能性だけを伝えて、「きっと大丈夫だから、何も心配せず、頑張りましょう」なんて言うのは現実から目をそらすことになり、これから直面する現実が、より重いものになってしまいます。
逆に、悪い方の可能性だけを伝えて、「あなたに残された時間はわずかですので、その現実を受け止め、準備をしてください」なんて言うのは、救いがなく、絶望的に響きます。
冨田さんは、「患者には、余命宣告を聞かない権利だってあります。余命宣告を聞いた私は、泣いて怒りました。しかし、あれから5年、もうとっくにその年数(余命)は過ぎました」と書いていますね。「余命宣告」をしたのは私ではないはずですが、実際に、そういう言い方をする医師がいるんですね。
余命宣告をする医師は、いい方の可能性と悪い方の可能性の幅をイメージできていないのか、あえてその幅を考えない方がよいと思っているのか、あるいは、本当に余命を予測できている「神」なのかもしれません。
でも、やっぱり、それを聞く患者さんは、「絶望」としてその宣告を受け止めているわけですね。医師の方も、どちらかと言うと、実際より短めの「余命」を宣告することが多いようで、「悪い方の可能性」を一方的に伝えることを意図しているのかもしれません。
いずれにしても、余命宣告は正確ではないし、誤ったイメージを伝えるだけになりかねないので、私は、しない方がよいと思っています。というか、私にはできません。
私は、厳しい経過をたどる可能性について説明した上で、「でも、」と続けて、「希望」の話をします。「現実」と「希望」のギャップは、本書でも繰り返し議論になるところですが、どんなに厳しい現実に直面していようと、「希望」は必ずあると思っています。
「厳しい局面を迎える可能性もありますので、やりたいこと、準備すべきことがあれば、早目にしておいてくださいね。行きたいところがあれば、『最後の旅行』だと思って、行ってみるといいかもしれません」なんて言うこともあります。「最後の旅行」なんて言い方、禁句ですよね。患者さんの顔も曇ります。でも、このあとすぐ、こう続けます。「『最後の旅行』だと言って何十回も旅行に出かけている患者さんもいるんです。毎回楽しそうにその話を聞かせてくれますよ。〇〇さんも、『最後の旅行』を何度も楽しんでみたらどうですか」。
厳しめの話をしたあとには、少しでも希望につながる話をするように心がけています。ただ、中には、厳しめの話を聞いたところで頭が真っ白になってしまって……なんていう患者さんもいるので、患者さんの受け止め方や、表情の変化には気を遣います。それと、旅行好きでない人に旅行を勧めるのもヘンなので、患者さんの趣味とか価値観とかの情報は、普段からの雑談できちんと認識しておくことも重要だったりします。(次回に続く)
ちなみに、高野先生と私たちの出会いは奇妙な偶然によるものでした。
2010年、香保里さんの骨転移が発覚しました。外科的な処置が不可能となり、抗がん剤投与等、今後の治療をどうしたら良いか悩んでいた時、介護サービスの訪問看護師さんから、都内のある病院の緩和ケア科の佐藤医師(仮名)を紹介されました。
佐藤先生は、複数の治療方針を前に逡巡している香保里さんとの面談時、話をじっと聞いて、丁寧にご自身がよしとする治療方針やその哲学を語ってくださいました。そして、おもむろに、東京共済病院に通院しているのならば、なぜ高野先生のところに行かないの?と訊いてこられたのです。
冨田さん(中嶋さん)の現在の病状と話を聞いていると、僕より腫瘍内科の高野先生が向いていると思うよ、とおっしゃいました。
驚きました、7年間東京共済病院に通いながら、腫瘍内科の存在も、高野先生のことも、私たちには初耳だったからです。
佐藤先生とは、私が二回、香保里さんは一回しかお目にかかっていませんが、この12年間の治療生活の中で最もインパクトのあるご提案でした。香保里さんは佐藤先生と担当看護師のお二人には、最後まで心から感謝していました。
これが、高野先生と出会うきっかけでした。その時点で、高野先生は虎の門病院へ移られることがきまっていましたが、数回は東京共済病院での診察をお願いしていました。
虎の門病院では、骨転移を抑えるランマーク投与や疼痛〔とうつう〕緩和のための放射線治療は行いましたが、抗がん剤治療には至りませんでした。
高野先生は、抗がん剤治療も緩和ケアの一環である、という持論をお持ちでした。さらに、それでも、抗がん剤を投与しないという選択もある、その方がむしろQOLを維持できることもあるとおっしゃいました。
しかし、香保里さんは、抗がん剤治療に対する不安があったため、転移が広がっているにもかかわらず、治療に迷いが生じ、なかなか決断できずにいました。
そして、2011年初春、抗がん剤治療に踏み切れず、あの古い病院施設と病院内の雰囲気にもなじめないでいる香保里さんを見かねた高野先生は、新たな作戦に出ました。
2010年だったでしょうか、頭蓋骨転移発覚後のことですが、高野先生は、サイバーナイフ治療のため紹介を受けて通院したことのある、A病院化学療法科の鈴木医師に抗がん剤治療を促〔うなが〕すよう紹介状を書いてくださったのです。
鈴木先生は、過去にお会いした医師の中では異色でした。茶髪でオシャレが好きな、都会的な雰囲気をもつ腫瘍内科医でした。
鈴木先生は、香保里さんと治療方針でもめると、「じゃあ、高野先生に訊いてみたら?」、「高野先生もそう判断するはずだよ」、と言って香保里さんの説得を試みておられました。
それが功を奏してか、香保里さんは抗がん剤治療に踏み切り、2012年10月には、原発巣〔げんぱつそう〕が皮膚の表面に、花開く状態になっていた、乳房の切除ができるまでになりました。この頃は、要介護2から要支援1にまで回復し、杖を持たずに歩行できるまでになりました。
そして、あれから4年間A病院と鈴木先生にはお世話になり、週に一回、診ていただいてきたのです。香保里さんにとって、A病院と鈴木先生による治療は、この12年間で最も充実していたと思います。
抗がん剤副作用に対するウォックナース(皮膚・排泄ケア領域の認定看護師)との連携、事前の対処、疼痛〔とうつう〕緩和に接して、腫瘍内科医の仕事とはこういったものかと感心させられました。
また、2014年10月頃から腹水が溜まり、肝臓障害が顕著〔けんちょ〕になりはじめた頃、デンバーシャント〔注*〕による腹水コントロールを薦められました。その効果とリスクを患者に理解させるための院内連携〔れんけい〕も敏速で、年明けには、見事に腹水から解放され、大好きなブランドの春物のワンピースを購入するに至りました。しかし、それに袖を通すことなく、2015年3月23日、鈴木先生に看取っていただくことになります。
この4年間、高野先生とは、2ヶ月に一度ぐらいのペースで、東京共済病院でセカンドオピニオンを受け、治療方針の相談に乗っていただいたり、先生のお考えを伺ったりしてきました。
〔注*〕
シャントとは「短絡」のことで、腹腔内と静脈を直接つなぐ短絡をつくる治療です。その短絡により腹水を血管内に流入させます。
内科的な治療で改善しない腹水を、静脈系血管に誘導するためのカテーテルを留置する手術治療です。
腹水がたまっている腹腔内と、鎖骨下静脈という鎖骨付近の静脈をカテーテルでつなぎます。通常は局所麻酔で行い皮膚の下にチューブ(カテーテル)の通り道をつくり、一体型のカテーテルを留置します。
QOLの向上が期待でき、腹部膨満の改善、体重の減少、呼吸困難や体動制限の改善などがあげられます。
(「東邦大学医療センター 大橋病院 消化器内科」のウェブサイト中の解説「腹腔・静脈シャント増設術」より引用。図版は省略しました。以下のURLです。編集部)
http://www.lab.toho-u.ac.jp/med/ohashi/gastroenterology/patient/medical_inspection/shunt.html
広島に育った私にとって、この季節は、子供の頃から「あの日」が近づいてくることを感じさせる時期でもありました。8月6日、広島に原爆が落とされた日です。身内に被爆者がいない私のような人間にとっても、その日は、特別な一日でした。投下時間の午前8時15分にあわせて鳴り響くサイレン、そして、
私の両親は広島出身ではありませんでしたから、私が知る広島は、常に「原爆後」でした。戦前の広島は、原爆で焼けてなくなってしまった、それ以上考えることはなく、そういう自分に疑問を抱くこともなく、育ってきました。その不思議さに私が気づいたのは、大学進学をきっかけに、広島県外で暮らすようになってからでした。最初は、ぼんやりとした違和感でしたが、ある時に、驚きと共にはっきりと気づいたのでした。どの街にも、建築物の建て替わりが激しい東京にさえも、戦前の街並みが存在し、文化を伝える人がいて、
ちょうどその頃、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』を手にしました。私が感じた巨大な不在と、『ヒロシマ・ノート』に描かれた被爆者の「尊厳」は、
私は、他のほとんどの広島の子供がそうであったように、学校の課外学習として、何度となく被爆者の体験談を聞きながら、あるいは、読みながら、育ちました。けれど、それは、『ヒロシマ・ノート』同様、原爆投下後の広島と被爆者の経験についてでした。私が話を聞いたときは、『ヒロシマ・ノート』が書かれた時期(1965年)からさらに時が経過し、原爆投下後半世紀近く経ていましたから、体験の生々しさも薄れ、子供心に、この体験談は、とっくに終わった過去の物語なのだと感じられていたほどでした。
けれど、本当は、その物語は完結していなかった。私が聞いた「物語」の奥には、多くの語られなかった物語があり、それらは、今も、生々しい不在を
その頃、私のうちに湧き上がってきたのは、不在となってしまった人々の尊厳についての疑問でした。一瞬のうちに、その存在を
この問いに対する私の考えを語る前に、少し遠回りをしていいでしょうか。
私は、2年間ほど、福島の中でも、多くの人は馴染みが薄いであろう、山間の小さな集落に住んだことがあります。戦中戦後のエネルギー事情がよくない時に、燃料用の
その集落でのお年寄りの暮らし方は、いまだに電気が通る前の生活を引き継いだものでした。冬の暖房は炭火の
その中に、開拓者として親の世代に移り住んできたというお婆さんがいました。彼女が子供の頃には、あたりは一面山林、田畑もなく、木を切り倒して、根を起こしては耕作に適した土地にすると言う、気の遠くなるような
その話を彼女がしていた時、私たちの視線の向こうには、まさに、その水路と田がありました。彼女の兄が苦労して流れを変えたそのままの姿で。お婆さんは、田と水路を眺めながら「死んじまったわ。つまんない人生だったわ」と、視線をこちらに向けもしないで、素っ気なく言いました。
この話を聞いた当時、その田には、彼女と彼女の夫が毎年米を作り続けていました。これからの秋の時期になれば、色づいた田で、老夫婦がふたりで稲を収穫し、天日に干す作業をしている様子が見られました。光を受けて、黄金色に輝く田で作業する老夫婦の姿は、印象派の絵画を眺めるようでした。
とある時、その集落での景色を眺めながら、気づいたのでした。ここでは、彼らが暮らすどの場所も、ただの土地というものはなく、それぞれの来歴が、そこで生きてきた人の名、それから暮らしと共に刻み込まれているのだと。外から来た多くの人は、その場所の澄み切った夜空にきらめく星が美しいことや、自然の豊かさを
彼らにとっては、ここでの暮らしは自分たちが作り上げてきた歴史そのものでした。時の経過とともに少しずつ、時には大きく変化しながら、織りなされてきた暮らしは、彼らの人生と不可分でした。それは、人生そのもの、彼らにとっての、尊厳そのものである、と、私は感じたのでした。
その場所は、歴史が長くない開拓集落という場所であったため、暮らしと尊厳の関係がわかりやすい形であらわれていました。けれど、これは、大抵の多くの人にとっても同じなのではないでしょうか。暮らしを築くということは、誰にとっても、自分の歴史を、人生を築くということであり、一人一人の尊厳と呼ぶにふさわしいものではないでしょうか。
そうして、話をふたたび広島に戻します。この集落での暮らしを経て、私は、広島で奪われたもの、私が感じた巨大な不在について、実感をもって理解したのでした。広島では、人々が築き上げてきた歴史、書物に記されたものだけではなく、ひとつひとつの暮らしの総体としての歴史がまるごと、その痕跡さえ残さずに奪われてしまったのでした。そのことに気づいた時に、私は、言葉を失いました。大江が描いた被爆者の足下に広がる不在は、私たちの日常とはまったく質を異にするものであるように思えました。それを受けとめ、理解する、それだけで、非常な困難を来す、日常からの深い断裂を孕んだものであると感じられたのでした。それは、私が子供の頃に聞いた、それが彼らにとって当たり前の人生の一部であるかのように語られる、穏やかささえ帯びた被爆者の体験談との
福島で事故が起きた時に、私がひどく
あなたは先のお手紙で、広島と福島の相違について書いていましたね。私は、広島、チェルノブイリ、福島で、もたらされた災厄に共通点があるとしたら、私たちが通常意識することのない、けれど、暮らしを根っこのところで支えているあらゆるつながりからの「断裂」なのだろうと思うのです。今日の次に同じような明日が、その次には似たような明後日が来る、という時間の連続、そして、過去との繋がりを信じられる感覚、あるいは、この道を曲がれば隣には、同じような、けれど少し違う次の集落がある、といった、感覚を共有できる暮らしや、隣人を信じられる、ごく素朴な私たちの日常を支える感覚は、引き裂かれました。原爆投下、また、福島第一原発事故という事象そのものによって、ついで、あなたが書いたように、五感で関知できない、それゆえに、共有することがとても難しいという放射能の性質によって、断裂はさらに深く、大きなものにされました。そして、だからこそ、回復のために、私たちは、ひとたび引き裂かれたものを、ふたたびつなぎ直す必要があるのだと思うのです。
あなたのお手紙にあった、ガリーナの誇りに満ちた顔を、想像することができます。恐らく、そのプロセスを知らない人にとっては、元あったものを、再び取り返した、それだけのことでしょう。言葉にしてしまえば、ただの1行で終わる、出来事とも呼べない、ささやかな変化です。けれど、そこで成し遂げられたのは、事故によって引き裂かれた自分たちの暮らしを自分の手で再び繋ぎ直す、という困難な作業です。私は、ガリーナと同じ表情を、
グスコヴァ氏とイグナチェンコについても思うのです。私は、グスコヴァ氏と共にチェルノブイリ事故の対応にあたったL. A. イリーンの本の中に、グスコヴァ氏が第6病院で、イグナチェンコをはじめとする消防士達の治療にあたったという記述を見つけました。イリーンは、グスコヴァ氏と病院のスタッフがいかに献身的に治療にあたったか、治療が不可能であるとわかった時に、苦痛をやわらげるために最大限の努力を払ったことを記していました。その記述を読んだとき、私は大きく救われた気がしました。なぜ、自分がそのように感じたのか、自分でも掴めないでいたのですが、いま、わかりました。あの事故において、もっとも悲劇的な形で一切から「断裂」されることとなった消防士達にとって、そこで、差し向けられた彼らを救うための懸命の努力が、彼らに残された数少ない「つなぎ直し」であるかのように、私には感じられたのだと思います。その努力が、唯一、彼らの尊厳を保ち続けるための、深く暗い不在の闇の中で差し向けられた一条の光であった、という表現は、あまりに感傷的すぎるでしょうか。
福島の事故後、国が定めた基準は、あなたが4番目の手紙(「渡し舟の上で」第5回を参照) で触れて下さった私の発表〔*1〕で言及したように、すべて、この断裂をさらに、手が付けられないほどに深める結果をもたらしました。これについては、また手紙を改めますね。
けれど、ひとつだけ、ICRP111〔*2〕で記載されている、長期目標としての1mSv/y〔*3〕だけは、まったく逆の「つなぎ直し」を目指しているということだけは書いておきますね。平常の基準が1mSv/yであるならば、長期的、段階的にそれを目指す、被災地の外が1mSv/yであるならば、被災地も同じようにやがては1mSv/yを目指す、この考え方は、事故後、政府が定めたあらゆる基準とはまったく異なりました。事故前と事故後、被災地外と被災地、双方を繋ぎ直すことを意識して考えられている、と私は思いました。私たちは、誰だって、心の奥底では、事故前と同じ環境に戻り、暮らすことを望んでいます。私も、そうです。いつかは、事故前と同じような環境に戻る日が来る、暮らせる日が来る、それが可能であるかどうかは別として、そう願い続ける権利くらいは持っていてもいいでしょう? 1mSv/yは、そんな私の、そして、きっと同じように願っていたに違いないブラギンの人たちの思いを強く肯定してくれているように思えたのでした。
ここのところ、日本はひどい暑さで、なにもかにもがだるくて、すっかりお返事も遅れてしまいました。書いているうちにヤマユリも終わり、もうすぐ、秋の花が咲き始めます。広島の原爆の日を前に。次のあなたのお返事を読むときには、涼しい風が吹いていることを祈りながら。
2015年8月5日
安東量子
「(n)委員会〔国際放射線防護委員会=ICRP〕は今、行為と介入の従来の分類に置き換わる3つのタイプの被ばく状況を認識している。これら3つの被ばく状況は、すべての範囲の被ばく状況を網羅するよう意図されている。3つの被ばく状況は以下のとおりである。
● 計画被ばく状況。これは線源の計画的な導入と操業に伴う状況である。(このタイプの被ばく状況には、これまで行為として分類されてきた状況が含まれる。)
● 緊急時被ばく状況。これは計画的状況における操業中、又は悪意ある行動により発生するかもしれない、至急の注意を要する予期せぬ状況である。
● 現存被ばく状況。これは自然バックグラウンド放射線に起因する被ばく状況のように、管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する被ばく状況である。
(o)改訂された勧告では3つの重要な放射線防護原則が維持されている。正当化と最適化の原則は3タイプすべての被ばく状況に適用されるが、一方、線量限度の適用の原則は、計画被ばく状況の結果として、確実に受けると予想される線量に対してのみ適用される。これらの原則は以下のように定義される:
● 正当化の原則:放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は、害よりも便益が大となるべきである。
● 防護の最適化の原則:被ばくの生じる可能性、被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは、すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら、合理的に達成できる限り低く保つべきである。
● 線量限度の適用の原則:患者の医療被ばく以外の、計画被ばく状況における規制された線源からのいかなる個人の総線量も、委員会が特定する適切な限度を超えるべきでない」(ICRP Publ. 103(2007年勧告)総括、邦訳p.xvii-xviii)
詳しくは、同文書(2007年勧告)の「6.3. 現存被ばく状況」(邦訳pp.70-72)参照。
また、『ICRP111から考えたこと――福島で「現存被曝状況」を生きる』には分かりやすい解説がある。とくに「第1回」の「現存被曝状況」:被曝と暮らす日常」参照。
http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html
〔*1〕 ICRP(国際放射線防護委員会)の「Supporting Task Group 94」による「Workshops on the Ethics of the System of Radiological Protection」での発表。
http://www.icrp.org/page.asp?id=237
このページの「2nd Asian Workshop: Jointly organised by Fukushima Medical University Fukushima and ICRP, Fukushima, Japan, June 2015」に、安東さんの発表概要がある(PDF、英文)。
〔*2〕ICRP111: ICRP(国際放射線防護委員会)によって2009年に刊行された勧告で、通称「ICRP Publication 111」あるいは「ICRP 111」。「原子力事故または放射線緊急事態後の長期汚染地域に居住する人々の防護に対する委員会勧告の適用」という長い表題を持つもので、本往復書簡の著者、ジャック・ロシャール氏らが執筆。邦訳は以下に掲載されている。
http://www.jrias.or.jp/books/cat/sub1-01/101-14.html
また、解説として以下がある。
「ICRP111から考えたこと——福島で「現存被曝状況」を生きる」(PDFおよび電子書籍、無料、2012年)
http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html
『語りあうためのICRP111——ふるさとの暮らしと放射線防護』(日本アイソトープ協会、2015年)
http://www.jrias.or.jp/books/cat/sub1-01/101-19.html
オリジナル(英語および翻訳)は、ICRPのウェブサイトにある。
http://www.icrp.org/publication.asp?id=ICRP+Publication+111
〔*3〕1mSv/y: 本文にある「国が定めた基準」「長期目標としての1mSv/y」は、国際放射線防護委員会(ICRP)が、放射線防護にあたって勧告している「参考レベル」という考え方を念頭に置いています。
ICRPの言う「参考レベルreference level」は、厳密に管理された放射線源に対して適用される「線量限度dose limits」「拘束値dose constraint」ではありません。「超えてはいけない値」ではないのです。
ICRPの考え方では、「参考レベル」は、その線量を超えたら、なんらかの対策を優先的に講じるべき放射線量を指します。放射線源の管理の難しい現存被曝状況においては、一時的に「参考レベル」を超える被曝をする人々がいる可能性があります。その際、「参考レベル」は、その線量を超える、あるいは、その線量に近い線量に対して、優先的に低減措置を講じるための指針となるのです。時間の経過とともに、住民全員の被曝線量は、最終的に、参考レベルを下回るようになるはずです。
現存被曝状況に対して、ICRPは、参照レベルを年間1-20ミリシーベルト(1mSv-20mSv/y)の低い部分から選択するように勧告しています。その際、基底的な状況、すなわち、関係する住民の被曝線量の分布を考慮に入れて、参考レベルを決めるように勧告しているのです。
ICRPは、参考レベルを上回る被曝をする人、あるいは、参考レベル近くの被曝をする人が減るに従って、参考レベルを引き下げて行き、長期的には年間1ミリシーベルト(1mSv/y)を目標とするよう勧告しています。
ICRPは、核事故あるいは放射線事故によって引き起こされる「緊急被曝状況」に続く回復過程は、「現存被曝状況」として管理されなければならないと考えています。というのも、「現存被曝状況」では、住民個々の被曝線量の厳密な管理は不可能で、あらゆる被曝線量を1mSv/y以下に維持できると保証することが可能でないからです。1mSv/y以下とは、平常時の「計画被曝状況」に用いられる指標です。
しかし、長期的な目標は、すべての被曝線量を1mSv/yあるいはそれ以下の範囲に低減することであり、これは平時(計画被曝状況)のあるいは平時に近い状況を回復することです。言い換えれば、長期的な目的は汚染地域と非汚染地域の放射線防護レベルを可能な限り同じものになることを保証することなのです。これは汚染地域の住民に対する公平性の問題であり、彼らに対する敬意・尊重の問題です。
注釈〔*3〕(英文ではNote〔*2〕)の執筆に際して、ジャック・ロシャール氏から専門的知見に立った有益・貴重なご助言をいただきました。深く感謝しています。(編集部)
I grew up in Hiroshima. From when I was a child, this time of the year always reminded me that “the day” was coming—the 6th of August, the anniversary of the a-bombing of Hiroshima. Even for someone like me who does not have “Hibakusha (Japanese for ‘explosion affected people’)” among family members, it has always been a special day. Sirens blow in time with 8:15 a.m. when the bomb was dropped, and, people pause for silent prayer. I have more memories of looking up at the sky on the day, straining to find the shadow of the B-29 bombers in a cloudless blue sky of summer, fully aware they are long gone, when all except the cicadas stood silent.
My parents are not from Hiroshima, so the only city I know is Hiroshima after the atomic bomb. I grew up thinking that the a-bomb burnt down the pre-war city; my imagination did not extend beyond the simple fact, nor did I question my thinking. It was only when I entered college and started living outside of Hiroshima prefecture, did I ever become aware that it was not ordinary at all. Initially, all I felt was a vague sense that something did not quite fit. Then, all of a sudden, awareness hit me. In all Japanese cities, even in Tokyo, where buildings are being demolished and rebuilt all the time, pre-war townscapes exist; there are long-established stores going back to pre-war years, and, residents who carried on traditional lifestyles. But not in Hiroshima. Hiroshima did not have these! The city I took for granted was not so ordinary. Since then, I have often tried to imagine Hiroshima when it was just an ordinary city, Hiroshima sans atomic bomb.
If not for the a-bomb, history would have continued between pre-war Hiroshima and post-war Hiroshima, as in many Japanese cities. For history to continue, culture must be handed down, which is only possible through human hands. Thus, history is disconnected when culture cease to be passed on, because there is no one to do so. The most significant loss experienced by Hiroshima was neither townscape or long-established stores or landscape, but the people. Once I became aware of this loss—the people who used to live in Hiroshima—I could not take my eyes away from their absence. Just glancing at the city that I thought was just ordinary, I could sense all was not as it appeared; underneath the city which resumed its beat lurked a spot where the noise of a bustling city suddenly disappeared, as if a huge mass of absence took over the space.
It was around this time that I first read Kenzaburo Oe’s “Hiroshima Note”. The dignity of the Hibakusha that he depicted seemed to stand in contrast to the huge absence that haunted me. I imagined that the huge absence lay beneath the Hibakusha’s feet in Oe’s writing. However, Oe mostly focused on what happened after the atomic bomb; his books did not touch on the topic of absence.
As with most children in Hiroshima, I grew up listening to or reading the episodes of the Hibakusha as part of non-academic curriculum in school; however, they were mostly about what happened after the a-bomb and their experiences as Hibakusha, as was in “Hiroshima Note”. The book was written in 1965, and, almost half a century had passed by the time I listened to the stories of the Hibakusha. So, I could not help feeling that the episodes must be from quite some time ago, a story that had ended in the past.
However, the story had not ended. There were countless many stories that could not be told behind the stories I listened to. The untold stories still retain the raw power of absence. I can vividly recall how lost I felt after reading Oe’s book then.
In those days, I also struggled with the question about the dignity of those absent people. Where is the dignity of these people, whose existence was completely wiped instantaneously, with no regard for their individual lives?
Before I try to give my answer, please allow me to make a detour into a different place in different time.
I lived in a small village in the hills of Fukushima for about two years, in a community so remote that most people would not have heard of. The village began its history as a frontier settlement when people moved in to log fuelwood during and after the war. It was a spectacular place, even among the beautiful Abukuma Highlands. I remember that, on deep winter nights, the sound of the cedar trees freeze-cracking drifted from far away before dawn. On such bitter cold day, frost covered the tree branches, forming “soft rime.” When pale winter sunlight light the frost covered trees, they shine like diamonds; even locals used to be struck by the other-worldly beauty. Such natural beauty came hand in hand with hard life of the frontiers. The village got electricity only as late as 1959, lagging behind other villages in Japan. The reason why I know this, when I only lived there for few years and moved on, is because the first name of the villagers born in that year all used Chinese characters related to “light,” such as “Koji (光二) ” or “Teruo (照男) ”.
The elders in the village continued to live in the style since before electricity. Heat during winter was by kotatsu, a low table with charcoal foot-heater, supplemented by oil heater. They rose at dawn to start working, and went home at sunset. They grew their own rice and vegetables and relished seasonal delicacies. The forest brought gifts of herbs in spring and mushrooms in autumn, and the river carried Yamame (landlocked mass salmon) and Iwana (char).
In those days, I became friends with an old lady whose parents migrated to the village as settlers. When she was a small girl, the entire area was still covered by forest, with no patch or field in sight. Settlers like her parents cut down trees and grubbed up roots and tree stumps to turn forest into arable land; they continued this mind-boggling labor to cultivate land. Fields to grow vegetables were relatively easy to cultivate, however, it was much harder in the case of paddy fields, because water channels are necessary to grow rice, which was only possible by diverting a nearby river. The old lady’s elder brother could not give up the dream of eating rice. He devoted all spare time outside of daily labor for river work. Needless to say, they did not have heavy machinery, all works were by hand. After much hardship, the river work concluded and river water could be channeled to paddy fields. However, immediately after the accomplishment, her brother suddenly collapsed and never recovered.
As she recounted her brother’s story, the water channel and the paddy fields were within our view—they existed just as the way her brother worked on. She looked over and murmured, “Yeah, he was gone like that. What a life.” She did not show any emotion nor did she look in my direction.
She and her husband grew rice each year on those paddy fields at the time of this conversation. In autumn, we used to pass by the elderly couple working in the paddy field, harvesting and drying rice. I recall the picture of the two working in bright sunlight amid the golden paddy fields like a figure in an Impressionist painting.
Once, when I was lazily gazing the village scenery, I had an epiphany. Here, there was no piece of land without a story; each was engraved with its unique history together with the names and lives of people who had lived. Guests used to praise the beauty of the stars shining brightly in the clear sky or the abundant nature; for me, nothing was as precious as the lifestyle that the residents formed in partnership with nature, or, the landscape developed through such lifestyle.
The daily lives of the residents were the history of the people. The passage of time brought incremental changes to their lifestyle, while certain events caused large changes; throughout the process, their lifestyles were inseparable from their lives. Their lifestyle constituted their lives, and also their dignity.
Being a frontier settlement developed not so long ago, the relation between lifestyle and dignity was clearly visible; however, I cannot help thinking that this may hold for most people to some extent. For anyone, to make a life, forming a lifestyle, is writing up your history through the walk of your life; dignity of a person can only be based on this endeavor.
Let me get back to the story of Hiroshima. Only after living in this village, was I able to fully understand what was taken away from Hiroshima, symbolized by the huge absence I sensed. In Hiroshima, history was totally annihilated; not only those written up in books, but also history as the whole sum of individual lives. Completely wiped out, without a trace. How could I not lose words knowing this? I started to see the absence Oe depicted beneath the feet of the Hibakusha as something totally alien to our daily lives; an enigma containing an abyss separating it from our ordinary lives, thus by its nature almost impossible to perceive and understand. It was hugely different from the Hibakusha testimonies I listened to as a child, stories told gently as if those episodes were merely a part of their ordinary lives. It was a piece of puzzle I could not find a place to fit in; in fact, I still have not found the answer.
What frightened me when a nuclear power plant accident happened in Fukushima was the fear that the lives in Fukushima might be uprooted and destroyed, something I wrote to you in my last letter.
In your last letter, you wrote about the difference between Hiroshima and Fukushima. My view is that, if there is any similarity between the disasters experienced by Hiroshima, Chernobyl and Fukushima, it would be the “abyss” which severed any ties to all connectivity at the root of our daily lives, although said connectivity is not noticed in ordinary times. The Fukushima Dai-ichi NPP accident destroyed the sense of continuity in time that a tomorrow like today will come in the morning, and it will continue in the same way, the sense of trust in the ties with the past, or, the sense supporting our daily lives such as trusting one’s neighbor or sharing common knowledge—for example, by taking a turn, the road will take you to the next village, which is similar to ours, but different in some ways. The divide created by the abyss was further deepened and widened in the case of Hiroshima and Fukushima primarily due to the significance of the events, the a-bomb in the former, and, the Fukushima Dai-ichi NPP accident in the latter, and, secondarily due to the nature of radiation which, as you wrote, human sense cannot detect and therefore causing the difficulty of forming shared notions. Despite, and, because of these difficulties, I believe that we are called to reconnect what was once severed in order to reclaim our lives.
You wrote about Galina in your last letter; I can easily imagine the proud smile on her face. For someone who is not aware of the process of reconnecting, it is just reclaiming what you used to have. It is such a small change, a no-event hardly worth mentioning in record. However, it is nothing other than an almost impossible accomplishment, patching up the fabric of daily lives that was once torn apart by the Chernobyl accident with nothing but your own hands. Sometimes, I see Galina’s face in the faces of the people in Suetsugi. There was a lady who used to speak about vegetables grown in her garden with some wariness, like, “I am almost certain not much (Cesium) will be detected from these, but the recipient may not feel so.” Recently, she brought her vegetables to the weekly measurement at the community center. She was chatting with another lady from her neighborhood, saying that once she had the measurement, she was going to send the vegetables to her children. When the other lady questioned whether those vegetables would be welcomed, she gave an upbeat reply, “There is no problem, we measured them and the result was fine! And, who can turn down such delicious vegetables?” The cheerful words matched who she must have been before the accident, a lively, happy lady whom I do not know personally. Just as Galina, she succeeded in re-connecting her life, before and after the accident. It is likely that she patched up the relations with her children. Otherwise, that absence would have taken hold of Suetsugi.
Your third letter also referred to Professor Angelina Guskova and Vasily Ignatenko. I read the book “Chernobyl, Myth and Reality” by L.A. Illyn, who responded to the Chernobyl accident with Professor Guskova. There was a passage where she treated the injured firefighters including Mr. Ignatenko at Hospital No.6. Illyn wrote how Professor Guskova and the hospital staff devoted themselves to provide the best care, and, how they did their best to reduce pain and discomfort, once it became evident that the severe damages were untreatable. I felt relieved by reading about the care the firefighters received in their final days. Until now, the reason why I felt so has been a mystery to me. But now I know. Those firefighters took the hardest blow from the Chernobyl accident; they were “disconnected” from everything in their lives in a most tragic manner. The devoted support they received in the hospital seemed to be the saving grace to “reconnect” them with their lives available in their final days. Would it be too sentimental to call such effort as a ray of light reaching into the deep darkness permeating that absence?
As I pointed out in my presentation which you referred to in your fourth letter (http://www.ohtabooks.com/homo-viator/barque/12153/)〔*1〕 the standards set by the Japanese authorities resulted in almost irreversibly deepening the abyss. Let me discuss this in another letter.
However, there is one notable exception. Setting 1mSv/y as the long-term goal [for individual annual effective residual dose]〔*2〕 as stated in ICRP Publ. 111〔*3〕, seem to aim for “reconnecting” what was severed. That is, if the standard during ordinary times is 1mSv/y, multi-phased and long-term measures would be taken to reach said level; if the standard used outside the affected areas is 1mSv/y, the affected areas would also aim for 1mSv/y. This way of thinking is completely at odds with all the other standards set by the Japanese government. In my view, it was designed with a mind to reconnect the pre-accident with the post-accident, or, the affected areas with the rest of Japan. I believe that most people secretly wish they could somehow return to before the accident; to continue living in the environment that once was. I am one of them. That someday, somehow, the environment will be what it was before the accident, and, we can live in such environment. Aren’t we allowed to keep dreaming whether it is an impossible dream or not? Adopting 1mSv/y as the target seemed to affirm my said dream, as well as those that the people in Bragin must have once dreamed.
Due to the harsh heat spell in Japan for the past few weeks, I have been feeling lethargic. It was like watching everything slipping between my fingers. The golden-rayed lilies that were in full bloom as I started writing are gone. Soon the flowers of autumn will start to adorn the fields and forests. I end this letter the day before the anniversary of the a-bomb in Hiroshima, hoping that a cool breeze will be blowing by the time I receive your reply.
August 5, 2015
Ryoko Ando
〔*2〕 “The standards set by the Japanese Authorities” and the “1mSv/y as the long-term goal” referred to in this letter are based on the concept of “reference level” recommended by ICRP to be used for radiological protection.
A “reference level” is different from a “dose limit” or a “dose constraint” used for strictly controlled radiation source (called planned exposure situation). Thus, it is not a value which an individual’s dose should not exceed. It is a level to make decision about protection actions.
For ICRP, any dose exceeding the “reference level” should be considered in priority for implementing some protection action. In existing exposure situation, when controlling the radioactive source is difficult, there may be individuals whose dose exceed the reference level temporarily; the “reference level” would then be used as a guide to take action with the objective to reduce in priority those doses that are exceeding or are close to the reference level. With time, the doses of the entire population would ultimately fall below the reference level.
For existing exposure situations ICRP recommends selecting the reference level in the lower part of a,1-20 mSv/year band taking into account the prevailing circumstances i.e. mainly the distribution of doses to the concerned population. As the number of individuals whose dose exceed or are close to the reference level decreases, the reference level is lowered. In the long term, ICRP is recommending to adopt 1mSv/y as the target.
ICRP considers that the recovery phase following an ‘emergency exposure situation’ generated by a nuclear or a radiation accident must be managed as an “existing exposure situations” because the individual doses are not strictly controllable and it is not possible to guarantee that doses will be all kept below 1mSv/y as it is the case in planned exposure situations.
However the long-term objective to reduce all exposures in the range of 1mSv/y or below is to recover a situation similar or at least close to a normal situation i.e. a planned exposure situation. In other words the long-term objective is to ensure as far as possible the same level of protection in the affected and non-affected territories. It is a question of fairness and respect for the affected populations.
We, editor, are deeply garateful to Mr. Lochard for his expert advice on the draft of the note no. 3 (in English, no.2 in Japanese) concerning the concept of “reference level” recommended by ICRP.
〔*3〕 “Application of the Commission’s Recommendations to the Protection of People Living in Long-Term Contaminated Areas after a Nuclear Accident or a Radiation Emergency” published by ICRP in 2009, usually referred to as “ICRP 111” or “ICRP Publication 111”. Jacques Lochard, the writer in this letter exchange, was one of its authors.
The Japanese translation is available from:
http://www.jrias.or.jp/books/cat/sub1-01/101-14.html
他の病気がそうではないとは思いませんが、がん患者さんが医療に求めるものは、たしかに大きいと思います。
その追い求める医療を行い、追い求める目標に近づけるようにサポートするのが、医師という存在です。
医師は、その任務を
患者さんは、医師に対し、医師としてのプロフェッショナリズム、すなわち、上で書いた「知識と技術」を求める一方で、人間味あふれるヒューマニズムを求めているのかもしれません。
がん患者は、特にその両方を求める傾向が強い、というのが、冨田さんのお考えですね。
医師という職業を選んだ私としては、できるだけそういう期待に応えたいと思いつつ、そんなスーパーマンはいないよな、ともつぶやくわけです。
知識や技術は、それなりにあるとはいえ、完璧じゃないし、人間性にしたって、
それでも、私は、「患者さんに幸せになってほしい」という想いは常に持ち続けています。完璧な医師とは言えないけど、不器用で気が小っちゃいけど、そんな私なりに、一生懸命やっているつもりです。
そんな医療者の想いと、患者さんの求めるものが重なったとき、「いい医療」が生まれるのだという気がします。
冨田さんの言う「医師個人の情報」というのは、どういうことでしょうか。
・○○県生まれの○○才で、○○大学を卒業していて、○○病院で研修して……とか、
・今までにこんな論文を書いて、こんな学会発表をして、こんな賞をもらって……とか、
・旅行や音楽鑑賞が趣味で、○○が特に好きで、週末は○○の観戦に行くのが楽しみ……とか、
・子供が何人いて、上の男の子は○○に熱中していて……とか。
そういう情報がわかれば、患者さんが医師を選ぶのに役に立つということでしょうか。
たしかに、そういう情報があれば、医師としての経験や専門性を判断する根拠になったり、一人の人間としての医師を、より身近に感じられるようになったりするかもしれません。でも、そういう情報が必要かというと、私は、あまりそうは思いません。
今の時代、インターネットで検索すれば、
患者さんの個人情報は、担当医に対して「まるはだか」かもしれませんが、医師の個人情報も、不特定多数のネット空間で「まるはだか」に近い状態のような気もします。
医師も、自分自身はともかく、大事な家族を守らなければいけませんので、これ以上、むやみに個人情報をさらすわけにはいきません。
そもそも、担当医が患者さんの個人情報を知っているのは、担当医が興味本位で
そして、その情報は、診療目的で使用するように制限されていて、医師には、患者さんの個人情報を
なので、患者さん自身が「まるはだか」だと感じるということと、医師の個人情報を不特定多数に対して「まるはだか」にすべきだというのとは、違うレベルの話と言えます。
医師の立場で言うなら、不特定多数に対する場合と、目の前の一人の患者さんに対する場合とで、対応は全然違います。
不特定多数に対しては言えないようなことも、診察室で患者さんと向き合っているときには、ポロッと言ってしまったりします。
時間に余裕があれば、患者さんと自分の共通の趣味の話で盛り上がったりもします。
そういう診察室での会話で、医師の人間味を感じることができるなら、それは、とてもよいことだと思います。
ややこしい話にしてしまいましたが、冨田さんの求める、「医師の個人情報」というのは、そういうことだったのかもしれませんね。
個人情報を不特定多数に対してまるはだかにすべきというわけではなく、診察室ではもっと個人をさらけ出してほしいと。
この連載(冨田さんとのQ&Aのやりとり)も、不特定多数に対して公開しているので、全く自由に書けているわけではありませんが、冨田さんと診察室でああだこうだ言い合っている個人的な会話を想定して、書き進めたいと思います。
普段、不特定多数の読者に対して書いているような
知識や技術のない医師よりも、経験豊富で腕のいい医師の方がよいでしょうし、性格に問題のある医師よりも、温厚な医師の方がよいでしょうが、それをどうやって判断し、また、どうやってそういう医師にたどりつけるのでしょう。
それが自由にできないのはおかしい、というのが冨田さんの想いですね。
私が勧めるのは、ネットで医師の情報をあれこれ検索するよりも、診察室で、実際に面と向かって会話を交わして、相性を判断することです。
信憑性の低いネットの情報より、その方がよっぽど有用です。
ネットで素晴らしい医師だと書かれていたのに、実際に会ってみたら全然ダメだったとか、そんな話はザラにあります。
ネットの情報とか、出身大学とかで医師を選ぶことはお勧めしません。
でも、医師を選ぼうと思ったって、日本中の医師に会えるわけではありませんので、実際に会話を交わせる医師はごくわずかです。でも、それは、ご縁というか、運なのかもしれません。
冨田さんが、私の患者さんになったのが、ラッキーだったのかそうではなかったのかは、私にはわかりませんが、そういう
診察室で初めて会った日には、お互い、想像もしなかったことです。これは、運命というしかないでしょう。
そもそも、今の日本の保険診療では、患者が医師を選ぶことは想定されていません。
聖人君子のような医師が診ても、悪徳医師が診ても、教授が診ても、研修医が診ても、ネットで有名な「名医」が診ても、ネットで悪名高い「ヤブ医師」が診ても、医師免許を持っている医師が診察していれば、診療報酬は一緒です。
お金持ちがお金を積めば医師を自由に選べるというわけではないのです(保険外の自由診療であれば、話は別ですが)。
病院で働く医師からしてみれば、患者さんに選んでもらって、たくさん患者さんが来てくれても、給料が上がるわけではなく、ただ忙しくなるだけです。
とすると、いい医療を行って、たくさん患者さんに来てもらおう、という動機はあまり働かないことになります。
多くの医師は、お金がほしくて医療を行っているわけでも、できるだけ楽をできるようにさぼろうと思っているわけでもなく、いい医療を行って、患者さんに幸せになってほしいと心から願っています。
それでも、「いい医療」を推進するためには、動機付けも必要ということで、最近は、「時間をかけて丁寧に説明したら、その分、診療報酬を上げよう」という方向性も検討されているようです。診療報酬で操作される「いい医療」というのも微妙ですが、純粋に「いい医療を行いたい」と思っている医者をサポートすることになるのであれば、それなりに重要な方向性だと思います。
それともう一つ、患者さんが医師を選ぶ、という話を議論しているわけですが、医師の方は、患者さんを選べないんですよね。
医師には、診療を求められれば、それを
医師も人間なので、相性のよい患者さんもいれば、そうではない患者さんもいるわけですが、あの患者さんは自分に合わないから、といった理由で担当を変わるわけにはなかなかいきません。
患者さんの個人情報が「まるはだか」になっていたとしても、それで医師が患者さんを選んでいるわけではないということですね。
そんな事情もわかってもらいたいと思いつつ、でも、患者さんは、好きで選んだわけではない病気に
「患者はこうだ」「医師の方こそこうなんだ」なんていう議論は水掛け論になって、あまり実りはないので、これくらいにして、今回のQに対する回答をまとめたいと思います。
【まとめ】
「診察室では、患者と医師の立場を尊重し、いたわりつつ、お互い、一人の人間として、率直な想いを語り合い、ときには、雑談を交わすくらいの余裕も持ちましょう。」
私の妻である冨田香保里さんは、2003年9月、都内のある総合病院(以下K院)の乳腺科で告知を受けました。
ステージ1、転移性の乳がんとのことでした。最初に検査を行い、告知を受けたのは30代半ば位の女性医師からでした。
女性医師から、標準的治療の種類や、治療方針等について説明を受けました。私たちは、この病気のことを何も知らないため、満足な質問もできずにいました。そして香保里さんが、女性医師に尋ねました、「わたしがこの病気になった理由は何でしょうか」。
香保里さんはその時、今後の治療方針より、なぜ自分が乳癌になってしまったのか、という思いが頭の中を巡っていたと思います。
理由がわかれば病気は治る、と思ったのではないかと思います。その後の治療遍歴の中でも、常になぜ自分がと問い続け、自分の生活や意識を変えることに注力していました。
自分の生活のどこに問題があったのか、食事に問題があったのか、たばこを吸ったからか、子供がいないからか、ストレスか、SEXか、お酒か、住環境か、ご先祖様を敬わないからか、子供の時同級生をいじめた罰か、遺伝か、なぜこの部位なのか、止めどもなく湧き起こる「なぜ」を、自分自身に向けていました。
その女性医師にとって、大変難しい質問だったと思います。女性医師は香保里さんの気持ちを軽くしてあげようと思ったのかもしれません。
難しい質問に半分ジョークのつもり(だと思いたい)で、「奥様はボインだからこの病気になりやすいのかも、私はペチャパイだから大丈夫かも」とお話しされました。
えっ!!香保里さんと私は、何と答えてよいかわからず、もうそのことには触れず、治療方法について質問し、後日連絡する旨を伝え、診察室を出ました。
帰路、香保里さんは、あの先生との治療は絶対嫌だ、先生を変えてもらおう、そうでなければ、別の病院に行くと言うのでした。
私は、フランクでいいじゃないかとも思いましたが、香保里さんは、生きるか死ぬかという一大事に、「ボイン」とはなにごとか、人を馬鹿にしている、そんなデリカシーのない医師に治療は任せられない、と感じているのだな、と理解しました。
K院には、当時から患者さんやその家族のためのソーシャルワーカーが常駐しており、医師を変えてもらえるか相談したところ、乳腺科部長のM医師の外来日に診察予約し、治療してほしい旨を直接伝えたらどうか、とのアドバイスをもらいました。
M医師には「ボイン」の一件は伝えず、別な先生に告知を受けた旨を伝え、再度この病気の治療、今後起こり得るさまざまなことについての説明を受けました。
M医師の見立ては、緊急を要する状況でないため、経過観察をしながら、ゆっくりと今後の方針を決めて行こう、というもので、その間に、この病気を勉強し、今後の治療に備えた身体作りをして、生活改善を図ろうということになりました。
M医師とは、相性が良かったようで、その後2010年骨転移発覚までの7年間、付き合いが続きました。
K院には月1回通院し、検査を受けて、経過観察していましたが、同時に都内のいくつかの有名病院やクリックで問診を受け、病院主催のセミナー等に参加していました。
すべてのセカンドオピニオン(おかしな言い方ですが)や診察に私が同行したわけではありませんが、嫌な思いをして帰ることが多かったような気がします。
大病院でも、クリニック系でも、結局最後は、医師が香保里さんの質問に閉口して、「最後は当院で治療するのか」、「あなたの希望通りの治療をする」、「あなたのようなことを言っているとがん難民になりますよ」、おおよそこんなふうに対応されるのでした。
香保里さんは、常に、医師に
多くの病院を回り、医師の話を聞き、この病気について学習しているのに、他方、現代的な医療や医師の態度、病院のシステムそれ自体に不信感を強めていったようです。
この連載タイトルの『もの言う患者』は、すでにこの時に決定されていたのではないかという気がします。(以下次号)
先の書簡で、あなたは、高井さん*2の撮った写真*3に「人間の尊厳」が写し出されている、そう思われませんか、と問うておいででした。高井さんが撮影した肖像写真には
エートス・プロジェクト*4の初期の頃、私は大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)を読んで、チェルノブイリ事故後の状況にとって尊厳は最も重要な課題の一つであると気づきました。大江は同書の中で、原爆の傷を身体に負い、「他者のまなざしを避けるために家の奥深くに潜む」被爆者たちの屈辱と惨めさを描いています。他方、広島にはそれでもその地に住み続けることを選び、自分たちが経験した悲劇について語ることを諦めない人々がいる、そして、これらの人々は「超人的な」までの努力を払い、核兵器のない世界に対する希望を抱き続けている、と大江は指摘します。広島の人々の、どんなことをしても原爆について証言せずにはいられないという姿勢の中に、大江は広島の人々の尊厳を見出しました。
オルマニーの住人たちの状況は〔広島の〕被爆者たちのおかれた状況と似た側面を持っています。住民たちの間には、自分たちは価値が損なわれた土地に住む「二級市民」だと見られている、という認識が広まっています。また、住民たちは、そのような存在として、外の人たちから差別され続けています。さらに、思いのままに状況をコントロールできない状況に戸惑う政府や専門家たちは、無意識の内に住民たちを軽んじています。この結果、オルマニーの住人であるというだけで、得体のしれない
原爆後の状況と原発事故後の状況において、尊厳が共通する課題であることは確かです。しかし、かつて被爆者が経験した状況と、放射能で汚染された土地の住人の状況を同じようなものと捉えることは適切ではないと思います。広島と長崎の状況は、原子爆弾投下により、人々のいのちを傷つける意図で放射線を使った行為によってもたらされました。他方、福島の状況は、原発事故後に生じた深刻な断裂によってもたらされました。それは、福島に生きる人々にとって、自分自身との関係、あるいは、他者や環境との関係が根こそぎ変えられてしまうという、
こうしたことを踏まえても、広島・長崎と福島の共通点と相違点についてはもっと深く考察されるべきだと思っています。
差別の問題については、福島で行ってきたダイアログセミナーのごく初期から表面化したので驚きました。そう、2012年7月に開かれた第3回ダイアログですでに表れていました。神奈川県から来た〔発表者の〕若い母親が、「将来自分の息子が福島出身の女の子と結婚したいと言ってきた時、自分はそれをどう受け止めるだろう」と自問した際、〔会場にいた〕
尊厳と文化の関連について話を戻すと、エートス・プロジェクトの終わりに起きたある出来事と、それによって私が意識するようになった尊厳のもう一つの側面についてどうしても語りたくなります。
ストリン地区で1996年7月から2001年11月まで続いたエートス・プロジェクトを終了するに際し、私たちはベラルーシ政府とECの協力を得て2日間の国際的セミナーをストリン市で開催し、プロジェクトの成果と主要な教訓を発表しました。また、セミナーの後、エートス・プロジェクトに参加した村を少人数のグループで訪問する企画もたてました。海外からの参加者のほとんどは、ベラルーシ、とりわけ被害を受けた地域を訪問するのは初めてでした。このため、村の住人たちと直接会って、地元の状況についてより精確に理解してほしいというのが企画のねらいでした。私自身はウクライナとの国境にあるゴロドナヤという、プロジェクトの第2フェーズに参加した村を訪問するグループに加わりました。村の広場に到着した後は自由行動になったので、私は英国の研究者仲間ニールと通訳のニナを伴って3人の子供のいる家庭を訪問したのです。この家の子供たちは、私たちがコンタクトを開始した時点の検査では村の中で最も高い内部被曝をしていました。
晩秋のよく晴れた日曜のお昼過ぎのことでした。通りは
台所にいたガリーナは、私たちの訪問に驚いていました。夫と子供たちはその日近くの村の親戚の所に遊びにいき、留守番をしていたのだと後で教えてくれました。彼女は日曜日に着る色鮮やかな晴れ着姿で、伝統的なスカーフを頭に巻き、はだしのままパンがオーブンで焼けるのを見守っていました。再会の挨拶のあと、私はニールに、夫妻がフランスの同僚たちの協力で事故後の汚染状況を次第にコントロールしていけるようになった過程を簡単に説明しました。食生活その他の改善で被曝を抑えるよう努力した結果、前回の村のWBC検査では、この家庭の3人の子供たちは学校で最も内部被曝の値が低いグループに入るまでになっていました。私はガリーナに、ニールはECでエートス・プロジェクトを最初から支援し続けた責任者だと説明しました。すると彼女は感極まった様子でニールをしばらく見詰めた後、感謝の言葉を述べ、オーブンからパンを木のへらで取り出し、新聞紙で包み、「神様の恵みがあなたにありますように」という祈りの言葉を添えながらニールに手渡したのです。
この特別な瞬間を私は決して忘れません。何もかも調和がとれていたからです。場の素朴さ。焼きたてのパンの香り。これ以上ないほどピカピカに掃除された台所に差し込む秋の光。ガリーナの晴れ着の鮮やかな色。絵画のような場面の中心に立つ、穏やかさと自信を取り戻した若い女性。初めてガリーナと会った時と比べずにはいられません。それは私が出席した会議が終わった後のことでした。村の広場でガリーナに呼び止められ、なぜ彼女の子供たちは学校のほかの子供たちのように村から離れた場所での保養プログラムに選ばれなかったのかと聞かれました。ガリーナは腕に女の子を抱いていました。彼女の表情には怒りだけでなく不安ものぞいていました。それからこの日までの道のりは、どれほど長かったでしょう。ベラルーシの典型的な台所の真ん中に立っているガリーナこそ、汚染された地域の住人たちが自らの尊厳を回復する歩みを体現しているのではないでしょうか。
この前の手紙であなたは、ブラギンの博物館を訪れ、被曝によって生命を落とした消防士の一人であるヴァシリー・イグナチェンコの記憶と向き合ったと書いてくれましたね。COREプログラム*6の間、私もその博物館の中の、彼の写真や事故当時に消防士たちが身に付けていた装備や制服を収めた部屋をよく訪れたものです。同様にブラギン市の中央にあるチェルノブイリ事故の記念碑の前でしばしば足を止めずにはいられませんでした。ベラルーシで失われた村の名前を彫った石碑がいくつも立ち並ぶその中心に、ヴァシリー・イグナチェンコの銅像が立っています。
そして、2012年9月に、私はまたヴァシリー・イグナチェンコと思いもかけない形で再会しました。それはモスクワにある第6病院、大量の放射線を被曝した人の治療に特化した病院を訪れた時のことです。ヴァシリー・イグナチェンコは事故後ここに入院していました。搬送後すぐに彼が検査を受けたWBCや彼が除染措置をうけた部屋を見ました。私の想いは、彼の思い出が最も鮮やかに息づいているブラギンへとさまよってしまい、案内をしてくれる人の説明になかなか集中することができませんでした。
最近、ICRPの主委員会のメンバーであるロシア人研究者からアンジェリカ・グスコヴァ教授が91歳で亡くなったことを知らされました。教授は放射線防護をリードする研究者で、第6病院でヴァシリー・イグナチェンコの治療にあたっていました。緊急被曝症候群のスペシャリストであるグスコヴァ教授とお目にかかる機会は2回しかありませんでしたが、卓越した科学者であるのみならず人間性の豊かな方でした。教授の逝去は、チェルノブイリ事故の悲劇の歴史の一幕が終わったかのように感じられました。
また手紙や直にお目にかかってブラギンの博物館について、とりわけCOREプログラムによってこの博物館がどのように改築されたかについてお話しするのを楽しみにしています。
Jacques
2015年5月5日
量子さんの発表に改めて感謝します。放射線防護の専門家そして専門家のアドバイスを受ける政府関係者がこの発表を知れば、チェルノブイリや福島のように重大な放射線事故を
これらの「基準」は被曝状況を改善するために導入されたわけですが、セミナーでの量子さんの指摘の通り、現実にはすぐに住民の生活の
〔すなわち、関係者は〕住民たちと協力して、「放射線防護文化」──私たちは後にこう称するようになりました──を作り上げていくことによってのみ、汚染された地域にまっとうな生活を取り戻せるのです。このことは実証ずみです。私たちは、1990年代初頭のウクライナとベラルーシの経験から、チェルノブイリ事故〔1986年〕後に導入された放射線防護基準が悪影響を残したことを知り、エートス・プロジェクトの主眼を生活状況の改善におくようになりました。これは放射線防護、つまり被曝量を低減することだけが住人にとっての課題であるかのような一元的な見方とは異なる発想によるものです。
言うまでもなく、「放射線防護文化」を把握する難しさは、放射線が感覚でとらえられないことに起因します。放射線の存在は〔特殊な計器による〕計測によってしか明らかになりません。つまり、数値を介してしか、放射線の存在を察知できないのです。気温を測る場合には、温度計が示す数値と体感温度の関連を感じ取ることができます。ところが放射能に関しては、計測結果と感覚を結びつける手段がありません。私たちは他者を信用する必要がある、換言すれば、会話によって信頼を醸成するしかないのです。このため、他者の言葉への信頼が事故後の状況で最も重要なファクターの一つになります。
また、あなたは〔セミナーの〕発表の中で、日常生活を再び構築し直すために、測定と対話が鍵となる、そうすることで、その地域の住民各自が自らの志向や願いを手放さずに、暮らし・生活を営んでいく自由を手に入れることができる、と言っていましたね。この点、私も深く同意します。私の経験では、このプロセスは、〔個人のコミットメントだけでは不十分で〕コミュニティ(共同体)の関与が不可欠です。放射線防護文化を構築するためには、個々の住民のスキルや経験の蓄積が重要であることはもちろんですが、同時に、放射線防護文化は共通善(common good)なのです。この点、あなたが長く関わってきた
復興プロセスに大きな地歩を占めるようになっていくのは、次第に組織化されていくこの集団の次元なのです。私がこの力学に気が付いたのは、オルマニーの農家の女性に、飼っている牛の乳〔の放射能〕を今でも測っているかどうか尋ねた時のことです。彼女はさほどおおごととは思っていないかのように、「いいえ。隣の家でとれた牛乳を測って、よい値が出ましたから」と答えたのです。彼女の言葉の含意を理解するための鍵は、彼女が飼っている乳牛は隣家の牛と同じ群れで放牧されているという点です。このエピソードから、いわゆる「専門家」は地元の習慣を理解していなければならない、ということがわかります。この地区の場合牛は村の中の居住地域単位でグループ分けされ、あるグループの牛はいつも同じ場所で放牧される慣習でした。
彼女は何年もの間、エートス・プロジェクトのワーキング・グループで最も熱心に活動してきた気骨ある農業畜産従事者です。この女性が語っていたことのポイントは、防護を
あなたは〔セミナーの〕発表の末尾で、「県外に移住した人にとって『線』を動かすことは難しい」と記しています。確かに、汚染地域から離れた場所で暮らすようになった人たちの考え方を動かすのは難しいことです。その人たちは、被害を受けた地域の住民と一緒に活動し、現状に即した対応を構築していくという個人的な経験をしていません。その結果、〔時間の経過や除染等による放射能汚染の軽減や生活状況の改善について理解することがないまま〕事故当時のままの考え方で固まってしまっているからです。たとえば、ベラルーシには事故後30年経った今でも、1980年代〜90年代に行政が汚染地帯と認定した地域を訪れることを拒否する人たちがいます。現在ではもはや危険は認められなくなったにもかかわらず、です。事故後生まれた若い世代の中には、これらの地域に足を踏み入れることを拒否する人もいます。そんなふうに先入観を抱かれてしまった土地はベラルーシ全土のほぼ25%にあたります。
発表の最後に、あなたが指摘したのは、事故後に政府が導入した放射線防護基準は、人々の生活や共同体のあり方に、実にしばしば、死活的なダメージを与えている、ということでした。これは原発事故だけではなく、日常生活の中での被曝状況すべてに通じることかもしれません。ここの点、私は、放射線防護というものが、科学が要請する責務と人間の尊厳の尊重をどのように両立させうるか、長い時間思い惑ってきたのです。事故後、あなたが経験してきたことは、この点からも極めて示唆に富む、と思っています。
Jacques
2015年6月29日
In your letter you ask me about Jun’s pictures if I agree with you they illustrate human dignity. Not only his portraits show the self-esteem of the inhabitants of Suetsugi, but the scenes of everyday life also highlight the connection of these people with the habits and customs and the land that carries them. It took me a lot of time to understand that dignity is not only a question of self-esteem, autonomy and respect for each other, but also a matter of agreement with a culture. This dimension is certainly the one that is the most difficult to grasp.
It is by reading the 'Hiroshima Notes ' by Kenzaburo Oe, while the ETHOS project was developing, that I realized dignity was also at the centre of what was at stake in the Chernobyl post-accident situation. O? evokes in his book the humiliation and shame of the hibakushas physically marked by the bomb who 'hide themselves deep in their dark homes to escape the gaze of the other.' Then he points out the effort he described as ‘superhuman' on the part of those who still live in Hiroshima and have not given up to speak of the tragedy they experienced and the hopes they still have in a world without nuclear weapons. And it is in this insistence to testify that he says he discovered the dignity of the people of Hiroshima.
Relatively speaking, the situation of the inhabitants of Olmany had similarities with that of the hibakusha: the widespread consciousness of being regarded as 'second category' citizens condemned to live in a devalued territory, exposed continuously to discrimination of outsiders, and also facing an involuntary form of contempt in the way authorities and experts, confused by a situation they did not master, are treating them. Hence a vague feeling of shame of being Olmanien which most often resulted by a withdrawal into oneself and the silence. In contrast, the inhabitants who had join us to try to find ways of improving living conditions in the village and therefore dared to speak, attested an obvious dignity. I think you will agree with me that we can find these traits in Fukushima. People who come to testify in the Dialogue meetings also show a great dignity because beyond the effort to face the audience, they must also overcome their feelings of anger, bitterness and even shame. I refer in particular to the lady who spoke at a Dialogue about her shame of having abandoned her home at the time of the accident. I imagine how much courage she had to dig deep herself to share that feeling. Not to mention of course the discrimination that these witnesses must also overcome.
That said, if it is certain that the issue of dignity is common to the after-bomb and the post-accident situations, I do not think we can put on the same level the situation of the hibakushas and the one of the inhabitants of the contaminated territories. Hiroshima and Nagasaki were deliberate attacks of the living with the atomization and the wounding of the body. Fukushima is a profound rupture that creates an unprecedented situation and profoundly changes the relationship of man to himself, to others and to his environment. The irruption of radioactivity in the vicinity of each individual, this unknown and feared presence, generates a feeling of helplessness, loss of control on daily life, which severely amputates individual autonomy and cast a lasting shadow over the future. This sense of exclusion, sometimes close to abandonment, combined with the inevitable discrimination, which is anchored in the look and the attitude of 'those in the outer' are the breeding ground of the loss of dignity felt by so many victims of the accident but rarely expressed as such.
Beyond the above considerations, it seems to me that the examination of the similarities and differences between Hiroshima / Nagasaki and Fukushima certainly deserves to be deepened.
I was very surprised by the fact that the dimension of discrimination has emerged very early in the Dialogues in Fukushima. It was present already in the third meeting in July 2012. You certainly remember this young mother of Kanagawa wondering aloud if she would accept his son marry later with a girl of Fukushima and the indignant reaction of this other young mother from Date city. I still remember perfectly the tension raised by their exchange and the intervention of Mayor Nishida to replace the issue in the context of the history of Japan. It was one of the very highlights of this Dialogue meeting.
Going back to the question of the link between dignity and culture that I mentioned above, I cannot resist to tell you an episode that happened at the end of the Ethos Project and that made me aware of this other aspect of dignity.
To close the ETHOS Project, which took place from July 1996 to November 2001 in the Stolyn District, we organized with the assistance of the Belarusian authorities and the European Commission an International Seminar of two days in the city of Stolyn to present the project results and to draw key lessons. The day after the seminar we also organized visits by small groups in different villages that participated in the project so that foreign colleagues, most of whom were discovering Belarus and the contaminated territories, meet villagers and have a more precise idea of the local situation. I decided to join the group visiting the village of Gorodnaya located on the border of Ukraine, who had participated in the second phase of the Project. When we arrived at the village square we dispersed and, accompanied by Neale an English colleague and Nina my interpreter, I went directly to visit a family with three children who were the most contaminated in the village when we initiated our approach.
It was a sunny Sunday in late autumn at midday. The streets were deserted. When we arrived at the house of Galina and Yvan located a little away from the village, I showed Neale the vegetable garden in which the family drew most of its livelihood and which was the pride of the couple. During a visit Yvan had proudly presented me the glass jars of vegetables and meat and also the pots of jam aligned for the winter in a small cellar dug under a part of the house. I also indicated Neale the nearby forest where the family had continued for more than a decade after the accident to pick berries and mushrooms in ignorance about the contamination.
We surprised Galina alone in her kitchen: her husband and children were gone for the day to visit family members in a nearby village she clarified a bit later. In her colourful Sunday best, the traditional scarf on her head, bare feet, she watched a batch of bread that was finishing to cook in the oven. After the usual greetings, I recounted briefly for Neale, how Galina and her husband Yvan had gradually regained control of the radiation situation with the help of the French colleagues. As a result, during the last WBC campaign the 3 family children were among the least contaminated kids of the school. I also told Galina that Neale was the person in charge at the European Commission, who had followed and supported the ETHOS Project since its origin. Visibly moved Galina stared at length Neale before thanking him warmly and then she pulled out a loaf of bread from the oven with a wooden shovel, wrapped it in a newspaper and presented it as an offering to Neale, saying: "God bless you”.
I will never forget this special moment. All seemed to agree: the simplicity of the place, the smell of hot bread, the sun bathing the impeccably tidy kitchen with an autumn light, the shimmering colours of the clothes worn by Galina. And at the centre of this painting there was the sweet face filled with emotion and recognition of this young lady now appeased and confident. I remembered then when I first met Galina. She stopped me on the village square at the exit of a meeting to ask why her children were not selected to go to the sanatorium with the other children of the school. She had a daughter by the hand. Her face betrayed anger but also anxiety. What a long way since then. Galina, standing in the middle of this so Belarusian kitchen, wasn't she personifying the regained dignity of some of the residents of the contaminated territories?
You also evoke in your letter your visit to the Bragin Museum and your confrontation with the memory of Vassily Ignatenko, one of the firefighters victim of radiation. During the CORE program, I often visited the room of the museum that brings together some photos of him as well as remains of equipment worn by firefighters at the time of the accident. Likewise I repeatedly stopped before the memorial of the disaster in the centre of Bragin where Vasily Ignatenko bust is erected in the middle of a series of steles bearing the names of the missing villages of the District.
Then I was again confronted unexpectedly to Vasily Ignatenko in September 2012 during a visit of the Hospital No. 6 in Moscow specialized in the treatment of highly irradiated persons where he had been hospitalized after the accident. I saw the WBC box in which he was measured on arrival at the hospital and the room in which he had been decontaminated. I had trouble concentrating on the explanations because my thoughts always brought me back to Bragin, where the memory of Vasily Ignatenko is the most alive. Finally emotion took over and I do not remember much about the technical aspects of that visit!
Recently I learned from my Russian colleague of the Main Commission of the ICRP that Professor Angelina Guskova, a leading figure of radiation protection, had just died at the age of 91. It was she who had treated Vasily Ignatenko at Hospital No. 6 and tried in vain to save him. This specialist of acute radiation syndrome that I had the opportunity to meet only twice during my career, not only was an outstanding scientist but also a person of great humanity. With her passing a new page of the Chernobyl tragedy is turned.
I hope we will have the opportunity to discuss again in future letters or face to face about the Bragin Museum and particularly the way it was renovated thanks to the CORE Program.
May 5, 2015
I thank you again for writing it because it provides an important testimony concerning one of the major difficulties radiation protection experts, and obviously the authorities following their advice, are facing to manage the situation resulting from severe nuclear accidents such as Chernobyl or Fukushima. They need to quickly take steps to protect in the best way those affected taking into account the levels of radioactivity to which they are exposed. To do this they rely on estimates or measurements to establish standards expressed as figures which in the first instance mean absolutely nothing to people.
Then, as you well describe these standards, that are supposed to improve the situation, quickly become a blocking factor. They turn into "lines", as you call them, which deplete everyday life, and even mutilate and paralyze it. The whole issue of rehabilitation then becomes how to overcome these lines
Experience shows that it is only by developing step by step with the people what we have called afterwards the "practical radiological protection culture" that it is possible to restore decent living conditions. This is the observation, made in the early nineties in Ukraine and Belarus, of the deleterious effects of radiological protection standards that lead us in the Ethos Project to focus on the rehabilitation of living conditions, protection against radiation being considered as only one dimension of the problem.
Obviously, the difficulty to access to this culture is that there is no perceptible reality of radioactivity. Its presence can only be revealed by means of measurements, that is to say, via figures. When we measure the ambient temperature we can establish a link between the figure we read and what we feel physically. With the radioactivity there is no possible link with a feeling. We have to rely on others, in other words through speaking. This is where the issue of trust in the word of the others is one of the essential dimensions of the post-accident situation.
You rightly mentioned in your text the key role of measurement and discussion to initiate the process of re-appropriation of everyday life and thus to allow everyone to find a space of freedom in which he or she can again go about his or her business and act according to his or her inclinations and aspirations. Experience shows that this process necessarily involves the community. Beyond the acquisition of an individual capacity and expertise, the practical radiological protection culture is also a common good. In this respect the dynamic that deployed in Suetsugi very well exemplifies this dual individual and collective dimension.
It is this collective dimension that gradually organizes itself, which endup taking over in the rehabilitation process. This is something that I understood when a farmer of Olmany whom I asked if she had recently measured the milk of her cow replied to me with detachment "No, because my neighbour measured the milk of her cow and it is of good quality". To understand her answer obviously one had to know that her cow was in the same herd as the cow of her neighbour. Hence in passing, this anecdote demonstrates the importance for the "experts" to know local customs, namely in this case that the cows were grouped by village area in herds that were grazing always in the same pasture.
In her response, the brave farmer, who had also been involved for several years like no other in the working groups of the Project Ethos, meant that she had not lowered the guard but she was now relying on the shared vigilance by the villagers. After long years of personal anxiety and disintegration of the village community, Anna, this was the name of this farmer, had finally found again confidence in herself and in others.
At the end of your text you mention the difficulty of moving "lines" for those who reside outside of the Prefecture. Indeed in the absence of personal involvement in the appropriation of the radiological situation alongside those who reside in the affected territories, it is very difficult to change the mental patterns, which froze at the time of the accident. I know people in Belarus who still refuse, almost 30 years after the accident, to visit the territories that were considered administratively contaminated in the eighties and nineties, and no longer present any danger. Some young people born after the accident have never even set foot in these territories which represent almost 25% of the surface of their country.
Finally, you point out how authorities do not really realize the often disastrous consequences on people's lives and on the quality of the living together that the introduction of radiological protection standards may induce. This is not only true following a nuclear accident, but also for other exposure situations to radiation encountered in everyday life. I wonder for a long time on what could be a radiological protection that reconciles the imperatives of science and the respect for human dignity. I feel that your experience since the disaster is from this point of view the most valuable.
Sincerely Yours.
Jacques
June 29, 2015
「(n)委員会〔国際放射線防護委員会=ICRP〕は今、行為と介入の従来の分類に置き換わる3つのタイプの被ばく状況を認識している。これら3つの被ばく状況は、すべての範囲の被ばく状況を網羅するよう意図されている。3つの被ばく状況は以下のとおりである。
● 計画被ばく状況。これは線源の計画的な導入と操業に伴う状況である。(このタイプの被ばく状況には、これまで行為として分類されてきた状況が含まれる。)
● 緊急時被ばく状況。これは計画的状況における操業中、又は悪意ある行動により発生するかもしれない、至急の注意を要する予期せぬ状況である。
● 現存被ばく状況。これは自然バックグラウンド放射線に起因する被ばく状況のように、管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する被ばく状況である。
(o)改訂された勧告では3つの重要な放射線防護原則が維持されている。正当化と最適化の原則は3タイプすべての被ばく状況に適用されるが、一方、線量限度の適用の原則は、計画被ばく状況の結果として、確実に受けると予想される線量に対してのみ適用される。これらの原則は以下のように定義される:
● 正当化の原則:放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は、害よりも便益が大となるべきである。
● 防護の最適化の原則:被ばくの生じる可能性、被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは、すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら、合理的に達成できる限り低く保つべきである。
● 線量限度の適用の原則:患者の医療被ばく以外の、計画被ばく状況における規制された線源からのいかなる個人の総線量も、委員会が特定する適切な限度を超えるべきでない」(ICRP Publ. 103(2007年勧告)総括、邦訳p.xvii-xviii)
詳しくは、同文書(2007年勧告)の「6.3. 現存被ばく状況」(邦訳pp.70-72)参照。
また、『ICRP111から考えたこと――福島で「現存被曝状況」を生きる』には分かりやすい解説がある。とくに「第1回」の「現存被曝状況」:被曝と暮らす日常」参照。 http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html
http://fkouenbk.web.fc2.com/index.html
http://www.minpo.jp/pub/topics/odekake/2014/05/post_4230.html
http://www.ohtabooks.com/homo-viator/barque/11811/
http://icrp-tsushin.jp/dialogue.html
〔*6〕COREプログラム:国連機関等の支援によりベラルーシで実施された、汚染地域での生活条件改善プロジェクト。
〔*7〕ICRP第二回放射線防護の倫理に関するワークショップ:
プレゼンテーション(発表)の概要は以下にある。
――Workshops on the Ethics of the System of Radiological Protection
Supporting Task Group 94
2nd Asian Workshop
Jointly organised by Fukushima Medical University Fukushima and ICRP
Fukushima, Japan, June 2015
http://www.icrp.org/page.asp?id=237
図5は、第1回でも活用した、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査から、「ナショナリズム」や「ナショナル・アイデンティティ」「ナショナル・プライド」に関連した質問への回答の時系列的な変化(1973年〜2013年)を表したものである。ここでは、変化が激しい上の二本の折れ線にだけ注目することにしよう。上のの折れ線は、「日本人はすぐれた素質をもっていると思うか」という質問に対して、Yesと答えた者の比率の変化を、そのすぐ下のの折れ線は、「日本は一流国だと思うか」という質問に対して、やはり肯定的に回答した者の比率の変化を、それぞれ示している。
この二つの質問は、内容的に強く相関しているので、当然、回答の変化は互いによく似ている。つまり、二本の折れ線は、ほとんど同じ形で平行している。二つの質問は、要するに、日本や日本人に対して、当の日本人自身が、どのくらい自信をもっているのか、ということに関連している。
折れ線は、きわめてメリハリの利いた変化を示している。折れ線は、上がって、下がって、また上がる、というジグザクの形状をしているのだ。1980年代初頭までは、日本(人)に対して自信があると答える者の比率が急激に上がっている。1980年代初頭をピークに、日本が一流国であるとか、日本人はすぐれた素質をもつと答える者の率が、つまり日本(人)に対して強い自信を示す者の比率が、どんどん低下していく。低下の傾向は、世紀の転換期まで、つまり2000年頃まで続く。その後、つまり21世紀に入ってから、このグラフは、日本人の自信が、V字回復していることを示している(ように思われる)。
日本人の自尊心は、どうして、このように変化してきたのか。最も簡単に説明できるのは、最初の上昇局面、80年代初頭までの急激な上昇である。この原因は、日本の経済成長、日本の経済的成功にあったに違いない。70年代には、二度のオイルショックがあったが、他の先進諸国に比べて、日本経済は大きなダメージを受けなかった。つまり、日本は、他の先進国よりも高度成長を長く続けることに成功した。
著名な社会学者エズラ・ヴォーゲルがJapan as Number Oneを発表したのは、70年代の最後の年だった。この本は、日本に経済的な成功の直接の原因となった「日本的経営」を評価し、それをもたらした日本人の特性について分析している。原著が出版されると、すぐに邦訳版も出版され、大ベストセラーとなった。この本の副題は、Lessons for America(アメリカにとっての教訓)である。これほど、日本人の自尊心をくすぐる表現はない。戦後、日本は、アメリカの観点から「よい」と見なされる社会を目指してきた(理想の時代の「理想」とはまさにそのような状態であった)。それが、今や、アメリカの方から「お前こそわれわれの教師だ」と言われているのだ。日本人が自信をつけるのは、当然である。
いささか興味深いのは、第二の局面である。1980年代初頭から2000年にかけての20年間、日本人の日本に対する自信は一貫して低下している。21世紀に入った頃には、ついに、1970年代初頭の水準よりわずかばかり低い値になった。この低下が、社会心理学的に興味深いのは、この20年間の中に、いわゆる「バブル経済」の時期がすっぽりとすべて含まれているからである。1980年代のバブル経済の時期、日本人の所得も資産も凄まじい勢いで増加した。今日、しばしば、「失われた10年」とか「失われた20年」とかと言われるとき、「失われてはいないとき」として想定されているのが、まさにこの「バブル」の時代である。
バブル経済の時代、統計データに現れる数字で見れば、日本は絶好調である。しかし、図5からは、それが、日本人の、地に足がついた内的な自信には繋がっていないことがわかる。まさにバブル経済に突入した頃から、むしろ、自信は低下し始めているのである。日本人は、バブル経済の渦中にあるときにすでに、その表向きの成功が空虚なものであることを直観していたのだ。
図5のグラフで、最も不可解なのは、2000年代に入ってからの第三の局面である。21世紀に入ってから、この調査で見る限り、日本人の自信は、反転して、急速に回復している。「また自信がついてきてよかったね」と言いたいところだが、ふしぎである。なぜ、自信が回復しているのだろうか。あのバブルのときでさえも、自信を失いつつあったというのに。
この点を説明する前に、「日本人の自信」の変化を示す、折れ線のこの三つの局面、つまり「上昇→下降→上昇」と推移する三つの局面が、私が提起している、戦後の精神史の三つの段階に、ゆるやかに対応している、ということを指摘しておこう。戦後精神史の三段階とは、理想の時代から虚構の時代を経て不可能性の時代へと転換してきた時代の流れである。
この精神史の三段階と、このグラフの三局面が対応するはずがない、と直ちに反論されるだろう。私の見立てでは、理想の時代は、1970年前後に終わるからである。それに対して、NHK放送文化研究所の最初の調査は、1973年に実施された。つまり、理想の時代がすでに終わった後、虚構の時代の初期の頃から、われわれはデータをもっていることになる。
だが、この種の時代というものは、時間軸にそった社会の流れを、(時間軸に対して)垂直に切断するものではなく、言わば、斜めに切断するのだということに留意しなくてはならない。理想の時代に属する要素は、1970年を超えても残っているし、逆に、1960年代であっても、虚構の時代につながる要素は見出すことができる。
理想の時代の前半(1960年まで)は、政治的理想が優位だった時代であり、後半は、経済的理想が優位だった時代だ。その経済的理想が、高度経済成長を牽引した。今述べたように、日本の場合、高度経済成長が、70年代のオイルショックを経ても失速したり、変質したりすることがなかった。そのことが、日本人の「日本への自信」につながったと考えられる。したがって、80年代初頭までの「自信の上昇局面」は、理想の時代の残響のようなものである。
虚構の時代の経済的な──しかも極端な──表現が、「バブル」である。人々は、生産される「実物」にではなく、市場がうみだす「幻影」を欲望する。このバブル経済に端を発するのが、「自信の下降局面」である。とするならば、これは、虚構の時代にゆるゆかに対応している。そして、2000年代の、不可解な「自信の再上昇局面」が、不可能性の時代のナショナリズムの一表現であると解することができる。
どうして、21世紀に入ってから日本人の日本にたいする自信は、急速に回復しているのだろうか。ふしぎである。なぜなら、この間、日本は世界に自慢できるほどのことをほとんど何もなし遂げてはいないからだ。
もともと「自信の源泉」だった経済に関して言えば、明らかに不調である。90年代前半から、日本のGDPはほとんど増えていない。経済成長率は、先進国の中でも最低ランクである。政治についてはなおさら、「自慢できること」など見あたらない。国連の安保理の常任理事国になりたいという話があるが、十分な数の他国からの支持はなく、当面、この希望が叶う情勢ではない。
強いて言うならば、文化的には、自慢の種が見つからないわけではない。「クールジャパン」といった標語の下で、海外で受容されている、アニメ等の日本のサブカルチャーが、それである。とはいえ、これが、日本人の自信を80年代初頭のレベルにまで押し上げるほど強力な原因になっているとは思えない。「クールジャパン」などという標語も、日本人が自分で名づけているだけなのだから。
とするならば、どうして、意識調査では、日本人の自信が急激に回復している、という結果が出ているのだろうか。根拠らしい根拠がまったく見あたらない中での自信回復。私は、これに著しく不穏なものを感じる。
振り返ってみよ。「自信がある」と公言している者が、ほんとうに自信があるとは限らない。真に自信を持っている者は、しばしば、意外と謙虚である(もちろん、その人の性格にもよるが)。「私なんかまだまだですよ」と自分の欠点や不足を率直に認めることができる人は、自分の実力を自分で正確に把握しており、相応の自信をもってもいる。つまり、人間は、むしろ、一定以上の自信があるときの方が、自分の弱さや欠点を直視することができるのだ。
逆に、人は、ときに、自信がないときかえって、自信があるかのようにふるまう。この態度が、他人には、「自信過剰」とか、「根拠のない自信」に見える。2000年代以降の「日本人の自信」の表明は、まさにこれではないか。つまり、経済的にも、政治的にも明らかな不振の中での、「自信」の表面的な上昇は、むしろ、自信の崩壊への反応ではないか。1980年代・90年代の方が、つまり一見、自信が低下しているかのように見えるときの方が、日本人は、自分の欠点を冷静に見ることができるだけの余裕があり、むしろ、自分に自信をもってもいたのだ。その余裕さえも失ったとき、人は、虚勢をはり、「自信がある」ということを過度に強調したくなる。これが、21世紀に入ってからの、「自信の再上昇局面」で起きていることではないか〔*16〕。
日本人は、現在、「他者(他国)に誉められること」に飢えている(ように見える)。つまり、やたらと褒められたがっている。もちろん、誰でも他者から賞賛されたいに決まっているのだから、そのことに特別な意味を読み取るべきではない、と言われるかもしれない。だが、私は、少し褒められたときの日本人の反応に、いささか過剰なものを感じてしまう。
たとえば、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催決定。もちろん、わざわざ立候補して、開催地に相応しいとして一位に選ばれたのだから、喜ぶのは当然である。だが、次のことを思い返してみるとよい。東京オリンピック開催への日本人の支持率は、開催地を争った他の都市、つまりイスタンブールやマドリードの開催に対する自国民(トルコ人、スペイン人)の支持率よりかなり低かった。2012年5月(開催地決定の一年余り前)にIOCが行った調査によると、マドリード開催を支持する同市民は78%、イスタンブール開催を支持する同市民は73%なのに、東京開催を支持する東京都民は半分にも満たなかった(47%)。したがって、少し極端に表現すれば──少なくともマドリードやイスタンブールとの対比では──、日本人としては、もともと、「是が非でもオリンピック・パラリンピックを開催したい」と願っていたわけでもないのに、開催地に選ばれてしまった、というような状況である。日本人の大半は、東京オリンピック・パラリンピックの開催地になったことを喜んでいるが、それは、「念願のオリンピック・パラリンピックを主催できる」からではなく、単に「一番」に選ばれたからではないか。つまり「(開催地として)最も相応しい」とIOCに選ばれたからではないか〔*17〕。
こうした事実に、私は、他者(他国)に褒められることへの、いささか強すぎる欲求があったと感じてしまう。もちろん、誰だって、他者から承認されたり、賞賛されたりしたい。そのこと自体は、決して悪いことではない。だが、人は、自信がないとき、余計に人に賞賛されたくなる。過剰に「いいね!」と承認されたくなる。人は、自信があれば、多少の非難や批判には耐えられるが、自信がないときには、ほんのわずかな批判に激昂する。逆に、「いいね!」と言ってもらうことで、自信の不足を何とか補いたくなる(ただし、たいてい補うことはできない)。
東京オリンピック開催に喜ぶ日本人には、いささか、こうした状況に似たところがないだろうか。さらに、もう少しだけ意地悪なことを書いてしまおう。東京(日本)は、IOCで、他の国々の人々に「いいね!」「お前が一番いいね!」と言ってもらった。それはうれしいことだ。だが、これを自信につなげるには、自分自信で、「私はすばらしい」「俺はいい」ということに納得しなくてはならない。そのためには、自分の何がそんなによいのか、どこが「いいね」と言ってもらえたのか、を自分で心底から理解する必要がある。ところが、よく考えてみると、東京(日本人)も、どこが「いい」のか自分でも、正直なところよく分からない。客観的には、そうした当惑も当然ではある。なぜなら、IOCでの東京の勝利は、東京がすばらしかったからというより、他の諸都市のそれぞれに致命的な欠点があったことによるからだ。自分でホームランやヒットを打って勝ったのではなく、敵失で勝った試合のようなものである。しかし、はっきり言えば、ライバルが転んだから勝った、というような勝ち方では、自信はつかない。そこで、日本人としては、自分に何か積極的によい点があったから選ばれたのだ、と解釈したくなる。
だが、なかなかそのような美点は見つからない。けれども、よくよく探ってみると、見つかった! 「おもてなし」だ! 「おもてなし」の態度において、われわれはすばらしかったのだ! 確かに、「おもてなし」、つまり歓待hospitalityの態度は、すぐれた徳、人間のいくつもの徳の中でも最も重要な徳のひとつかもしれない。他者を歓待する心性と行動において優れているということは、誇りうることなのかもしれない。
が、しかし、ここにまた過剰があるようにも思える。「私は『おもてなし』の能力においてすばらしい」と大声で言うことには、自己否定へと向かいかねない過剰さがあるのだ。デーブ・スペクターが『朝日新聞』のインタヴューで語っていたことだが、「おもてなし」の態度のすばらしさは、自分からすすんで積極的に公言するものではない〔*18〕。もてなされた方が、感謝の気持ちから言うべきことである。自分から進んで「私のもてなしはすばらしいでしょう」と言ってしまうと、「もてなし」そのものが台無しになる〔*19〕。「おもてなし」に自分の長所を見出す現在の日本人のやり方に、私は、およそ根拠のないところに何かを見ようとする無理を感じてしまう。つまり、自分のことを何としてでも「すばらしい」「よい」と思いたいという焦慮が、ここにはあるように思えてならない。
今、オリンピック開催に託して述べたが、その他の多くの場面で、現在の日本人は、他者(他国)からの賞賛を渇望している。さまざまなこと、ときには非常に些細なことを見つけては、外国人が感心しているとか、外国人に褒められているとか、ということを言い立て、報道したり、ネットを通じて発信したりしている。たとえば、日本を直接的・間接的に褒める本の刊行点数が増えている。「日本の列車は定刻通り発車するので外国人が驚嘆している」とか、「日本人の新幹線の掃除の手際よさを外国人が一斉に賞賛している」とか、「ラーメン屋の前の行列が整然としているので、外国人が日本人のマナーのよさに感心している」とかいった報道が、頻繁になされている。さらに言えば、いくつかの日本の自然や文化遺産が、「世界遺産」として承認されたときの日本人や地元住民の喜びようも、「東京オリンピック開催決定」と類似の過剰さがないだろうか〔*20〕。
誤解がないとは思うが、念のために述べておけば、もちろん、おもてなしが上手であるとか、ラーメン屋の行列が秩序だっているとか、ということ自体は、善いことである。賞賛に値することであろう。しかし、この事実をことあげし、強調する点に、過剰なものがある、と述べているのである。
つまり、日本人は、今、褒められたくて仕方がないのだ。どうして、これほど褒められたいのか。なぜ、かくも賞賛に飢えているのか。ここまで述べてきたことを繰り返し強調しておく。これは、日本人が、自分に強い自信をもっているので自慢している、という状況ではない。まったく逆である。日本人は今、まったく自信がないのだ。そういうとき、人は、他者に褒めてほしい、承認してほしい、と切実に願う。外国人の賞賛の的になっている現象を至るところで探し回ったり、さまざまな言動や歴史的産物を自画自賛したがるのは、自信の崩壊を補償するためではないか。
たとえば、90年代の末期〔*21〕に、「ここがヘンだよ日本人」という番組があった。これは、外国人の観点から、日本人にとっては自明なこんな行動がおかしく見えるとして、それを皆で笑ったり、おもしろがったりする番組である。当時の日本人には、こうしたことを楽しむ余裕、つまり自信があった。しかし、現在、同じ番組を放送すれば、自虐的だという批判が出るだろう〔*22〕〔*23〕。
それでは、どうして、日本人は、かくも自信を失ったのか。なぜ、21世紀に入って、日本人の自信はこれほどまでに崩壊したのか。
その最大の要因については、ここでことあらためて書かなくても、誰でも簡単に推測することができる。また、すでに何人もの論者が指摘してきたことでもある。東アジアの中での日本の地位の低下、韓国・中国の経済的・政治的な台頭が原因である。とりわけ、中国の経済的成功と政治的プレゼンスの上昇が、大きい。
長い間──明治維新以来──、日本は、(東)アジアで最もすぐれた国であるとの自負をもっていた。ところが、21世紀に入って、中国や韓国が、経済的にも政治的にも躍進してきた。こうして、(東)アジアにおける、日本の相対的な地位が、急速に低下した。
特に重要なのは、アメリカの視点である。戦後ずっと、アメリカから見たときに、日本は東アジアで最も重要な国であった(と日本人は当然のように確信していた)。前回述べたように、「アメリカに愛されている」という想定が、戦後日本の出発点である。しかし、今や、アメリカにとって、日本よりも中国の方が重要な国である。アメリカにとって、中国はもはや(戦争すべき)敵ではなく、米中関係は日米関係よりも大切だ。中国は、日本人にとって、(潜在的な)敵──少なくともライバル──なのに、アメリカにとっては、友──心底から愛し合っているわけではないがそこそこ尊重すべき友──なのだ。このことは、日本人の自尊心を著しく傷つけている。
第3回で述べたように、「アメリカの観点」は、戦争に負けて以降、日本人が自分自身の「よさ」「望ましさ」を評価する基準であった。(日本人が想定する)「アメリカの観点」は、戦後日本にとって、第三者の審級だったのだ。その第三者の審級であるアメリカから見たとき、中国の方が日本よりも大事なのではないかという不安が、日本人に、自信を決定的に喪失させることになった。想像してみるとよい。あなたが畏敬の念をもって接している先輩が、あるいはあなたの恋人が、あなたの大嫌いなライバルを大事な友人として遇し、あなたよりも大切にしている、という状況を。これは、あなたにとって、そうとうにダメージの大きな状況ではないか。
嫌中・嫌韓本の流行には、もちろん、こうした背景がある。ヘイトスピーチは、その極端なケースだが、そこまではいかなくても、ワイドショーや日本の週刊誌・タブロイド紙は、中国や韓国にあからさまな不祥事があると、とてもうれしそうにこれを報道する。それらは、インターネットでも、嘲笑やバッシングのネタになる〔*24〕。隣国の失敗、隣国の欠点を、喜んでいるのである。当たり前のことをわざわざ書かなくてはならないのは情けないことだが、他者の欠点や失敗を嗤う者は、指摘されているその欠点や失敗がどんなに大きなものであったとしても、その他者よりも下劣である。嗤えば嗤うほど、日本人の相対的な地位はますます低下するのに、我慢ができず、ライバルを見下してしまうのだ。
21世紀に入ってから、日本人の日本(人)への自信は著しく低下している。このことが、意識調査の上では、逆のかたちで現れる(自信が回復しているかのように見える)。この日本人の自信の崩壊は、現在の日本の安全保障政策にも大きな影響を与えている。
〔16〕 NHK放送文化研究所は、1973年〜2013年にかけて5年毎に実施してきた調査を、数量化Ⅲ類で分析している(『現代日本人の意識構造〔第八版〕』NHK出版、2015年、235-249頁)数量化Ⅲ類とは、次のような統計的手法である。アンケート調査では、いろいろな質問をして、回答を選択してもらう。質問Qにaと答える人と質問Rにbと答える人が、ほとんど同じだったとしよう。例えば、実際「婚前交渉は許されますか」という質問に対して「愛情があれば可」と答える人と、「夫婦別姓」に関して「別姓可」と答える人は、ほとんど重なっている。ということは、ここには同じ因子が利いていて、「婚前交渉 愛情で可」と「夫婦別姓可」という回答は、その同じ因子の二つの現われ方かもしれない。こうした考え方をもとに、似たような選択・回答をまとめながら、主要な因子(コンポーネント)を見つけ出す手法が、数量化Ⅲ類である。同研究所の「日本人の意識」調査は、数量化Ⅲ類によって解析してみると、結局、二つの独立した因子が利いていることがわかる。「あそび志向—まじめ志向」という因子と「伝統志向—伝統離脱」という因子である。ここで、後者の因子の方に注目してみると、1973年から2013年までの40年間で、全体として、日本人の意識は、「伝統離脱」へと向かう傾向があることがわかる。つまり、伝統や慣習に規定された考え方や行動が少なくなってきた。と、ここまでは、予想通りで、当たり前だろう。だが、もう少し繊細に見ていくと、1998年の調査で、伝統離脱は最も大きくなり、それ以降、小さいながら、伝統志向への反動があることがわかる。つまり、21世紀に入ってから、日本人は、伝統志向の傾向を示しているのだ。その伝統志向の内実を見ると、例えば、性規範について保守化や反動が見られるわけではない。顕著に目立っているのは、天皇感情の尊敬度の増加である。21世紀に入ってから日本人は、「天皇陛下はすばらしい」とか「皇室はよい」という感情や判断を強めているのだ。この「天皇・皇室への尊敬度」の上昇は、「日本への自信」に現れているナショナリズムの強化と、おそらく相関している。
〔17〕 たとえば、東大の医学部に合格すればうれしい。が、よく考えてみると、医者になりたいわけでも、医学に興味があるわけでもない、ということがある。このとき、合格者は、人もうらやむ難関の大学に合格したこと自体がうれしいのだ。2020年の東京オリンピック開催の決定も、これに似ている。
〔18〕 『朝日新聞』2015年7月28日。
〔19〕 ここで述べていることは、「ありがとう」のような感謝の表現で考えると、なおいっそうわかりやすいだろう。自分が、他者に感謝されてしかるべきことをやった、と思うことはよくある。だが、このとき、他者に、感謝を強要したらどうか。あるいは、「私はあなたにお礼を言われるに値することをした」と、間接的に感謝を要求したらどうだろうか。そのとき、私の、「感謝に値する行動」の価値は一挙に下落し、無になってしまう。
〔20〕 ユネスコの世界遺産の制度が始まったのは、1972年である。しかし、日本は、当初、この制度にほとんど関心を示さなかった。日本が世界遺産条約を批准したのは、この制度がスタートしてから20年も経った1992年である。先進国の中で最も遅い。日本人は、長い間、国内の歴史遺産や自然物が世界遺産の中に登録されたいという願望をもってはいなかったのだ。この条約の批准のために、日本国内で努力した人たちも、当初、世界遺産登録が、日本国内で、現在ほど大きな出来事になるとは予想していなかったのではないか。
〔21〕 厳密には、1998年10月から2002年3月まで。
〔22〕 編集者の武田砂鉄の指摘。『朝日新聞』2015年7月28日。
〔23〕 ここで、少しばかりテクニカルだが、重要な仮説を提起しておこう。現在の「日本賞賛」「日本褒め」は、アイロニカルな没入の産物ではないか。アイロニカルな没入は、オウム事件を分析したときに、私が提起した概念である。対象に対して、アイロニーの意識をもって距離をとっていたのに、その冷笑的な意識が、当人には自覚されることなく、本気に没入する(はまる)態度へと変容していく現象を、この語で指している。たとえば、オウム信者は、少なくとも一部のオウム信者は、当初、教祖麻原彰晃のハルマゲドン幻想に対して、「ごっこ遊び」的に、あるいは「なんちゃって」的な意識をもって関わっていた。しかし、彼らは、いつのまにかに、それに没入し、ハルマゲドンを現実と見なしているとしか思えないように振る舞った。ここで、重要なことは、アイロニカルに冷静な距離をおく意識とはまってしまった本気の行動とが、シームレスにつながっていて、どの段階で冷静な距離が消えたかということが、当人にはまったく意識されないということである。似たようなことが、現在の、日本人による日本褒めにも言えないだろうか。たとえば、ラーメン一杯のために長い行列をつくり、おとなしく順番を待ち続けるとか、自分の美点は何かと考え詰めたとき、答えに窮して「おもてなしが得意だ」と言ってしまうとか、こういったことは、見ようによっては、「ここがヘンだよ日本人」で扱われてもふしぎではない滑稽な側面をもっている。90年代までは、日本人は、それらを自ら、アイロニーの意識をもって見ていたのだ。しかし、今や、その同じ現象に、日本人は没入している(大まじめに、実存をかけた長所のように見なしている)。この章の冒頭に示した「日本に対する自信」のグラフをもう一度、思い起こしてほしい。80年代から90年代にかけての下降の局面は、「アイロニーの意識」が前面に出ていたとき、2000年代の上昇局面は、「没入」が優位を占めているとき、と解釈できるかもしれない。繰り返せば、両者は、連続的に繋がっている。現在の日本人が、大げさに自賛していることの多くは、ほんの少し前までは、自嘲気味に笑い飛ばしていたことだったかもしれないのだ(「私たちが得意なことは、静かにラーメン屋の前に並ぶことです」と自慢している人を思い浮かべるとよい)。ついでに言っておけば、日本の国会の中でそれこそ本気で議論されていることの多くが、「ここがヘンだよ日本人」的な笑いの対象となりうることである。
〔24〕 大韓航空機の「ナッツリターン」事件のことを思うとよい。
手術や長期の療養が必要な病気もありますし、手術は成功したもののその後ずっと定期的な通院と服薬が必要な場合もあります。さらに、病気からの回復が見込めないこともあります。病気と生涯付き合う場合もあれば、病気の進行が止められず、命を落とす場合もあります。
一般に病気は厄介ですし気が重くなるし苦しいものです。生まれてから死ぬまで、人間の身体と精神にあっては、重大なものからそうでないものまで、なんらかの不調と回復のサイクルが絶えることはありません。
日本では健康保険が普及し、病院は行きやすい場所になりました。しかし、病院に不満を覚えなかった人があるでしょうか。診察室では、医学的知識と臨床経験を積んだ医師と私たちのあいだに、圧倒的な不均衡(アンバランス)があるからです。その日、私たちは具合が悪く、気弱になっていますから、この不均衡は巨大です。
さらに病院はいつも混み合い、3分間診療などと言われる始末(なぜ混雑するのか、その解消法はないのかについてはいま措きます)。さんざん不平不満が並べられても、慌ただしい診察(加えて、つっけんどんだったり冷淡だったり横柄だったりするあしらいなど)は、すぐには変わりそうもありません。
(医師や看護師や病院事務など医療スタッフはいつも忙しそうだし、疲れているように見えます。スタッフの疲弊と激務を知っても、患者である私たちにはどうすることもできない、という思いがあります。)
診察室の居心地の悪さ・威圧される感じ・言いたいことも言えない、訊きたいことも訊けない雰囲気に象徴される、医師と私たち患者のコミュニケーション不全が消えることは当分なさそうです。
さて、ここに、一人の「もの言う患者」がいます。乳がんを患っています。10年以上の試行錯誤、葛藤、絶望、怒り、あきらめ——ありとあらゆる感情の嵐をくぐり抜け、(これまでの私はともかく、今後)患者がこんな思いに追いやられるのを繰り返していてはいかんだろう!と思い立ちました。
そこで、診察室では医師に訊けないが、ほんとうは知りたいことを、信頼する医師に率直にぶつけてみました。いったいどうしてこんな思いをしなければならないのか、その解決の糸口にならないか、だれしも病を背負うものならば、自分の経験を踏み台にしてほしい、困っている人に役に立つ情報を提供したい、という希望をこめています。
これから連載でご覧に入れるものは、「もの言う患者」である冨田香保里さんと、医師の高野利実先生のQ&Aです。今回はその第一回。お二人の「はじめに」を掲載します。(編集部)
がんを告知されると、患者は急に神経質になって、医師に求めるものが、告知前とまったく変わってしまいます。
自分に対して真摯に向き合ってくれているのか、医療者としてちゃんとした人なのかとても心配になるのです。何せ自分の命がダイレクトに掛かっているのですから、仕方がないですね。医師と一対一で向き合う診察室は、私たち患者にとってまさに命のやり取りの現場です。
この感覚が、医師にちゃんと理解されていないのではないか、と私はずっと感じてきました。
そして、いつも思うのです。診察室を出て帰路につき、なぜ、あの時もっとちゃんと質問できなかったんだろう。なぜ、時間を気にしてヘラヘラと笑顔で部屋を出ちゃったのかしら、と。自分に対する情けなさ、そして、悔しさにおそわれます。──でもちょっと待てよ、と思うのです。「別に患者は悪くないでしょ」と。
心ない言葉を口にして患者である私を傷つけたのも医師だし、訊きたいことを十分に訊く時間をつくってくれなかったのも、患者の責任じゃありません。
ちなみに私の病歴は、2003年に乳がん発見、その後7年間代替療法で安定するも、2010年骨転移、抗がん剤治療開始、現在に至る、です。
そうこうしながら、私は私にとって満足の行く医師を探しまわりました。これを人は「ドクターズショッピング」と言ってイヤな顔をします。が、自分にピッタリの環境や条件を探すのは(普段だれでもやっていることだし、がん患者になったからには)当然のことです。
案の定、と言うべきか、虎の門病院の高野先生との初回の診察も険悪でした。先生はいきなりこう言ったのです。
「あなたはこの病気で死にます」と。
頭まっ白けで帰りました。汗びっしょりで。
でも、何か心に残るものがあって、次もメゲずに行きました。すると先生は、あろうことか、また同じお言葉をのたまわったのでした。「あなたはこの病気で死にます」と。
私はもう返す言葉も気力もなく、思わず先生のイスを、蹴り飛ばしてしまいました。キャスター付きのイスはばぁーんと後ろへ下がって先生は離れて行きましたが、すぐに足で漕いで戻って来ました。
私が、「人は何が原因で死ぬかだれにもわからないでしょ。先生だって、明日交通事故で死ぬかもしれないじゃない。今の言葉、訂正してください」と半ばタメ口で言うと、やや間があって、「訂正します」と意外な答え。
これでいっぺんに高野先生を「イイ奴」ランク(?)上位に入れてしまい、ついでに、これを機会に、私だけ一方的にタメ口が許される、という「カジュアル特典」が付きました。
その後もケンカは続き、「イヤなら来なきゃいいじゃないですか」「イヤ、また来る」などの諍(いさか)いが頻繁にありましたが、3年経った今、2人とも穏やかに、平和な会話ができるようになりました。ちなみに高野医師は私の主治医ではなく、アドバイザー的立場で、3ヶ月に1回診てもらっています。(2014年8月—2015年3月)
いきなり冒頭から不穏な感じですね。「これまでの年余にわたる、「診察室での語り合い(言い争い? ケンカ?)」を、診察室だけにおさめておくのはもったいないので、本にしてみたい」という、冨田さんからの提案に、最初は「面白いかも」と、僕も乗り気だったのですが、冨田さんの冒頭の文章を読んで、少々ドキドキしてきました。
読者の方は、この高野という医者は、不安におののく患者さんに向かって、椅子にのけぞりながら、「あなたはこの病気で死にます」と、悪魔のように言い放つ、心ない医者と思われたかもしれません。でも、あの場面では、冨田さん以上に、僕も不安だったんじゃないかな、と思います。
気の小さい僕は、生まれてこの方、ずっと女性の顔色をうかがって生きてきました。子供のころは、母親の影響力が大きかったし、医者になってからは、看護師さんに怒られないようにビクビク仕事をしているし、結婚してからは、一番怖い女性が家にいるし。そんな僕が、よりによって、ほぼ女性の病気である乳癌を専門とする医者になってしまったのですから、大変です。火曜と水曜は、朝から夜まで、主に乳癌の女性を30人ほど診るわけですが、そんな外来日の朝は、出勤するのも不安で憂鬱なんです。
初めての患者さんを診察室に迎えるときは、こちらの緊張も頂点に達します。冨田さんのような個性的な方を迎えた場合なんか、なおさらです。イスを蹴り飛ばされたというのは、(恐怖のあまり?)私の記憶からは消えているのですが、そんなことまでされていたんですね。心拍数はふだんの3倍くらいになっていたんじゃないでしょうか。
冨田さんの「はじめに」に、「あなたはこの病気で死にます」と、僕がいきなり言ったと書いてありますが、さすがに、何の前振りもなく、こんなことは言っていないと思います。進行がんの場合は、がんを完全にゼロにすることは期待しにくく、この病気で命を落とす可能性が高いというのは事実ですので、この事実は伝える必要があると思っていて、きっと、言葉を選びながら、それを伝えたはずですが、どんなに言葉を選んでいようとも、「あなたはこの病気で死にます」という露骨なフレーズとして、患者さんには深く突き刺さっているということですね。
でも、この事実を告げるだけで終わっていたら、それは、確かに悪魔です。進行がんの患者さんにこの事実を伝えるときは、患者さんの反応を注意深く見ながら、言葉を選んで伝えるわけですが、大事なのは、この事実を伝えたあとに、「希望」を共有することです。
僕は、「あなたの病気はゼロにならず、いずれ命にかかわるようになる」ということを伝えたあとで、「でも、それは絶望じゃないんですよ。たとえそうだとしても、目標を持って、これからの時間を過ごしていきましょう」「病気がゼロになるかどうかなんて、実は重要な問題ではないと僕は思っています」「ゼロであろうがゼロではなかろうが、希望と幸せと安心を目指すということに変わりはありません」なんてことを言うわけです。
冨田さんにもそこまで説明したはずですが、あまり伝わっていなかったんですね。「治らない」と聞いただけで、絶望の宣告と受け止め、それ以降は「頭が真っ白になって、説明が何も聞こえなくなっていた」なんていう患者さんも多いですので、難しいところです。
冨田さんは頭が真っ白になったということはなかったようですが、頭が沸騰してしまったようですね。そんなやりとりの中で、売り言葉に買い言葉というか、直接的な表現のやりとりが展開されたのでしょう。まあ、その結果、それなりの信用を得られたということなので、結果としてはよかったのかもしれません。
僕の本音や、伝えたいことは、本書を通じて具体的に書いていこうと思いますが、医者も生身の人間であり、こっちも、緊張してドキドキして、感情の起伏があって、いろいろと悩みながらやっているということをわかってもらえたら嬉しいです。
本来、こんなことを本に書いてみなさんに読んでいただくなんて、考えもしないことでした。むしろ、そういう本音を隠して、「医者らしく」見せることが信頼を得る近道なのかと思っていた節もあります(「医者らしく」って何よ?っていう冨田さんからの突っ込みが聞こえてきそうですが)。
今回、冨田さんからの提案でこのような機会を与えていただけたことを、ありがたく思います。と言いつつ、このような本音を書いていいのだろうか(不快に思う患者さんもいるのではないか)、というためらいがあるというのもまた本音です。
この原稿を、ここまで書いたところで、冨田さんの訃報に接しました。
本書は、冨田さんの遠慮のない質問に、私が本音で回答し、さらにそこに冨田さんからの鋭い突っ込みが入る、という形を取る予定でしたが、私の筆が遅かったがために、私の回答は、天国の冨田さんに向かって一方的に語りかけるだけになってしまいました。
それでも、冨田さんは最期のときまで、本書が世に出ることを望んでおられたということです。複雑な感情が交錯していますが、生身の人間としての医者の本音をさらしてほしいというのが、冨田さんの希望でしたので、それにできるだけ応えたいと思っています。
診察室で丁々発止やりあっていた頃を昨日のことのように思い出しながら、もう再びは直接やりあうことのない現実の中で、それでも、今こうやってコンピュータに向かって原稿を書いているのを冨田さんが覗き込んでいるような、そんな感覚で書き進めています。
ドキドキしながら、そして、冨田さんのご冥福を心より祈りながら。(2015年6月)
]]>戦後という区分が、今日でも通用するのは、日本のみである。つまり、第二次世界大戦が終結してから70年も経過して、なお「戦後」という一つの時代区分の中に、自分たちの現在を位置づけている国民は、日本人しかいない。他国では、戦後Postwarはとっくに終わっているのだ。
70年は長い。たとえば、1975年当時の日本人が、日露戦争以降の70年間を一つの連続した時代と認識したかどうかを考えてみるとよい。あるいは、昭和初期の日本人が、明治政府が成立してからのおよそ70年間を、われわれが今日「戦後」に認めるほどの連続的な時間として感受できたかを、思ってみるとよい。中村草田男が「降る雪や明治は遠くなりにけり」と歌ったのは、昭和6年(1931年)のことである。それは、江戸幕府が終わり、明治時代に入った年から数えて63年目にあたる。明治時代が終わってからは、20年しか経っていない。しかし、現在の日本人は、十分に「戦後は遠くなりにけり」とは感じていない。その証拠に、大半の日本人がすでに戦後の生まれであるにもかかわらず、やはり戦後生まれの首相が「戦後レジームからの脱却」と唱えても、滑稽なこととは思わない。
どうして、日本では、日本でのみ、戦後はいつまでも終わらないのか。この問いに対するほぼ確定的な回答は、白井聡の『永続敗戦論』によって与えられている〔*5〕。白井の論は、1995年に加藤典洋が『敗戦後論』で示唆し〔*6〕、またこれとは独立に、2012年に赤坂真理が小説『東京プリズン』として表現していたことを、明晰化したものだと解釈することができる〔*7〕。その結論はこうである。
日本人は、敗戦の事実を否認したからだ、と。ある意味で、日本人は、まだ十分に敗戦していないのだ。だから、「戦後が終わらない」どころか、まだ戦「後」は、ほんとうは始まってさえいない、ということになる。敗戦を否認したがために、逆に、70年間ずっと、間延びした敗戦を続けてきた、このままではずっと敗戦し続けることになる。これが白井の論じたことのエッセンスである。
ここで「否認」という語は、精神分析のテクニカルタームとして使用されている。人は、ときに、明白に知っているはずの事実に関して、それを信じていないかのようにふるまうことがある。知っているはずなのに、ほんとうには分かっていないかのように、である。
フロイトは、フェティシズム的な性欲を説明するために、この語を用いた。男性は、しばしば、女性の身体や性器に対してではなく、下着等の女性の着用物や性器から隔たった身体の特定部位に対して、強い欲望を抱く。どうしてなのか。フロイトは、次のように説明する。男の子は、女の子にはペニスがないことを発見したとき、強い衝撃を受ける。この事実は、去勢の恐怖と結びついているので、男の子はこれを否認しようとする。女の子にペニスがないというあからさまな事実と女の子にもペニスがあるはずだという幻想とを架橋するために、男の子は、「女の子のペニス」に相当するものを見出すことになる。それが、たとえば「女の下着」(女の子のしかるべき場所にペニスがないことを発見する直前に見たもの)であり、フェティシズム的な性欲の対象となる。
フロイトのこの説明が、この種の欲望の発生メカニズムとして妥当かどうかは、今はどちらでもよい。いずれにせよ、「否認」に相当する現象が存在することは確かである。知っているのに、心底からは納得できていない、ということがある。あるいは、後になってから、何らかの出来事や経験がきっかけとなって「オレはそれまで『あれ』をほんとうには分かっていなかった」と理解することもある。
日本人の敗戦の事実への対しかた、それがまさに、ここに述べたような意味での否認だった。この「否認」の内容を、実態に即して、もう少し厳密に見ておく必要がある。アジアに対するそれと、アメリカに対するそれとでは、いくぶんか異なっているからである。
まず、対中国の「敗戦」。これに関しては、精神分析学的な「否認」以前の、単純な否定が支配的だと言ってよいだろう。つまり、大半の日本人は、中国に(も)負けたことを端的に「忘れている」。つまり、「中国に負けたつもりはない」というのが、日本人のホンネだろう。たまに、戦勝国は中華民国であって、中華人民共和国ではない、と言う人がいるが(こういう人は、現在、台湾にある中華民国に対して敗戦の意識をもっているかと言うと、もちろんそうではない)、これは詭弁である。もちろん、中国の側は、「そのこと」を、つまり自分たちが勝ったことを、忘れてはいない。
この認知のギャップのために、中国政府や中国人が「戦勝国」として振る舞うと、(一部の)日本人は異常に立腹する。たとえば日本政府の閣僚がA級戦犯を合祀している靖国神社を参拝したことに対して中国政府が抗議したりすると、激しく怒る日本人は少なくない。日本が「敗戦」を受け入れるということは、A級戦犯に、戦争についての政治責任があったと認めることを含んでいる。別の見方をすれば、A級戦犯が政治責任を負うことで、もっと責任がありそうな人や大半の日本人が、政治的には免罪された。中国政府の抗議は、こうした戦後の約束にそったものである。この抗議を批判する者は、それならば、あの間違った戦争に関して(A級戦犯以外の)誰に責任があったのかを、はっきりさせる必要があるだろう。
同じ東アジアでも、対中国関係よりもいささか複雑なのは、対韓国関係である。韓国は、戦中は、「日本」の一部なので、第二次世界大戦において、日本が韓国に負けたわけではない。しかし、韓国が日本の一部であったという事実自体が、広義の(日本による朝鮮半島への)侵略の産物である。したがって、韓国の観点からすれば、日本に植民地化(併合)されて以来の長い抗日運動の勝利が、1945年8月15日に到来した、ということになる。ところが、日本は、韓国と戦争したわけではないので、「敗者」であるとの感覚が乏しい。ついでに付け加えておけば、日本人は、公式には植民地支配が正しくなかったと認めてはいるが、ほんとうには、何がどう誤っていたのか、納得できてはいない。したがって、韓国に対する「敗北」は、日本人にとっては、否認などわざわざしなくても、もともとなかったことになっている。
韓国からすれば、抵抗の末の勝利がそこにあり、日本の観点からは、そもそも戦い自体がなかったということになる。彼我の間のこの極端な相違が、日韓関係の亀裂の原因になっている。その一例が従軍慰安婦問題である。従軍慰安婦をめぐる事実に関しては、私は、ここで特にあらたに言うべきことをもたない。ただ、従軍慰安婦の件がかくも紛糾してしまう究極の原因については、実はほとんどの人がわかっているのに、あえて口にする人がいない要因があるので、ここで指摘しておこう。従軍慰安婦について、日韓の解釈が大きく異なるのは、この事実を、どのような歴史的コンテクストまで視野に入れているかということについての暗黙の前提が双方で異なっているからである。日本側は、その直接の「事実」だけを問題にしている。しかし、韓国側は、その歴史的コンテクストが、つまり自分たちが「日本人」であるということ自体が、すでに「強制連行」であったという無意識の前提の中で、この「事実」を解釈している。
敗戦の「否認」ということが、固有の意味で発動されたのは、アメリカに対してである。中国に対してとは違って、さすがにアメリカに対して、「お前に負けたつもりはない」と言うわけにはいかない。つまり、日本人は、アメリカに負けたという事実を単純に否定することはできない。ごく平均的な日本人は、70年前に、日本がアメリカとの戦争に負けたことを知ってはいる。しかし、日本人は、この事実を否認した。いかにして?
この点については、白井聡や加藤典洋、赤坂真理等によって、すでに多くのことが書かれているので、だいじなポイントだけを述べておこう。戦後すぐに、(平均的な)日本人はこう見たのである。「アメリカ」は、「われわれ」を救ってくれたのだ、と。「アメリカ」を、「われわれ日本人」にとっての「救済者」と見なすことで、敗戦を否認したのだ。アメリカが救済者ならば、ほんとうには、アメリカに負けたことにはならない。アメリカは、われわれのために活動しているのであって、われわれの「敵」ではなく「味方」、われわれの「友」だということになるからだ。
だが、そうだとすると、アメリカは、日本人を何から救ったのだろうか。この点をあまり徹底して追究すると、(日本人にとって)やぶ蛇になってしまう。つまり、この(敗戦の)否認がまさに隠蔽しようとしていることそのものを探り当ててしまう可能性がある。そのため、日本人は、アメリカを救済者のように見るとき、アメリカがいったい何から自分たちを救ってくれたのかを、あいまいにしている。が、とりあえずは、アメリカは、日本人を「戦争(の悲惨)」から救ってくれた、このように日本人は観念したのだ。
この認知は、しかし、まことに奇妙なものである。日本もアメリカも、まさにその戦争の当事者だからである。日本は、自ら惹き起こした戦争から、敵であるアメリカによって救われた、という構図になる。この構図の不合理を不可視化するためには、戦争を、津波や台風のようなものとして、つまり外から襲ってくる災難、非人称の災害のようにイメージする必要がある。
たとえば、竹山道雄の名作(だとされている)『ビルマの竪琴』(1947-48年)をとりあげてみよう。川村湊・成田龍一等の鼎談集『戦争はどのように語られてきたか』によると、この作品は『二十四の瞳』とともに日本人による戦争の語りの原型となった小説だからだ〔*8〕。これは、終戦をビルマで迎えた「水島上等兵」が、当地で亡くなった日本兵の慰霊のために、日本に帰る仲間から離れ、僧としてビルマに留まる、という話である。この中で、水島上等兵はこんなふうに語る。「まちがった戦争とはいえ、それにひきだされて死んだ若い人にどんな罪があるでしょう」と。この認識が変なのは、誰が「まちがった戦争」を遂行したのか、だれがまちがったのか、ということがまったく不問に付されていることである。ビルマで戦った日本兵に、全面的に戦争責任があったとはとうてい言えないが、つまり命令に従わざるをえなかった彼らには大いに情状酌量の余地はあるだろうが、しかし、なお、最前線で兵士だった者が、「まちがった戦争」の「まちがい」に対して、一片の道義的責任も負わないのだとしたら、つまり彼らが「〔あなた方に〕どんな罪があるでしょう」と言ってもらえるほどに潔白であるとしたら、誰に戦争の責任があるというのだろうか。
ともあれ、戦後の日本人は、戦争を、このように、非人称の災難のようなものと見なし、アメリカが、そこから日本人を救済した、という構図を無意識に描くことで、敗戦の事実を否認したのである。戦後の日本人の認知(否認)がこのようなものであったと解釈できる根拠はいくつもあるが、ここでは、次の事実だけを指摘しておこう。日本人が、戦争を主として、他のどの日付でもなく「八月一五日」と結びつけてきたこと。そして、この日が「終戦」の日であるという認識は−−−佐藤卓己の研究によると−−、終戦の直後ではなく、終戦から十年近く経った1950年代の半ばに定着したということ〔*9〕。
戦争をどの日付によって記憶するかは、その戦争への態度に規定されている。たとえば、アメリカ人は、太平洋戦争を「12月7日」によって記憶しているが、日本人には、その日(日本時間では12月8日)は、8月15日に比べれば、広くは記憶されてはいない。中国人には、9月18日は、中日戦争に関連したきわめて重要な記念日だが、普通の日本人は、この日が何の日なのかも知らない。
そして、日本人は、主として8月15日によって戦争を記憶している。ところで、それは何の日なのか。最近の若い人は、この日が何の日かも知らないということが、嘆かわしいこととして報道されているが、並の教養をもった日本人ならば、たいてい、この日を知ってはいる。終戦の日だと。
だが、ほんとうにこの日は終戦の日なのだろうか。戦争なのだから、当事国のすべてがその日を「終戦」として認知していなくてはならない。しかし、実は、「8月15日」は国際的にはまったく通用しない日である。この日を特別視している国民は、世界中で二つしかない。日本人と韓国人である。韓国人にとっては、この日は、日本からの独立記念日(光復節)である。アメリカ人も、この日を終戦と見なしているはずではないか? とんでもない! アメリカ人は、8月15日を終戦の日とは見なしていないし、相当な知日家でも、この日が何の日なのかを知らない〔*10〕。アメリカ人で、この日が(日本人にとって)終戦の日だと知っているのは、近代日本史の専門家くらいのものである〔*11〕。
そもそも、第二次世界大戦(あるいは太平洋戦争)がいつ終わったかは、厳密には、定めがたい。太平洋戦争の始まった日ならばはっきりしている。宣戦布告がなされているからだ。しかし、終わった日は、確定しがたい。あえて確定しようとすれば、それは、日本が敗北を正式に認めたのはいつなのか、で決まるだろう。すると、いくつかの日が候補になる。日本政府がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を認めた日だとすれば、8月14日ということになる。また、降伏文書が(東京湾上の戦艦ミズーリ号の上で、外務大臣重光葵によって)調印されたのは、9月2日である。国際的に最も一般的に承認されている終戦の日は、9月2日である(ただし、かなり知識のある人しか知らないが)。
では、8月15日には何があったのか。もちろん、玉音放送である。昭和天皇が、ラジオを通じて、日本国民に、ポツダム宣言を受諾したことを告知したのだ。だが、厳密には、天皇による国民へのこの布告の日付は、8月14日である。つまり、天皇は、はっきりと最後に「昭和二十年八月十四日」と言っているのだ。玉音放送は、生放送ではなく、前日、録音されたものだったからだ。日本人が、8月14日付けの文書を、15日に聴いた、ということである。
なぜ、日本人は、8月14日とか、9月2日とかといった、国際的にも承認され、戦争の終結にもっと相応しい日を選ばずに、8月15日によって、戦争を記憶したのか。その理由は、簡単に分かる。8月14日や9月2日は、どうしても、「敗」戦の日にならざるをえない。しかし、天皇が日本国民に「戦争をやめた」と告知した日であれば、「終」戦の日になる〔*12〕。日本人は、「敗戦」を否認し、これを「終戦」に置き換えたのである。加藤典洋は、『敗戦後』論で次のように述べた。日本人は、「負けた」と発すべきところで、「喧嘩はよくない」と声をあげたのだ、と。
もっと興味深いのは、8月15日が終戦の記念日だという認識は、終戦の直後からあったわけではなく、終戦から十年ほどたった1955年頃に確立された、という佐藤卓己が指摘した事実である。述べたように、もともと、戦争がいつ終わったのかは不確定であった。だから、8月15日だけが特別だという認識は、日本人にも、最初はなかった。
さらに、今日でも、「8月15日=終戦」には、法的根拠はない。法的根拠に最も近いものは、1963年5月に、第二次池田勇人内閣によってくだされた閣議決定「全国戦没者追悼式実施要項」だそうである〔*13〕。つまり、その日が戦没者の追悼式典が実施されるから、その日が終戦の日なのだろうと推定しているだけであり、しかも、追悼式がその日でなくてはならない理由は、閣議決定にあり、法律にあるわけではない。こうした点にも、一応、8月15日を「終」戦として受け入れはしたが、そのことに対してさえも、日本人は、腰が引けているということ、できることなら直視したくないという態度がありありだということ、強い決意をもってこの日を選んではいないということが現れている。
有山輝雄「戦後日本におる歴史・記憶・メディア」によれば、GHQによる占領の末期に至って、マスメディアは、戦争の過去を記念すべきではないかとして、二つの日を、徐々に提示しだした。二つの日とは、8月6日と8月15日である。戦争に関係している他のいくつもの重要な日付、たとえば、9月18日(満洲事変の始まり)、7月7日(日中戦争の始まり)、12月8日(真珠湾攻撃)、あるいは9月8日(サンフランシスコ講和条約調印)、4月28日(講和条約発効)などは、まったく問題にされなかったという〔*14〕。こうした選別の中にも、すでに、戦争を、外から不可抗に襲ってきた大災害のようなものと見なそうとする無意識の論理が働いているのを、読み取ることができるだろう。
そして、結局、1950年代の中頃、8月15日の方が選ばれ、終戦の日として認識されるようになった。まず、ラジオ番組が、「お盆行事」編成から「終戦記念日」編成へと変化したのは、1954年である。そして、新聞など多くのマスメディアが、8月15日に終戦の企画を出すようになったのが、1955年である。たとえば、『朝日新聞』は、「終戦十周年」の大型企画を打ち出した。佐藤卓己は、こうした状況の変化を総括して、1955年が記憶の転換点だったと結論している。
では、どうして、戦争が終わってから十年も経過してから、「8月15日」が定着したのだろうか。ここから後は、推測である。
まず、1955年が、日本の国内政治にとっては、重大な転換点あることを、あらためて確認しておく必要がある。この年に、いわゆる55年体制が確立した。55年体制とは、教科書的に言えば、自由党と民主党が合同したことで成立した自由民主党と社会党との間の、疑似二大政党制である。もう少し、日本人の(無)意識の機微に触れた形で言い直せば、それは、穏健な保守系政党(自民党)に絶対に勝たないという条件のもとで、社会党がそこそこ強いことが許された——あるいはむしろ要請された——体制のことである。要するに、55年体制は、国際的な冷戦の国内政治への写像である。
この「冷戦」ということを尺度にして東アジア情勢を見たとき、地政学的条件が、戦後の十年で、とりわけ1950年代前半で、激変していた、ということに気づく。1950年に朝鮮戦争が勃発して、朝鮮半島が南北に二分された。また、その前の1949年には、大陸に、中華人民共和国が生まれた。戦争が終わったばかりのときには存在していなかった、共産圏に属する二つの国家が、東アジアに誕生したのだ。この事実が、日本の地政学的な価値を、とりわけアメリカから見た価値を変えざるをえない。
ここで、われわれの仮説を思い起こしてほしい。日本人は、アメリカを救済者と見なすことによって、敗戦を否認した、と。このような構図で世界を見るときには、しかし、一つの障害がある。アメリカはどうしてわざわざ日本を救い、助けてくれるのか。こうした懐疑によって、基本的な構図が崩壊しないためには、日本人は、自分たちがアメリカに愛されている、という確信が持てなくてはならない。あるいは、少なくとも、アメリカに求められている、アメリカに必要とされている、という確信なしに、こうした構図は維持できまい。本来はアメリカは、「赤の他人」である。普通、われわれは、自分の親ならばともかく、よく知らないおじさんが、命懸けで自分を助けてくれるだろう、などと期待をもたないだろう。アメリカは、「赤の他人」どころか、少し前までは「敵」だった。そのような他者が、自分たちの救済者だと信じうるためには、何か「根拠」が必要だ。
1950年前後の東アジア情勢の変化が、ここで効いてくる。東アジアに二つの共産主義体制が誕生したことによって、アメリカから見たとき、軍事的拠点としての日本の価値が大きく高まった。また、アメリカは、日本自体が共産主義化してしまうことを最も恐れていたはずである。が、幸運なことに、台湾や韓国と違って、日本は、対共産圏の完全な最前線ではなく、間にワンクッションが入っていた。そのため、アメリカとしては、日本人に、デモクラシーのゲームを許すくらいの、つまり親共勢力が合法的に活動することを許すくらいの余裕はあった〔*15〕。したがって、結論的には、こうなる。1950年代の中盤までに、アメリカにとって、日本は軍事的に必要な場所だが、同時に、最小限のデモクラシーを容認できる程度には寛容に見ることができる他者でもあった。
同じことを日本側から見れば、自分はアメリカから重視されている、大切にされている、ということになる。こうなって初めて、アメリカを半永続的な救済者と見なすことに、現実味が出てくる。アメリカが、実は救済者だったとするならば、先にも述べたように、敗戦は敗戦ではなくなる。こうしてやっと、日本人は、敗戦を「終戦」と置き換えた上で、受け入れることができるようになったのである。「8月15日」が日本人によって記念日と見なされるようになったのが、1950年代の半ばだったのは、こうした原因からではないだろうか。もちろん、これこそ、敗戦の否認以外の何ものでもない。
だが、このような(無意識の)メカニズムによる敗戦の否認には、重い代償が伴うことになる。政治的・経済的のみならず、精神的・文化的な、つまり全面的な対米依存、これが代償である。アメリカに愛されている(と信じられる)限りで、敗戦の痛みは消える。ということは、日本は、アメリカから見たときに、よいもの、望ましいものでなくてはならない。よさの基準、望ましさの基準は、アメリカの視点である。この状況は、現在も続いている。そして、それが、戦後日本のナショナリズムを規定する執拗低音となった。
〔5〕白井聡『永続敗戦論』太田出版、2013年。
〔6〕加藤典洋『敗戦後論』講談社、1997年。
〔7〕赤坂真理『東京プリズン』河出書房新社、2012年。
〔8〕川村湊・成田龍一ほか『戦争はどのようにかたられてきたか』朝日新聞社、1999年。
〔9〕佐藤卓己『八月十五日の神話——終戦記念日のメディア学』ちくま新書、2005年。
〔10〕佐藤卓己は、知人のアメリカ人に片端から、「太平洋戦争がいつ終わったか」という趣旨の質問をしたが、一人も、「8月15日」と答えた者はいなかったという。推測するに、佐藤のアメリカ人の友人はたいてい学者で、しかもかなり日本に関心をもっているはずだ。それでも、このような結果になるのである。
〔11〕最近では、中国も、8月15日を終戦の日と見なすようになった。だが、それは、日本政府要人の靖国参拝を批判するためである。他日ではなく8月15日の参拝を特に悪い、と非難するためには、中国もまた、その日が終戦だったと認識している、ということが前提になるからだ。
〔12〕江藤淳は、「8月16日=終戦」を唱えていた(以下に収録してある江藤の講演を見よ。歴史・検討委員会編『大東亜戦争の総括』展転社、1995年)。厳密に言うと、「8月15日」で(敗戦ならぬ)終戦だとするのには、不都合なことがいくつかある。天皇が国民に伝えたことは、厳密には、「戦争が終わった」ではなく、「アメリカ、イギリス、ソ連、中国に対して負けを認めた」だったということ。また、今しがた述べたように、天皇の布告の正式な日付は、ポツダム宣言を受諾した14日だったこと。それに対して、8月16日であれば、間違いなく、「終」戦の日ということになる。それは、大本営が、全軍に対して停戦命令を出した日だからだ。江藤淳は、敗戦の否認をもっと完璧なものにしようとしたことになるが、しかし、「8月16日」説はまったく定着しなかった。
〔13〕吉田裕「戦争の記憶」『岩波講座・世界歴史 第25巻』、1997年。
〔14〕有山輝雄「戦後日本における歴史・記憶・メディア」『メディア史研究』第14号、2003年。
〔15〕朝鮮戦争の研究で知られているアメリカの歴史学者ブルース・カミングスは、朝鮮半島の全体が共産化していたら、日本の戦後民主主義は生き続けることができなかっただろう、と述べている。
近年の──2009年の政権交代以降の──日本の政治の動きを、不可能性の時代の転回(ひねり)との関係で記述することができる。とりわけ、第二次安倍内閣の支持率が比較的高いのはどうしてなのか、安倍晋三首相への支持率が、さほど低下しないのはどうしてなのか、という疑問は、不可能性の時代の転回と関係づけて解くことができる。
小泉内閣の後の内閣の支持率の変化には、一定のパターンがあった。発足の直後には、どの内閣も、50%前後から、ときに70%を超えるような高い支持率を得るが、支持率はすぐに激減し、およそ一年後には、当初の半分か、三分の一になる。このような支持率の急落のために、首相の交替が余儀なくされる。図4は、NHK放送文化研究所の政治意識月例調査をもとに作成した、内閣支持率の変化を表したグラフである。左半分にゴチャゴチャとまとまっているのが、第一次安倍内閣から野田内閣までの六つの内閣の支持率の推移を示す折れ線である。これを見ると、六つの内閣の支持率が、恐ろしいほど同じパターンに従って変化していたことがわかる。どの内閣も、一年前後で、崖から転げ落ちるように支持率を低下させる。
ところが、第二次安倍内閣の支持率の推移だけは、このパターンに従っていない。図4で、他の折れ線のまとまりから一本だけ外れ、上位に悠々とゆるやかに留まっている一本の折れ線が、第二次安倍内閣の支持率だ。発足から二年以上が経過するが、支持率は、それほど低下せず、未だに五割前後の支持率を維持している。どうしてなのか。
安倍内閣の政策が、国民にとって何か望ましい成果を挙げているからか。首相や政権与党はそう考えたいところだろうが、客観的には、どう見ても、そう解釈することはできない。安倍内閣の最大の「売り」であるところの、アベノミクスなる経済政策は、少なくともその成否に関して専門家の意見がまっ二つに分かれるくらいの、あいまいな「成功」しかおさめていない。アベノミクスがもたらした実質GDPの年成長率は1%前後で、普通は、この程度の数字だと、経済成長したとは言われない。実際、この数字は、他の内閣のときの成長率とあまり変わらない(というよりやや低い方だろう。少なくとも第一次安倍内閣のもとでのGDP成長率よりはかなり低い)。とすると、第二次安倍内閣だけが、支持率をなかなか下げない原因は、どこにあるのか。
この謎を解き明かすためには、2009年夏の自民党(と公明党)政権から民主党政権への政権交代以降の変化を考慮する必要がある。2009年8月末の総選挙のとき、日本人は、政権交代に熱狂した。だが、あのとき、政権交代とは何なのか、それがどのような政策からどのような政策への変化を含意しているのか、それがいかなる結果をもたらすのか、ほんとうに分かっていた者は、一人もいなかった。おそらく、当の民主党の政治家にすら、それは分かっていなかった。
にもかかわらず、日本人は、変化を期待したのだ。何への変化なのか、具体的には言えない。しかし、これまでに経験したことがないような、メリハリの利いた画期的な変化を予告する語として、「政権交代」が用いられた。このとき求められていたものをあえて指し示そうとすれば、それは「不可能なこと」「不可能性」ということになるほかない。先に、不可能性の時代にあっては、(グローバル)資本主義は、あらゆるタイプの不可能性に取り囲まれている、と述べた。したがって、唯一可能なのは、「この現実」、この資本主義だけだということになるのだが、だからと言って、人々は、この唯一の選択肢を、嬉々として、積極的に受け入れているわけではない。まったく逆である。「これ」しか可能ではないはずなのに、「これ」以外の「他なる現実」へと移行したいという切実な欲望が、人々に、広く、深く分け持たれていたのである。日本政治史上初めて、国政選挙で圧倒的な勝利を収めた野党が実現した政権交代、この準革命的とも言える政権交代によって、本来は不可能だったはずの「他なる現実」がまさに可能になるのではないか。政権交代をもたらし、これを熱烈に支持していたときの日本人の心情は、したがって、次の命題によって要約されるだろう。
いわゆる「仕分け」にうち興じている間は、よかった。大幅な緊縮財政が、どのような経済的・政治的な効果をもつのか、よく理解していた者は、ほとんどいなかったはずだ。しかし、仕分けは、「不可能なこと」へと向かうための必要な通路として支持されていたのだ。
民主党政権が大きく躓いたのは、鳩山首相の普天間基地の「県外移設」の失敗である。普天間基地の沖縄県外への移設こそ、日本人の目には、「不可能なこと」の典型的な実例として映っていた。日米安保条約のもとで、沖縄の基地を縮小したり、県外へと移設したり、まして廃止したり、ということは、まず絶対にありえないこと、と(日本人には)考えられてきたからだ。もし、日本政府や日本人の意向にそって、普天間基地を県外に移設することができれば、まさに、不可能なことが可能だということを実証することになっただろう。正直に書いておこう。本土の日本人の大半にとって、基地問題自体は、さして重要な問題ではない。沖縄に心底から同情したり、共感したりしている、本土の日本人は、少数である。にもかかわらず、あのとき、つまり2010年4月から5月にかけて、日本人が、普天間基地問題の帰趨を注視したのは、これが、不可能なことが可能でありうるかどうかを示す試金石だったからである。しかし、鳩山由紀夫首相は、たった一日で、県外移設を断念してしまった。
鳩山首相が辞め、菅直人や野田佳彦が首相に就いてからも、民主党政権は躓き続けた。とくに重要なのは、2011年3月11日の津波によって引き起こされた原発事故への対応である。津波と原発事故こそ、ある意味では、「不可能なこと」である。それは、あるはずがないとされていた破局的な出来事だったのだから。これほどの出来事に対して、民主党政権は、何らの断固たる決断もくだすことができなかった。出来事のもつ衝撃に釣り合うような、いかなる画期的な政策も打ち出すことができなかった。事故の責任が誰にあったかも確定できず、また原発をどうするかについての具体的で明確な方針を打ちたてることができなかったのである。
こうして、民主党政権は、三年間を費やして、一つの恒真命題、トートロジーを証明した。その命題とは、
というものだ。②は、当然のことながら、絶対に正しい。当たり前の内容である。したがって、やったことがこの命題に合致するからといって、これによって、政治的に、あるいは倫理的に責められるのは、酷なことであるようにも思える。しかし、民主党政権に期待されていたことは、①だった。とすれば、②という当たり前のことを示した者は、国民からは、完全な裏切り者と見なされるほかない。かくして、民主党は、2012年の総選挙で歴史的な惨敗を喫し、「二大政党」どころか、「ワンオブゼム」の弱小野党に成り下がったのである。
そして、安倍内閣の登場だ。第二次安倍内閣が成立したとき、日本人の心情を支配していたのは、(①の)断念に基づくシニシズムである。「どうせ不可能なことは不可能なのだ。ということは、可能なことだけが可能なんだね」というシニカルな諦めである。この諦めこそが、安倍内閣の支持につながっているのだ。
日本人は、命題①への期待から始め、命題②の受容へと至った。この後に登場する政治家は何をしたら、有権者の期待に応えたことになるだろうか。今、述べたように、
を示せば、期待に応じたことになる。実際、安倍内閣が発足以来証明し続けていることは、まさに、この命題③である。命題③を実証すればそれで高支持率を得られるのであれば、これは、まことに楽なことだ。何しろ、これは、恒真命題(絶対に真である命題)なのだから。たとえば、アベノミクスがそこそこ支持されているのは、それによって、画期的な好景気や経済成長がもたらされたからではない。アベノミクスは、まさに可能な程度の経済成長をもたらしているのだ。景気がよくなったと言われれば少しはそうかもしれないし、いやいやまったく景気は回復しておらず、生活も楽になっていないと言われれば、確かにそうだというようなレベルの、要するに、「現実はこんなもんだ」というレベルの(不)成長が、アベノミクスの成果である。だが、それで十分なのだ。③が確認されているのだから。
当たり前のことだが、②と③は、同じくらい真実である。③を実証した人は立派で、②を示した人は悪人だ、というわけではない。だが、①への期待があるとき、②を実証する者は最悪の裏切り者と見なされる。人々が②を直視した後に、政権の座に就く者は、ラッキーだ。②をただ裏返しにした、③を示せばよいのだから。
だが、これで一件落着と、安心してはならない。可能なことは可能に決まっているのだから、その絶対に真であることだけを期待している「われわれ」は、もはや、裏切られることはない。だから安心だ、と考えてはならない。
今、三つの命題(①②③)を見てきたわけだが、「可能なこと/不可能なこと」という主語と、「可能だ/不可能だ」という述語の組み合わせとしては、もう一つ残っていることに気づくはずだ。四つ目の命題とは、
である。可能なことは可能だと高を括っていると、やがて、その可能なことだと思っていたことすら、実は不可能であることが示されるときが来るだろう。③は終点ではなく、その先に④が待っているだろう。
先にも述べたように、私の考えでは、現在、われわれは、不可能性の時代の後期に入っている。それは、人々が、④の命題に要約されるような、不気味な、しかし無意識の不安を分け持っている段階である。ここで、もう一度、反省してみよう。どうして、われわれは、六年前に政権交代にあれほど熱狂したのか、を。どうして、われわれは、命題①のような期待をもったのか、を。そのときすでに、④への直観があったからではないか。「この現実」、可能なこととして己を示しているこの現実すら、ほんとうは不可能だ、という不安があったからこそ、不可能なこと、画期的な「他なる現実」へと突破したいとする強く欲望が生まれたのではないか。
不可能性の時代について述べてきたことを、見田宗介先生が、近年展開されている未来社会論と関係づけておこう。
生態学では、一定の環境の中での生物の個体数の増え方が、ロジスティック曲線を描くことが知られている。ロジスティック曲線は、Sを、右上と左下へと引っ張ったときにできる形である。横軸に時間の経過、縦軸に個体の数をとると、個体数の時間を通じて変動は、ロジスティック曲線になる(図5)。
この曲線には、三つのフェーズがある。Ⅰ最初のうち、個体数はゆっくりと増加する。Ⅱある時期を境に、個体数は急激に増加する。このような急速な増大は、当然のことながら、いつまでも続かない。環境には、その生物を収容しうる限界があるからだ。Ⅲその後、再び、個体数の増加率が低くなる。うまく環境に適応できなかった生物の場合には、Ⅲの段階で、個体数が、減少することになる(グラフ破線)。そのような個体は、当然、いずれは絶滅することになるだろう。環境への適応に成功した場合には、ゼロに近い非常に小さな率で、個体数は増加する。
見田先生の考えでは、人間社会の場合も、この法則に従っているはずだ。人口が急激に増加し、経済が急速に成長する、いわゆる「近代」こそは、ロジスティック曲線のⅡだったのではないか。
しかし、いくつもの事実は、現在、人類は、ⅡからⅢへの移行の局面に入ったことを示している。人口の増加率は、1970年頃を境に、地球上のどこでも、急速に小さくなっている。また、「社会変動」の速度が、一般に遅くなっていることが、社会意識の調査からもわかる。見田先生は、このように推測している。
見田先生が提示しているこの図式と関係づけるならば、不可能性の時代とは、ⅡからⅢへの過渡期に見られる現象だと解釈することができるだろう。客観的には、われわれは、局面Ⅲに入ろうとしている。いや、すでに入っている。しかし、われわれの感性や感覚やイデオロギーは、そんなに素早く変わらない。それらは、まだ局面Ⅱの「仕様」のままである。このⅡとⅢとのギャップが、「不可能性」として意識されるのである。
その結果、最終的に出て来るのが、④の命題に表示されるような不安な予感である。つまり、この現実、可能なこととして示されているこの現実すらもほんとうは不可能なのではあるまいか、と。この予感は、おそらく的中する。とすれば、この難局を乗り越えるにはどうしたらよいのか。
不可能なことが可能だということ、これを行動によって示すしかない。物わかりよく諦めてはいけない。不可能なことを、頑固に要求し続けなくてはならない。
〔1〕 大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書、2008年。『虚構の時代の果て』ちくま文庫、2009年。
〔2〕 前注に挙げた拙著『不可能性の時代』で私が「不可能性の時代」を提唱したとき、厳密には、「不可能性」という語に二つの異なる意味を込めた。この語には、否定的な意味と肯定的な意味があり、その内容や指示対象は異なっている。もちろん、両者は、深く本質的なつながりがあり、それゆえに同じ語によって表現されている。ここでは、分かり易い否定的な意味の方にだけ着眼して、説明を試みている。
〔3〕 冷戦と「理想/虚構/不可能性の時代」という時代区分の関係について、もう少していねいには、次のように考えるとよい。ソ連型の体制であれ、毛沢東の中国であれ、あるいは場合によってはユーゴスラビアの自主管理型社会主義であれ、いずれかの現実の社会主義体制がそのままユートピアとして思い描かれている段階は、理想の時代である。それに対して、現実の社会主義が、ユートピアへの否定的な通路となったのが、虚構の時代だ。その否定的な媒体としての「現存社会主義」も失われると、不可能性の時代になる。いささか細かいことも記しておこう。柴田翔の『されどわれらが日々』(1964)に登場する大学生たちは、失望感や無力感に苛まれている。その原因は、1955年の六全協(日本共産党第六回全国協議会)にある。六全協は、日本共産党が毛沢東の手法の放棄を、つまり「農村から都市を包囲する」暴力闘争の放棄を決定したことで知られている。今では最も平和的な党として知られている共産党は、60年前までは、暴力革命を主張していたのだ。なぜ、六全協が、『されど』の主人公たちを意気消沈させたのか。中国をモデルにした革命路線を放棄することが、理想の時代の「理想」にヒビが入っていることを否応なく示してしまったからである。1970年には、よど号ハイジャック犯たちが、北朝鮮に渡った。「われわれは『あしたのジョー』である」と、人気マンガの主人公に託して自分たちの使命を語り、北朝鮮に飛んだとき、彼らがほんとうに越えたのは、38度線ではなく、「理想(の時代)」から「虚構(の時代)」への境界線だった。彼らは、不可能性の時代になっても、日本に帰ってくることはできない。彼らがよど号を使って横断した境界線自体が、すでに消えてなくなっているからである。彼らは、そこからの帰還が不可能な場所に、つまり文字通りの「ユートピア(非場所)」に行ってしまったのだ。
〔4〕 レイモンド・ウィリアムズによれば、資本主義capitalismという語が特定の制度を指すために一般に用いられるようになったのは、19世紀初頭だが、この語が、学問や政治思想の専門用語として、今日とほぼ同じ意味で用いられるようになったのは、ずっと遅く、19世紀の末期、つまり1880年代以後である。フェルナン・ブローデルは、この語の初出は、ドイツの経済学者・社会学者ゾンバルトの著作だとまで言っている。ブローデルほどの碩学がそう言うのだから、ゾンバルトが、20世紀の初頭(1902年)に『近世資本主義』を書くまでは、資本主義という語は、専門用語としては、ほとんど認知されていなかったのだろう。少なくとも、マルクスは、この語を知らなかった。そして、ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904-1905年)を書いたとき、「資本主義」はまだ新奇な概念だったことになる。
戦後の精神史は、三つのフェーズを辿ってきた。人は、自分の人生と社会の現実を、物語性をもった有意味な秩序として描く。その秩序の原点には、常に、現実ならざるもの、反現実が置かれている。しかし、その反現実は一種類ではない。さまざまなモード(様相)の反現実がある。どの反現実が中心的なモードなのか、ということを基準にして、戦後史を区分することができる。およそ四半世紀をひとつの区切りとして、次のように変遷してきた。
理想の時代(1945~70)
→ 虚構の時代(1970~95)
→ 不可能性の時代(1995~?)
この区分は、私の師である見田宗介先生による区分に、少し手を加えたものである。「反現実」を基準にして時代を区分するというのは、見田先生の着想だ。見田先生の場合には、理想の時代と虚構の時代の間に、「夢の時代」(1960〜1975)という中間的なフェーズが入る。私は、夢の時代を、理想の時代の末期と虚構の時代の初期に分解した上で、不可能性の時代を付け加えた〔注1〕。
理想の時代は、個人の人生に関してであれ、社会の全体に関してであれ、「理想」の状態が何であるか、その像が明確であり、かつ、それについて広範な社会的一致が認められる時代である。「人生」や「歴史」は、その理想への過程として物語化されて、解釈されている。虚構の時代では、かつて「理想」があった位置が、ファンタジーやヴァーチャルなもの等、広義の虚構によって占められ、理想の理想性が稀釈化される。虚構の時代のただ中であった1983年に「東京ディズニーランド」が開園されたことを思うと、この時代のイメージを得ることができるだろう。
そして、2015年の現在は、不可能性の時代の渦中にある。時代が25年周期で変遷するのだとすれば、不可能性の時代は、2020年前後までだということになる。2020年は、東京オリンピック・パラリンピックの年である。この年と不可能性の時代の終結予定年とが合致するということに、私は、どこか不気味な暗示を感じてしまう。
ともあれ、現在は、不可能性の時代である。それはどのような時代なのか。一般的・抽象的に説明するよりも、まずは、ひとつのデータによって、不可能性の時代がどのような時代かを示したほうがわかりやすい。理想の時代や、その余波の中にあった虚構の時代と、不可能性の時代とがはっきりと区分される、ということは、たとえば、「年齢別の生活満足度」の変化によって示される。図1と図2は、NHK放送文化研究所が、1973年から5年毎に実施してきた「日本人の意識」調査をもとに作成したグラフである。同研究所のご好意でいただいたデータをもとに、私がグラフにした。図1は、1970年代・80年代の二つの調査の結果を、図2は、2000年以降の二つの調査、つまり2003年と最新2013年の調査の結果を表している。どちらのグラフも、横軸に年齢(厳密には年層)、縦軸に「生活に満足している」と回答した者の比率を配している。
一目で次の二つのことに気づくはずである。第一に、70-80年代の二本のグラフ、21世紀に入ってからの二本のグラフは、それぞれどちらも10年の開きがあるのだが、形状はよく似ているということ。第二に、しかし、図1と図2、つまり70-80年代と00年以降のグラフの間には、顕著な違いがあるということ。
この種のグラフを読むときには、──もともと回収率の問題等があって──データには「誤差」があるので、細かい数字にこだわってもあまり意味がない。重要なのは、全体的なスケール感と基本的な形状である。70-80年代のグラフは、どちらも右肩上がりである。つまり、年齢が高くなるほど、生活満足度が、つまり「幸福感」が高くなっている。00年代のグラフは、凹凸があってややわかりにくいかもしれないが、他の類似の調査等とも比較しながら結論的なことを言えば、全体として、真ん中がへこんだU字型になっているのである。図1と図2の間の大きな違いは、二つの時代の間に、はっきりとした断絶があったことを示している。それはどのような断絶なのか。
年齢別の生活満足度のグラフが右肩上がりからU字型に転換したということは、若者の生活満足度が高くなったことを意味している。ここから、単純に、「若者が幸せな時代になってよかった」などと、現在を寿ぐべきではない。どうして、「生活に満足している」と答える若者が急激に増えたのか、その原因を考える必要がある。
これを解明するためのヒントは、逆に、70年代・80年代の調査で、なぜ若者の生活満足度が低いのか、と問うことから得られる。言い換えれば、かつては、どうして、年齢が上がるほど、生活満足度が高まる傾向があったのだろうか。少し反省してみると、これは奇妙なことであろう。一般には、青春は、人生の中で最も幸せな時期であると考えられている。高齢化することで、人は、体力や知力など、さまざまな面で衰える。どうして、高齢者の生活満足度が、若者よりずっと高かったのだろうか。たとえば、あなたが、死んで天国にいるとしよう。神があなたのところにやってきて、こう言う。「あなたの人生の中の最も幸せだった一年だけを、もう一度、生きることができるようにしてやろう」、と。もちろん、人それぞれではあろうが、年老いた晩年の一年よりも、若きときの一年を選ぶ者の方が多いのではないか。それなのに、どうして、70-80年代の調査では、年齢が高くなるにつれて、生活に満足しているとする者の比率が上がってくるのだろうか。
理由は簡単である。高齢者が、現在の生活に満足していると答える傾向が高いのは、彼らが、自分の残りの人生がそう長くはない、ということを知っているからである。人生の残り時間が短いとすれば、現在よりもさらに幸福になる蓋然性はそう高くはない、と予想しなくてはならない。このとき、もし現状になお不満であれば、その人の人生は全体として不幸だったということになるだろう。自分の人生をよきものとして肯定したければ、老い先短いと予想する者は、現在に関して「満足」と回答する可能性は高くなる。逆に、(かつての)若者たちが、かんたんに「満足」と回答しなかったのは、これから、より満足が得られる人生が待っているはずだ、より幸福になるはずだ、という確実な予期をもっているからである。彼らは、将来においてもっと満足するはずだと予期しているがゆえに、その将来との関係で、現在に不満を覚えているのだ。「この程度で満足するわけにはいかない」というわけである。
さて、ここから、2000年以降のグラフ(図2)に戻ってみよう。調査に示された若者の生活満足度が高くなったということは、現在の若者が、自分の人生に対して、老人と同じような展望をもっている、ということを意味している。彼らは、もちろん、自分の余命がかなり長いと予想しているはずだ。にもかかわらず、彼らは、人生の終わりが近いとわかっている老人と同じように、自分の人生が現在よりもよくなるだろう、より高い満足を得られるだろう、より幸福になるだろう、という期待や希望をもつことができずにいるのだ。だから、満足や幸福を表明する者が多いことを、かんたんに祝福すべきではない。「君が、希望がないから、現在に満足できていいね。羨ましいよ」と、アイロニーではなく言えるかを考えてみるとよい。
不可能性の時代がどのような時代なのかは、以上の事実がよく示している。理想の時代(とその延長にある虚構の時代)において「理想」が占めていた場所、そこに内容を充塡することが不可能なのだ。人生における理想であれ、社会にとっての理想であれ、理想がまさに理想として機能するためには、それがいずれ現実になることへの確信が必要になる。そのような意味での理想が機能しない時代、それが不可能性の時代である〔注2〕。
ところで、図1型の右肩上がりのグラフから、図2のようなU字型グラフへの転換は、厳密には、いつ生じたのだろうか。NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査は、(ほぼ)同じ質問を5年毎に問うている、稀有な社会調査であるため、この転換の時期を、ほぼピンポイントで特定することができる。図3の左は、1993年の調査結果をグラフにしたものだ。このグラフは、未だ、はっきりと右肩上がりの形状を示している。だが、その5年後の調査、つまり1998年の調査では、得られたデータはすでにU字型のグラフになっている(図3右)。転換は、1993年と98年の間にあった、ということになる。
私は、「不可能性の時代」という時代診断を提案したとき、虚構の時代が終わり、不可能性の時代が始まる境界を、戦後50年にして、阪神・淡路大震災と(オウム真理教団による)地下鉄サリン事件があった1995年とした。「日本人の意識」調査は、私のこのような見立てと合致するデータを提供していると言える。
「不可能性の時代」の内包を、もう少し厳密に規定しておこう。不可能性の時代は、別の角度から見れば、可能なことが増大した時代、可能性が未曾有の水準で過剰になった時代でもある。つまり、不可能性の時代は、可能なことが増えれば増えるほど、不可能なことも増える時代である。どういう意味なのか、少し説明しよう。
一方では、現代は、過剰な可能性の時代である。個人の自由、私的な生活に関する自由という点では、われわれの選択の幅はますます大きくなっている。かつて不可能だったことが、どんどん可能なもののリストに加わってきたのだ。この自由の拡大には、規範とテクノロジーの両方が関わっている。
私生活についての規範がますます寛容に、つまり許容的になっている。このことは、たとえばセックスのことを思えばただちに理解できる。今日では、相手の同意さえあれば、かつて倒錯的として禁忌の対象となっていたプレイを含むどのような性行為も許される。1960年代の、ティーンエイジャーの女性向け雑誌の投稿欄を読むと、悩みの大半が、「婚前交渉」に関係している。1980年代でさえも、未婚の女性は、「彼」のところに泊まったり、「彼」と旅行するときには苦労した(すでに婚前の性行為への罪意識はほとんどなくなってはいたが)。親友に頼んで、口裏を合わせ、両親に対しては、その親友のところに泊まっていた(あるいは、親友と一緒に旅行していた)ということにしてもらったのだ。しかし、現在の日本の両親(の多く)は、未婚の女性が、「彼」と旅行することを禁じたりはしない。かえって、「気をつけて行って来いよ」と言いつつ、娘にお小遣いをあげるくらいだ。
テクノロジーに支えられた自由の拡大は、主としてインターネットに関連している。さらに、生命科学までも視野に入れれば、遠くない将来には、「自由」に対する究極の制限すらも乗り越えることができるかもしれない。自由への「究極の制限」とは、人生は有限であって、人はいずれは死ぬという事実である。生命科学は、それほど遠くはない将来に、実質的に、人間個人の「死」をキャンセルすることを可能にするかもしれない。DNAの情報や脳内に蓄積されている情報等、生体としての「私」のアイデンティティを構成しているすべての情報的な要素が、デジタル化されうると想像してみよ。そのデジタル情報を複写し、ハードウェアに保存しておけば、「私」は不死になったに等しいのではないか。
しかし、他方で、現代社会においては、不可能性もまた過剰である。社会関係・社会構造に関連した領域で、いわゆる「先進国」の人々が痛烈に実感していることは、「この現実」を超えることの不可能性である。20世紀の末期に社会主義体制が崩壊した後には、人類は、ユートピア的な「他なる現実」への夢をすべて放棄したと言ってよいだろう。
今、ふりかえってみれば、ソ連をはじめとする社会主義体制は、ユートピア的な「他なる現実」が社会的に実効性をもつための、最後の砦だった。冷戦が終結する少し前、たとえば1980年代においてはもはや、ソ連とか、東独とか、中華人民共和国とかといった社会主義体制が、そのまま、西側諸国にとって、ユートピアとして思い描かれていたわけでは、もちろんない。西側の左翼は、「現存社会主義」について、「これは真の社会主義ではない」と主張していた。つまり、ユートピア的な「社会主義」は、現存社会主義の否定として思い描かれていたのである。現存社会主義は、それの否定によって、ユートピアが可能だと確信させるための媒体として機能していたのだ。その現存社会主義を失うと、その向こう側に措定されていた、ユートピア的な「真の社会主義」という蜃気楼も消え去ってしまうのである〔注3〕。
現在、可能だとされているのは、すでに現実となっている「この社会」のみである。「この社会」とは、グローバル資本主義のことだ。グローバル資本主義は、さまざまな、いやあらゆるタイプの不可能性の感覚によって囲われている。たとえば、もはや「革命」は不可能だ。現在、あえてそれに挑戦すれば、無差別テロのようなものになるだろう。革命どころか、現在は、古きよき福祉国家さえも不可能だ。現存社会主義に失望したとき、多くのリベラルな左派は、たとえば北欧にあるような高福祉社会こそが、理想の社会モデルであると考えた。しかし、現在でもそうした制度に執着すれば、いずれ、財政破綻や大不況が待っているだろう(と信じられている)。そして、何より、グローバル市場から離れて生きることも不可能だ。それがバブルの崩壊やあるいは生態系の破壊にもつながりうることを、人々は予感しているにもかかわらず、である。(一部の)日本人が抱いている「原発を放棄することが不可能だ」という見解は、こうした不可能性の感覚から派生する。
以上のように、不可能性の時代を特徴づけているのは、可能性と不可能性がともに過剰になっているという事実である。こんなに可能なことがたくさんあるのに、なお不可能だ。これが不可能性の時代の感覚だ。
さらに、厳密に言えば、不可能性の時代は、現在、後期に入っており、もう一段階のひねりが加えられている。ひねりが加わっていることがあからさまになったのは、(日本では)2011年3月11日以降である。「ひねり」とは、次のような感覚が付加されることによって、「不可能性」の認知が深化したことを指している。すなわち、「この現実」を超える「他なる現実」が不可能なだけではなく、「この現実」すらも(中長期的には)不可能なのではあるまいか、という感覚・予感である。この現実は、定義上、可能である。しかし、にもかかわらず、この現実すらも、少しばかり長いスパンで見れば不可能なのではないか。
このような感覚が浸透しつつあることを傍証する事実のひとつは、この2~3年、「資本主義の終焉」を予感させる書物が、よく売れる、ということである。そのような書物の代表例は、もちろん、トマ・ピケティの『21世紀の資本論』だ。そもそも、一般の経済学者が、「資本主義」とか「資本論」とかといった語を使うだけでも、いささか異例である。経済学者は、「市場経済」という語は用いても、普通は「資本主義」とは言わない。前者は、この語によって指示されているものが、普遍的な「自然の秩序」であるとの前提を暗に含意するが、後者は、(ほぼ)同じものを指していながら、「それ」が一個の体制であり、それゆえ終わりうる現象であるとの含みをもつ〔注4〕。
ピケティの著書は、資本主義の終焉を説くものではない。むしろ、彼は、資本主義の延命のための手段を、提案している。しかし、その手段(資産に対する世界規模の累進課税)は、ほとんどの読者に、「社会主義」と同じくらい非現実的なものに感じられたに違いない。そうなると、ピケティの著書から、一般の読者が受け取ることは、その記述的な部分のみ、つまり資本主義には格差(不平等)を拡大していくきわめて強い傾向性があり、早晩、格差は、大半の人にとって耐え難いほどの水準に達するだろう──いやすでに達しつつある──、ということのみである。要するに、この書物は、資本主義の終わりが近からんことを、厖大なデータと理論によって予言していると受け取られたのである。このことが、そんなに読み易くもない浩瀚な著書が、世界的に、とりわけ日米で大ベストセラーになった主な理由ではないだろうか。
〔1〕 大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書、2008年。『虚構の時代の果て』ちくま文庫、2009年。
〔2〕 前注に挙げた拙著『不可能性の時代』で私が「不可能性の時代」を提唱したとき、厳密には、「不可能性」という語に二つの異なる意味を込めた。この語には、否定的な意味と肯定的な意味があり、その内容や指示対象は異なっている。もちろん、両者は、深く本質的なつながりがあり、それゆえに同じ語によって表現されている。ここでは、分かり易い否定的な意味の方にだけ着眼して、説明を試みている。
〔3〕 冷戦と「理想/虚構/不可能性の時代」という時代区分の関係について、もう少していねいには、次のように考えるとよい。ソ連型の体制であれ、毛沢東の中国であれ、あるいは場合によってはユーゴスラビアの自主管理型社会主義であれ、いずれかの現実の社会主義体制がそのままユートピアとして思い描かれている段階は、理想の時代である。それに対して、現実の社会主義が、ユートピアへの否定的な通路となったのが、虚構の時代だ。その否定的な媒体としての「現存社会主義」も失われると、不可能性の時代になる。いささか細かいことも記しておこう。柴田翔の『されどわれらが日々』(1964)に登場する大学生たちは、失望感や無力感に苛まれている。その原因は、1955年の六全協(日本共産党第六回全国協議会)にある。六全協は、日本共産党が毛沢東の手法の放棄を、つまり「農村から都市を包囲する」暴力闘争の放棄を決定したことで知られている。今では最も平和的な党として知られている共産党は、60年前までは、暴力革命を主張していたのだ。なぜ、六全協が、『されど』の主人公たちを意気消沈させたのか。中国をモデルにした革命路線を放棄することが、理想の時代の「理想」にヒビが入っていることを否応なく示してしまったからである。1970年には、よど号ハイジャック犯たちが、北朝鮮に渡った。「われわれは『あしたのジョー』である」と、人気マンガの主人公に託して自分たちの使命を語り、北朝鮮に飛んだとき、彼らがほんとうに越えたのは、38度線ではなく、「理想(の時代)」から「虚構(の時代)」への境界線だった。彼らは、不可能性の時代になっても、日本に帰ってくることはできない。彼らがよど号を使って横断した境界線自体が、すでに消えてなくなっているからである。彼らは、そこからの帰還が不可能な場所に、つまり文字通りの「ユートピア(非場所)」に行ってしまったのだ。
〔4〕 レイモンド・ウィリアムズによれば、資本主義capitalismという語が特定の制度を指すために一般に用いられるようになったのは、19世紀初頭だが、この語が、学問や政治思想の専門用語として、今日とほぼ同じ意味で用いられるようになったのは、ずっと遅く、19世紀の末期、つまり1880年代以後である。フェルナン・ブローデルは、この語の初出は、ドイツの経済学者・社会学者ゾンバルトの著作だとまで言っている。ブローデルほどの碩学がそう言うのだから、ゾンバルトが、20世紀の初頭(1902年)に『近世資本主義』を書くまでは、資本主義という語は、専門用語としては、ほとんど認知されていなかったのだろう。少なくとも、マルクスは、この語を知らなかった。そして、ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904-1905年)を書いたとき、「資本主義」はまだ新奇な概念だったことになる。
オルマニーのあなたと同じように、高井さんも末続の暮らしの写真を撮り続けています。どこにでもある、けれど、だからこそかけがえのない、その場所の暮らしと、人々の表情です。高井さんが撮った写真を見て、末続のお年寄り達は、オルマニーのお年寄り達とまったく同じように喜びました。口を揃えて、「あの時」のいい写真ができた、と晴れやかな顔で言うのです。「あの時」、つまり、葬儀の時に飾るよい写真ができた、と。日本では、墓地には写真を飾りませんが、葬儀の祭壇に故人の写真を飾ることは一般的に行われます。以前、あなたは、晴れ着を身にまとってポートレートを映してもらいに来たオルマニーのお年寄りのことを、私に話してくれたことがありましたね。オルマニーから遠く離れた末続で、同じエピソードが再現されるのを目の前にして、私はとても驚きました。そしてそれと同時に、国や文化が違えども、生と死にまつわる人の営みが共通することの不思議に、深く感じ入りました。地に生まれ、根付き、生き、地に死ぬということ、暮らしの写真は、そうした人間の普遍的な営みを浮き上がらせてくれているように感じたのです。この営みこそが、あなたのよく言う、人々の暮らしの「尊厳」なのだと思いませんか? 暮らしの写真に映し出されるのは、放射能汚染地に暮らす、誰かに助けを求める哀れな被災者ではなく、その地で営まれる平凡で、だからこそ、なにをもっても代えることのできない譲渡不可能な確かな生の姿です。第三者から見れば、映し出される暮らしのひとつひとつの出来事は、些細な、取るに足らない、どこにでもあるものに過ぎないでしょう。日々の繰り返しであるがゆえに、多くの場合、本人たちにとってさえ、特筆すべきものはなにもないと思われているかもしれません。けれど、そのなんてことのない日々の繰り返し、どこにでもあるものの中にこそ、何よりも大切なその人らしさ、その暮らしのよさがあるのだと、私は思っています。暮らしは、繰り返されるごとに、深く刻み込まれ、やがて他のなにをもっても代えることのできない、豊かな表情をたたえる、私にはそのように思えてならないのです。
私が、あなたの撮ったオルマニーの写真を最初に見たのはいつだったか、今は、はっきりと思い出せません。初めてあなたと会うよりも前のことだったかもしれません。とにかく情報が欲しくて、必死にインターネット上の資料あさりをしていた頃だったような気がします。最初に見たのは、あなたの写真集『オルマニーへの眼差し』(Regards sur Olmany)の一番最後のページにある、窓越しになにかを見つめる老人の写真です。(今はサイトデザインが変更になっていますが、以前、CEPNのETHOSプロジェクトを紹介するページで使われていましたね?) 私は、一目で老人の眼差しの深さに心奪われました。彼は、おそらくごく普通の暮らしを営む一人の男性に過ぎないでしょう? なぜ、その彼が、生と死の交差する場所を見つめるような眼差しをするのか。彼の諦め、絶望、悲しみとともに懐かしさが入り混じったような眼差しに、私は心奪われると同時に、不可解でなりませんでした。けれど、ノルウェーのヴァルドレスとベラルーシのブラギンを私自身が訪れることで、彼の眼差しへの不可解な思いは氷解しました。その経緯は、前回のお手紙の通りです。生への愛おしさと、生への愛おしさのもう一つの側面である深い嘆きが、写真の男性の眼差しを深いものにしていたのでしょう。私には、シュマトヴの絵が描き出した深い嘆きを、写真の男性はその目に湛えているように見えたのだと思います。
ブラギンの歴史博物館で、シュマトヴの絵を見たときの感覚を思い出します。あの時、私はまだ、シュマトヴの絵が描き出すものの意味も、絵を目の前にして自分の内側にこみ上げてきた感覚が何なのかも、理解できていませんでした。けれど、今では、はっきりと分かります。彼の描いた人物達の嘆きの表情、防護服姿の気味の悪い人間、立入禁止を示す窓に打ち付けられた板、これらのイメージは、深い嘆きを象徴すると同時に、おそらくはその底に憎悪の感情を潜ませています。特定の誰か、何かに対する憎悪ではなく、事故とそれに派生して起きた様々の出来事すべてに対する嘆きと憎悪です。それに気づいた時、私もまた、自分の中に、同じ感情があることに気づいたのでした。シュマトヴの絵を目の前にして、こみあげてきた得体の知れない感情は、私のうちに潜む憎悪だったのだと思います。
シュマトヴの絵だけでなく、ブラギンの歴史博物館は、私の心に強く刻まれることとなりました。博物館の中には、チェルノブイリ事故の消火活動で殉職した消防士たちの展示室もありますね。そこで、私は、とある人に「再会」したのでした。当時25歳で亡くなった、ブラギン出身のヴァシリー・イグナテンコ消防士です。正確に言えば、私が知っていたのは、彼の奥さんでした。福島での原発事故が起きるよりも遙か前、たぶん10年近く前だと思いますが、私は、たまたま深夜のテレビで放映された彼の奥さんのドキュメンタリー番組を見ていたのです。そのドキュメンタリーは、海外制作(おそらくロシアだと思います)で、悲劇的な事故から10年ほど経過した後の奥さんを取材したものでした。私の記憶の限りでは、通り一遍に被災者の悲劇を視聴者好みに描くのではなく、彼女に起きた出来事を丁寧に取材したドキュメンタリーでした。ずいぶん昔に見た映像であったにもかかわらず、福島の事故の一報直後からずっと、私はフラッシュバックのように繰り返し繰り返しこのドキュメンタリーのことを思い出し続けていました。
ドキュメンタリーの内容は次のようなものでした。プリピャチに暮らしていた消防士イグナテンコは、それが原子炉の事故であるとも知らず、無防備に消火活動に出かけ、即死しかねないほどの高線量の放射線を浴び、事故から1週間後の5月3日に亡くなりました。その時に、奥さんのお腹の中には子供がいました。消火活動直後、自分に起きたことをほとんど知らされないまま、夫はモスクワの病院に現場から直行で入院させられました。禁じられていたにも関わらず、妻は病室に毎日通い、弱っていく夫の看護を続けました。急速に悪化していく体調の中、唯一、その名を考えるときだけは夫が楽しそうにしていたという彼女のお腹にいた子供も、夫亡き後、流産します。事故後のソ連崩壊の混乱で、生活の再建も補償もままならず、不如意な生活を送る様子がドキュメンタリーには描かれていました。ドキュメンタリー監督のインタビューに対して、彼女が、所在ない表情で「あの頃、私は若すぎて、愛がなんなのかもわからなかった」と語ったシーンを鮮明に覚えています。そして、もっとも印象深かったのが「私、あの時、どうすればよかったの?」と彼女が呟き、道を歩く様子でした。彼女は確かに地面に足を着いている、そのはずなのに、宙に浮き上がっているかのように見えました。まるで影を失った人のようであった、とでも言えばいいのでしょうか。このような人間の絶望の姿を、私はそれまでに見たことがなく、深い衝撃を受けました。心を強く捉えられ、しばらく考え続けました。彼女の絶望は、他の絶望と、どこが異なっているのか。やがて気づいたのは、彼女は夫を失っただけでなく、住んでいた場所を追われ、暮らしをまるごと、夫との思い出も、なにもかも根こそぎ奪われたのだ、という事実でした。彼女が失ったのは、彼女が拠って立っていたすべてです。夫、家族、生活の場所、思い出の品、そして記憶さえも。核災害のもとでは、記憶でさえ、立入禁止の汚染地として、かつての愛おしむべき色彩が、くすんだ色合いに塗り替えられてしまうのです。あのドキュメンタリーに描かれていたのは、他に類を見ない、根こそぎ暮らしを、暮らしの尊厳を奪われるという悲劇だったのでしょう。これが、私のチェルノブイリ事故被災地の人との初めての出会いでした。
福島で事故が起きた時に、私は、このドキュメンタリーを鮮明に思い出し、日本で、この場所で、私のすぐ側にいる人たちに、彼女と同じような状況が起きるのかも知れない、という現実に震撼しました。恐怖したといってもいいと思います。それが、その後の私と私の行動を駆り立てるもののひとつとなりました。
ブラギン歴史博物館の展示室に入り、ガイドの若い女性から解説を聞くまで、私は、イグナテンコがブラギンの出身であることを知りませんでした。ガイドの女性が、事故の時の消火活動に従事した消防士について、次いで、奥さんについて説明を始めた時に、私は、イグナテンコ夫婦が、自分が見たあのドキュメンタリーに登場していた夫婦なのだと気づき、思わぬことに、激しく動揺しました。なにかに招かれてここに来ているかのような感覚に襲われました。ひと言で言えば、この出来事から私は「逃げられない」のだと思いました。動揺が収まらないまま、ガイドの女性に、奥さんの現在の様子を尋ねました。ドキュメンタリー映像でのあまりの生気の薄い様子に、もしかするともう存命ではないのかも知れない、と内心恐れながらでしたが、元気で今はキエフに住んでいる、との答えでした。そして、この展示室がオープンするときに、彼女も招かれて参加したのだ、と教えてくれました。私は、それを聞いて、心から安堵しました。もうひとつ、私は尋ねました。「イグナテンコは、ブラギンの人々から敬意を抱かれているのですね?」と。ガイドの若い女性は、なぜそんな当たり前のことを聞くのか、というような真っ直ぐな眼差しで、強く頷き、淀みなく「そうです(ダー)」とひと言、答えました。展示室の天井からは折り鶴がぶら下げられていました。(数年前に、日本のドラマかなにかが放映されたことがきっかけで、折り鶴がベラルーシでも流行したのだそうです。)
その時、傍に誰もいなければ、私は、床に伏して声を上げて泣いていたでしょう。根こそぎ奪われた彼女の生活は、決して元に戻ることはなく、奪われたものも二度と戻らない。それでも、ブラギンの人々は、こうして悲劇を分かち合い、未来に伝えることにより、悲劇を彼らの歴史の一部に取り込もうとしていました。それは、彼女たち夫婦や、同じように暮らしを失った人々の悲劇は、他の人々にとっても、決して無意味なものではないという意思表示であり、そうすることによって、そうした人たちの尊厳を回復させようとしているのだと、私には感じられたのです。涙を堪えながら、もしかするとそれでも十分に泣いていたかもしれませんが、心の中で、会ったことのないイグナテンコの妻に「よかったね、よかったね」と話しかけていました。
彼らの悲劇を説明してくれるガイドの女性は、おそらく事故を経験していない若い世代でした。彼女は、自分が伝えることの意義を明確に理解しているように私には感じられました。悲劇の過去を、ただ悲劇のままに捨て置いて風化にまかせるのではなく、自分たちの受け継ぐべき歴史として、未来に語り伝えようとする強い意志を彼女は持っていました。これもまさに、あなたが先の手紙に書いていた、死の記憶を生の側に取り返す、容易ならざる挑戦であるのでしょう。そして、ガイドの女性の強い意志のこもった眼差しは、ブラギンの人々が、この困難な挑戦に成功することを私に確信させるものでした。あなたの前回の手紙を読んだ後、この時の自分の経験を反芻して、ようやく理解することができました。私がこの時に受けた衝撃は、ブラギンの人々が、喪失からの回復がもはや不可能と思える悲劇に対しても、悲劇そのものを歴史に取り込み、未来へ繋ぐことによって、彼らの歴史の一部として生の側へ取り戻そうとしていることによるものだったのだと。
そう、実際に、あれだけ濃厚な死の気配に彩られた、カタストロフの記憶の場所を訪れながら、結局、私の中に最終的にもっとも強く残ったのは、ガイドしてくれた女性の強い眼差しだったのです。それを、私たちはきっと「希望」と呼ぶのだと思います。
ブラギン歴史博物館訪問の経験は、いつかあなたに伝えたいとずっと思っていながらできないでいました。こうして今、お伝えできて、ほっとしています。あの小さな歴史博物館は、ブラギンの人々にとってそうであるように、私にとっても、あの時からずっとかけがえのない場所です。
福島は例年通りの寒い冬を迎えています。寒さの中にも、木々の枝の先端が少しずつ色づいてきているのを、毎日見ています。もうすぐ、またあなたに会えることを楽しみにしています。
2015年1月26日
澄んだ青空が見えた日に
安東量子
Mr. Takai has been recording the people's lives in Suetsugi just as you did in Olmany. He focuses on the way people live in Suetsugi, and the look on their faces. These are what you would call ordinary folks and ordinary lives, nothing special, something that exists anywhere, but all the more precious for that reason. When the elderly residents of Suetsugi saw Mr. Takai's photos, they were delighted, just like the elderly residents of Olmany. They would chorus the same comment with twinkle in their eyes, "Oh, this would be a great picture for 'the day'!" "The day" means their funeral. They were delighted to have a great picture for their funeral ceremony. In Japan, we do not adorn graves with photographs, but the photograph of the deceased person is usually placed on the altar during the funeral ceremony. You once told me about the elderly residents in Olmany, who wore their best clothes to have photos taken by you. I was very surprised to see your story becoming real in Suetsugi, so far away from Olmany. At the same time, I was deeply moved by how people behaved similarly in times of birth and death, regardless of the differences between countries and cultures. To be born in a certain land, to take root, to live out, and to return to soil--the photographs of the lives in the villages seemed to highlight the universal life patterns of people. Don't you agree that these life patterns signify what you often refer as the "human dignity"? The photos of these peoples' lives do not show pitiful victims crying out for help; what they show are portraits of people living ordinary lives in their land, lives that are ordinary, but not interchangeable with anything else because of their ordinariness. From the eyes of an outsider, each episode of their lives in the photograph may seem small and common, with no unique value. Because they are everyday episodes repeated daily, often the people themselves do not see these events as anything noteworthy. However, I feel that only within the routine of uneventful days and ordinary lives are hidden the real joy of life and the uniqueness of the person. The seemingly common episodes of ordinary life, by being repeated over and over again, carved marks that get deeper every time, which, in time, turns into unique and idiosyncratic engraving with deep expression, which cannot be replaced with anything else in the world.
Right now, I cannot recall when it was that I first saw the photographs you took in Olmany. It may have been before I met you in person. I believe it was when I was frantically looking for information on the internet. The first picture I saw was the photo on the final page of your book, "Regards sur Olmany," of an old man who is peering through a window. (I believe it was used in the webpage introducing CEPN's ETHOS project before the website design was changed.) At once, I was taken aback by the deepness of his gaze. He must be an ordinary man, leading ordinary life. Why did he wear such expression, as if his eyes were set on the point where life and death crossed? His glance, which seemed to contain resignation, despair and grief, yet was as if he was looking at something old and dear, captivated as well as puzzled me. And, I found the answer to this puzzle through my visit to Valdres, Norway and Bragin, Belarus, which I wrote in my previous letter. I believe his glance had to take on such deepness because he had both passionate endearments for life as well as its inevitable companion, deep sadness. I also believe that I saw the deep sadness which V. F. Shmatov drew in his paintings in the eyes of the man in the photo.
I remember the sensation when I first saw Shmatov's painting in the National History Museum of the Republic of Belarus in Bragin. At the time, I hardly understood the meaning of what Shmatov tried to depict, or, was aware of the senses that the paintings aroused in me as I stood in front of the paintings. But now I know. The sad expression on the faces of people, the sinister men in protective suits, the boards on the window showing off limit zone, these images Shmatov drew were not only symbols of deep sadness, but probably had layers of hatred hidden beneath the surface. It is not hate targeted towards a specific person or subject, but rather, grief and loathing for everything related to the Chernobyl accident and events that followed. When this became clear to me, I had to acknowledge that somewhere deep inside of me was the same emotion. The unfathomable emotion which shook me as I looked at Shmatov's painting was, in fact, my own hatred that hid deep inside my heart.
The Museum in Bragin itself left lasting impression on me, not just because of Shmatov's painting. It houses an exhibition room to commemorate the firemen who lost their lives to fight the fire at Chernobyl plant. In that room, I reunited with an old acquaintance. His name is Vasily Ignatenko, a fireman from Bragin, who died at age 25. More precisely, it was his wife who I knew. May be nearly ten years ago, far before the nuclear plant accident in Fukushima, I happened to see a documentary film of this lady, the fireman's wife, on midnight TV. The program was produced by a foreign company (probably Russian), and it showed the fireman's wife about ten years after the tragic accident. As far as I remember, it did not paint her as a tragic victim in the way viewers like to sentimentalize, but it followed what actually happened to her in detail. Although it is quite some time since I saw the images, ever since the first news of the accident in Fukushima, the images from this film kept showing up on my mind, almost like a flashback.
The film went like this. Vasily, a fireman from Prypyat was called on duty without any protection, not knowing that the fire was from the nuclear power plant accident; he was exposed to extremely high dose of radiation, a level which could result in immediate death, and died on May 13, two weeks after the accident. At the time, his wife was pregnant. After the operation, Vasily was directly sent to Moscow for hospitalization with hardly any information on what had happened to him. Against orders, his wife visited him at the hospital every day to tend to her weakening husband. Amid rapidly deteriorating conditions, his only solace was thinking about the name of the baby to be born; however, she suffered miscarriage after his death. After the accident, in the confusion that followed the break-up of USSR, she could not receive sufficient compensation or rebuild her life; the film showed how she lived a life she did not intend. One scene remains particularly vivid in my recollection, where she replied to the director's question looking uncertain, and "I was very young at the time...too young to know what love is." Another scene which was most unforgettable was where she softly murmured, "What should I have done at the time?" while walking the street. Surely her feet were on ground, but it seemed as if she was floating. Shall I say she was like someone who lost her shadow? I have never seen someone who had given-up hope so completely that I became deeply disturbed. Her image haunted me, and I kept wondering for some time. What is it about her despair that is different from other people? Then I came to the conclusion that, she not only lost her husband but was deprived of everything; she was banished from her place of living, and uprooted from her life itself, including her memory with her husband. What she lost was everything that supported her life--husband, family, locus of life, belongings, even memories. In the event of a nuclear disaster, even memories are repainted in dark tones which hide their true colors; the old familiar landscapes are covered under the image of contaminated no-entry zone. The program showed a tragedy of someone whose whole life was uprooted and who was deprived of the dignity to live humanly in an unprecedented manner. This was my first encounter with an actual person who was living in the areas affected by Chernobyl accident.
When the accident occurred in Fukushima, the images of this film re-emerged vividly in my mind. I trembled at the fact that something similar to what happened to the fireman's wife may happen in Japan, where I lived, to people who are right beside me. I guess I was stricken with fear. It became one element which drove me and made me act since then.
Until I entered the exhibition room in the National History Museum of Bragin and listened to the young guide's explanation, I was not aware that Vasily was from Bragin. As she started telling the story of the fireman who fought the fire from Chernobyl accident and next about his wife, I recognized that Vasily and his wife actually were the couple in the film I had seen. I was unexpectedly stunned at this discovery. It felt as if something led me to this place. Or, I felt that I could never "escape" from their story, as if somehow their fate was intertwined with mine. Still shaken, I asked the guide if she knew what became of Vasily's wife. She looked so frail in the film that I feared she might not be alive. But the guide answered that Vasily's wife, Lyudmila, was well and living in Kiev. Then, she told me that Lyudmila had been invited to and attended the opening of the exhibition room. I felt sincerely relieved to hear that. Then I asked another question. "So, Vasily is respected by the people of Bragin, I presume?" The young guide looked at me straight, as if to wonder why I was asking something that goes without saying; then she gave a firm nod and replied without hesitation, "Da. (Of course.)" I saw origami cranes hanging from the ceiling of the exhibition room. (Paper cranes became popular in Belarus in the past few years, influenced by the broadcasting of a Japanese drama or some program.)
If there was no one by my side, I would have thrown down myself on the floor and cried out loud. Lyudmila's completely life, completely uprooted will never be returned, nor will she ever claim what was taken away from her. Even so, people of Bragin, through sharing the tragedy and passing it on to the future, were trying to make the tragedy part of their history. It was an indication of their resolve to assert that the tragedy of Vasily and his wife, as well as the tragedies of the people who were deprived of their lives, are not insignificant to other people. Furthermore, I felt that the people of Bragin were aiming to restore their dignity. With tears in my eyes--I may have been crying already--I was talking to Vasily's wife in my heart, "Yes, yes, my dear..." although I never knew her in person.
The guide who explained their tragedy appeared to be from a younger generation born after the accident. I sensed in her a strong sense of commitment, a determination not to let the tragic past be forgotten and laid to waste, but to tell the story into future as a history to be shared and passed onto future generations. In your earlier letter, you wrote about the difficult challenges to reclaim the memory of death into the domain of the living; I believe that what I encountered at the Museum is one attempt. The determined look in the guide's eyes convinced me that the people of Bragin will overcome this difficult challenge one day. Also, there is something I was only able to grasp by reading your last letter and contemplating on this experience in Bragin. The reason why I was so moved by the experience is, because the people of Bragin have been trying to reclaim the tragedy by incorporating it into their history and to create linkage with the future, a tragedy so entwined with losses that attempts to recover anything may seem futile; through these challenges, they are claiming places for these tragic stories in the domain of the living, as part of history, his and her stories, the story of people's lives.
That explains why, after visiting the place of the memories of a catastrophe so heavily laden with the shadow of death, what ultimately remained as the most impressive image in my memory is the determined look in the young guide's eyes. And I believe, we give it the name, "hope."
I have always wanted to tell you about my experience at the National History Museum of Bragin for a long time. So, I am relieved that I accomplished the task! The small Museum has remained a place most precious to my heart since the visit, as it must be to the people of Bragin.
Winter has visited Fukushima once again, with its gift of cold weather. Even in a freezing temperature, I see the colors of spring gradually spreading on the outermost tips of the branches each day. I am looking forward to seeing you again.
On a day with crystal clear sky
Ryoko Ando
「(n)委員会〔国際放射線防護委員会=ICRP〕は今、行為と介入の従来の分類に置き換わる3つのタイプの被ばく状況を認識している。これら3つの被ばく状況は、すべての範囲の被ばく状況を網羅するよう意図されている。3つの被ばく状況は以下のとおりである。
● 計画被ばく状況。これは線源の計画的な導入と操業に伴う状況である。(このタイプの被ばく状況には、これまで行為として分類されてきた状況が含まれる。)
● 緊急時被ばく状況。これは計画的状況における操業中、又は悪意ある行動により発生するかもしれない、至急の注意を要する予期せぬ状況である。
● 現存被ばく状況。これは自然バックグラウンド放射線に起因する被ばく状況のように、管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する被ばく状況である。
(o)改訂された勧告では3つの重要な放射線防護原則が維持されている。正当化と最適化の原則は3タイプすべての被ばく状況に適用されるが、一方、線量限度の適用の原則は、計画被ばく状況の結果として、確実に受けると予想される線量に対してのみ適用される。これらの原則は以下のように定義される:
● 正当化の原則:放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は、害よりも便益が大となるべきである。
● 防護の最適化の原則:被ばくの生じる可能性、被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは、すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら、合理的に達成できる限り低く保つべきである。
● 線量限度の適用の原則:患者の医療被ばく以外の、計画被ばく状況における規制された線源からのいかなる個人の総線量も、委員会が特定する適切な限度を超えるべきでない」(ICRP Publ. 103(2007年勧告)総括、邦訳p.xvii-xviii)
詳しくは、同文書(2007年勧告)の「6.3. 現存被ばく状況」(邦訳pp.70-72)参照。
また、『ICRP111から考えたこと――福島で「現存被曝状況」を生きる』には分かりやすい解説がある。とくに「第1回」の「現存被曝状況」:被曝と暮らす日常」参照。 http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html
数週間がこうして過ぎました。そうするうち、福島県伊達市での第10回ICRPダイアログセミナーの折り、また私が末続を訪ねた折りに、私たちは再会しました。そんな折々に多くの主題について語り合いましたが、それらの主題のうちには、あなたが手紙の中で取り上げていたものもありました。被害を受けた地域で伝統や文化が果たす役割をめぐる問題です。けれども、私たちは問題の核心に言及したわけではありませんでした。実のところ、そうするための条件が整っていなかったのだと思います。私が言いたいのはつまり、あの折々の状況では、突っ込んだ意見交換をするために必要な落ち着いた心持ちになるのが難しかったということです。
フランスに帰国してから、改めてもう一度、あなたの手紙を読みました。たちまち私の注意を捉えたのは、あなたがノルウェーのお友達の表情に看て取った「生への愛いとおしさ」でした。過去を振り返れば、私はかつてベラルーシ南部の村オルマニの住民といっしょに状況改善の道を探ったわけですが、あの頃オルマニの人びとの内に私が強く感じたのも生への愛おしさでした。まさにそれが動機となって、私は一方では、原発事故で被害を受けた地域で暮らす人びとへの協力をたゆむことなく続けようと決心し、他方では、その経験を放射線防護を専門とする同僚たちと分かち合おうと決意したのでした。
けれども、付け加えて言わなくちゃなりません。生という次元に、私は最初から明白に気づいていたわけではありません。段々と、思いがけなくも写真を介して気づいたのでした。オルマニでのプロジェクトの発進からまる1年を経て、村人たちがついにエートス・チームのことをすっかり認めてくれた頃、私は時折、長時間仕事をしたあとの疲れを癒したくて、カメラを提さげて独りで村の通りや、村を取り囲む池や森へと通じる道を散歩しました。すると、道で出会う村人たちが進んでカメラの被写体になってくれました。とりわけ、自分が死んだときのためにポートレートを用意しておきたいと願う老人たちです。お墓に故人の写真を置くのがベラルーシの伝統の一つなのです。こうして私は、オルマニに派遣されて任務を重ねるうちに多くの村人を写真に撮り、任務と任務の間には、写真に写った彼らの眼差しを探るのを習慣とすることになりました。かくして彼らの眼差しの中に、あなたがお手紙の中で見事に描写してくれたあの不安と愛おしさの混ざり合いを見出したのでした。
1998年の夏、そうして撮った写真の幾枚かと、ある同僚が撮影した数枚を合わせ、エートス・プロジェクトの最初の証言となる一冊の小さな本に収録したのですが、当時自分が何に突き動かされてそうしたのか、本当のところはよく分かりません。その夏は体調や気分がすぐれず、チームの3ヶ月ごとの派遣任務にも参加しなかったことを憶えています。もしかすると、それでもある意味で村にいたくて、私はあのとき、のちにフランスの幾つもの町での写真展に発展することになる仕事に手をつけたのかもしれません。逆に、非常によく憶えているのは、本に、「チェルノブイリ原発事故により汚染された地域における生活」というサブタイトルを付けるのを長い間ためらったことです。実際、そんなサブタイトルを読者に提示するのは、それまでメディアや、おおむね支配的な言説によって伝えられていたイメージを完全に覆くつがえすことにほかならなかったからです。皆にとって、汚染された地域の住民は、いずれは放射能のせいで死ぬことを免れない犠牲者なのでした。あれらの地域で生きることを選択し得る、そして将来へ向けての計画を持ち得るという考え自体、多くの人びとにとって少なくとも突飛であり、ある人びとにとっては「犯罪的」でさえあったのです。事実、批判もされました。しかしながら、そのサブタイトルを採用することで、私は、私たちを信頼してくれた村人たちの望みを尊重し、尊厳ある生を営もうとする彼らの意志に対してよりいっそう揺るぎないやり方で連帯することになると深く感得していたのです。
写真集に寄せられた感想に関しては、当時私にとって教訓に満ちていたエピソードをあなたに聞かせたい。この気持ちには抗あらがえません。
エートス・プロジェクトの遂行中、ストリン区での任務が一つ終わるたびに、当時の「緊急事態及びチェルノブイリ」担当大臣と短時間面会し、プロジェクトの最新の進展について情報を提供することにしていました。その大臣こそ、住民参加で状況の改善を目指すというやり方をわれわれが提案した相手であり、その成功の可能性については相当懐疑的であったにもかかわらず、最終的にはそのやり方を試してみることに同意し、ゴーサインを出してくれた人物だったのです。面会のたびに、私は目立たないようにしながらですが、大臣室の壁に掛かっていた画家ヴィクトール・シュマトヴ*1の大作に見とれたものです。実は私はシュマトヴと面識があったのです。1996年に、チェルノブイリの事故からちょうど10年だというのでミンスクで国際会議*2が開催されたのですが、その折に画家に出会ったのです。会議場のホールにシュマトヴがチェルノブイリをテーマとする一連の絵を展示していて、私はそのうちの一つ、『ゾーンへの道』と題されていた一点を取得したのです。その後、私たちはコンタクトを保ちました。幾度にもわたって彼が私をアトリエに招いてくれ、そのアトリエで、私は彼の過去の軌跡と作品に親しむことができました。
チェルノブイリ地方の出身であった彼は、事故後、災害の結果を前にする悲しみや怒りを描くことにエネルギーを傾注しましたが、それだけでなく、30キロ以内の立ち入り禁止ゾーンの文化資産を救い出すことにも尽力したのです。特に、ベラルーシの古い文化をテーマとする博物館の中に、チェルノブイリ地方の民族学および大衆芸術に特化するセクションを設置しました。シュマトヴは2006年に、70歳で没しました。彼はブラギンの美術館にも何点か作品を寄贈したので、あなたも2年前にあの美術館を訪ねた折り、彼の絵に目を瞠みはったことでしょう。
大臣室の壁に掛かっていた絵は、画家の母親が夕暮れ時、立ち入り禁止ゾーンを区切る障壁の縁に坐っているところを描いていて、後景の窪地くぼちにプリピャチ川が配されていました。ごく古典的な技法に拠った絵で、その画幅からは悲しみと孤独の深い感情(あえていえば、生への愛おしさのもう一つの面でしょう)が立ち昇っていました。シュマトヴは事故の前と後に、同じ構図で幾つものバージョンの絵を描いたのでした。
2001年の夏のことでした。被災地域に滞在した後いつもそうしていたように、われわれは大臣を訪ねたのですが、その折りは、エートス・プロジェクトをきちんと終了するための締めくくりのセミナーを年末にストリンで開催する*3ことを予め決めていたので、特にその準備状況に関する情報を提供しました。その説明の途中、セミナー参加者全員と、オルマニの村人たちに写真集*4を配布するつもりでいることを明かし、大臣にその写真集を一冊渡しました。大臣はたいへん興味を示してページをぱらぱらとめくり、写真に写っている人びともセミナーに参加するよう招かれていることの確認をわれわれに求めたあと、タイトルとサブタイトルを翻訳させました。タイトルとサブタイトルの意味を解すると、大臣はわれわれの方に改めて向き直り、やや感動した面持ちで、生活という点を強調してくれてありがとうと言われたのでした。
大臣室から退出するとき、私はついシュマトヴの絵に目をやり、見とれ、大臣に、毎日じかにこのような作品をご覧になれるとは幸運ですねと言いました。すると大臣は私に、あなたはシュマトヴを知っているのかと尋ね、私の説明を聞くと、次のようなエピソードを語ってくれました。
《2、3年前、チェルノブイリをテーマとするシュマトヴの作品の展覧会がフランスで開かれましてね、その折りにシュマトヴはフランスに招かれました。で、ミンスクに帰って来ると、彼は向こうでの印象を語りたいからといって私に面会を求め、やって来ると、誇らしげに展覧会のカタログを私に見せました。私がそのカタログにどんなタイトルが付けられているのかと尋ねたところ、彼の答えはこうでした。『チェルノブイリに死す』。そこで私は彼に対し、重々しい口調で言い渡しましたよ。「シュマトヴ、今後はきみの作品を外国で展示することを禁止する!」》
思うに、この禁止を口にしたとき、大臣は画家が有する海外旅行の自由を標的にしていたわけではないでしょう。そうではなくて、単に、展覧会のタイトルによって伝わるメッセージへの不同意を画家に示そうとしたのだと思います。第一、そのタイトルを選んだのがシュマトヴ自身だったと言い切ることはできません。私はむしろ、フランスにおける展覧会の開催者が、一般公衆の大半と同様にチェルノブイリと死を不可避的に結びつけて、そんなタイトルを選んだのではないかという気がします。大臣がシュマトヴに言ったという内容を大まじめに受け取るべきかどうか、またタイトルを決めたのがシュマトヴであったかどうか、そういったことは大して問題ではないですね。写真集のタイトルに敬意を払ったすぐ後でこのエピソードをわれわれに語ることで、大臣は、放射線汚染地域でせめぎ合う生と死の間の緊迫感を強調しようとしたのだと思います。そして、彼もまた生の側に付くということを、われわれに対して曖昧さなしに明示したのでした。
否定すべくもなく、原発の大惨事は、その影響を受けるすべての者にもともと有限の存在であることを思い知らせ、すべての者を、やがて不可避的にやって来る自らの死に容赦なく直面させます。それは、一人ひとりの内部に深く刻み込まれる痕跡こんせきさながらに作用します。ですから、人が生の側に立ち戻るのが容易くないことはいうまでもありません。それは少し、近親者を失った後の喪もの仕事に似ています。私が思うには、放射線の測定は事故の現実を対象化するために必ず経なければならないプロセスであり、生の側へ引き返してくるための必要条件です。それがヘル夫人のアプローチの意味ですが、あなたが末続の人びとと共に生み出し、見守ってきたアプローチのそれでもありますね。
この経験は伝達することがきわめて難しく、あなたが書簡の中で強調しているとおり、それを本当に共有し合うことのできる状態にあるのは、それをすでに自ら経験した者だけです。そこのところを知るあなたなら、想像できるでしょう。万一原発事故が起こったときに放射線防護の専門家たちがしかるべく働けるように彼らの準備を整えておくという展望に立つ者がどんな障害を乗り越えなければならないか......。エートス・プロジェクトの同僚たちは皆、この困難にぶつかりました。無理解の壁を痛感した果てにチームが結論したのは、事故後状況において何が問題になるかを理解させるためには、当該の専門家たちを直接、まさにその状況を生きた人びと、その状況を現に生き続けている人びとの前に連れてくるほかに手段はないということでした。そこに、国際放射線防護委員会(ICRP)の専門家たちが相継いでダイアログセミナーに参加する主な理由があります。
ノルウェーに関して、あなたは、日本ではほとんど誰もノルウェーの一部の地域がチェルノブイリ事故の結果ひどい被害を受けたことを知らないと指摘していますね。でも、それはヨーロッパでも同じです。地理的にはすぐ近くのことなのに、です。私自身、その現実を意識したのは2003年の9月の終わり頃、つまり事故から16年(!)も経ってからでした。気づきの機会となったのは、当時オーストリアのザルツブルグで開催された国際会議*5でした。そこで私が初めて出会ったのがアストリッドで、彼女がサーミ人が体験した劇的な出来事を教えてくれたのです。いささかの情報交換・意見交換を経て初めて、彼女と私が事故後状況を同じ視線で見ていることが分かりました。そのときから、これは模範的と言ってよいと思えるわれわれの共同作業が始まり、それがノルウェーでも、フランスでも、ベラルーシでも、そして今では福島でも展開しているのです。
サーミ族のことに話を戻すと、あの民族の運命は驚くほど原子の物語に関係しています(日本国民の場合のように)。まず冷戦時代の核実験に起因する放射線被害、そしてチェルノブイリの事故。20世紀の間に二度にわたって、彼らは無視できないレベルの放射能に晒さらされたのです。1960年代中頃、ノルウェーに住む北方サーミ人のセシウム137による内部被曝が、チェルノブイリ事故の後の1980年代末における南方サーミ人のそれと同じくらいのレベル、すなわち1キロあたり数百ベクレルだったことを知る人は僅わずかしかいません。ついでに言うと、私はほんの数年前にようやく、核実験による放射線被害のフランスにおける頂点だった1965年にパリ地方の住民の体内に存在していたセシウム137の量は全身で800ベクレルに達していたことを知りました。この値はフランス全国に関わった平均的被曝を示していると思います。してみると、私自身も汚染を免れなかったわけです! 当時私は高校生でしたが、私の周囲に、状況を意識している人は一人もいませんでした。あの頃は実際、原子に関わるすべてが秘密にされていました。
ペンをおく前に、これもお伝えしておきたいと思います。私のことを心配してくれた末続すえつぎのご婦人のエピソードを読んで私は大いにニンマリしましたが、それだけでなく、感動もしました。いただいたお便りの中のそのエピソードを語る部分を読んで、すぐに回想しました。2013年の3月の初め、私は末続に三度目の滞在をしていて、ある朝、日の出の頃、谷あいを散歩したのです。その夜、事実私は眞也さんの家に泊めてもらっていました。しかし、時差のせいで暁に目を覚ましてしまったのです。部屋で眠っている仲間を起こしてしまわぬようにそっと外へ出ました。そして暫しばらく歩いて行ったところで、偶然、早朝の光の中で田んぼを撮影している〔高井〕潤さんに出くわした。彼と私は肩を並べ、少し言葉を交わしながら長い間いっしょに歩きました。眞也さんの家へ引き返してくるとき、やや雲に遮られた太陽がすでに高く昇っていましたが、私たちは路傍で、エピソードのご婦人とすれ違ったのかもしれない......。
今日のパリ地方は肌寒く、雨模様で、冬の霧がまだ立ちこめています。
手紙をいただくのを楽しみにしています。
友情を込めて、
2014年12月16日
ジャックより
(邦訳=堀茂樹)
「原発事故以降、福島を巡って巻き起こる声は、そこに住む人間にすれば、すべて、住民を置き去りにしたもののように感じられました。
誰もが、当事者をないがしろにして、何かを語りたがっている状況に、私は、強い違和感を感じました。おそらく、怒りと言っていいのだと思います。
私がこんな事をはじめた理由は、自分達のことは、自分達自身で語るしかないのだ、という思いが根底にあります。
ただ、そんな中、ICRP111だけが、私たちに寄り添ってくれたものであるように感じられました」
こう書いたのが、「福島のエートス」*6代表を務める安東量子さんでした。2012年3月のことです。
この文章にある「ICRP111」とは何でしょうか。民間の非営利団体である国際放射線防護委員会(ICRP)が、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故後、放射性物質に汚染された土地で、そこに住む人々の回復(rehabilitation)を模索した成果です。被災地域の住民や行政との対話を通してその任に当たった専門家たち――そのひとりがロシャールさんです――が、この文書を2009年にまとめました*7。
邦題はたいへん長いもので、「原子力事故または放射線緊急事態後の長期汚染地域に居住する人々の防護に対する委員会勧告の適用」と言います。
安東さんとロシャールさんは、2011年の冬以降、この3年弱のあいだ、電子メールを使って、やがて直接顔を合わせることによって、対話を重ね、経験を共有してこられました。
ロシャールさんは、あるインタビュー*8でこう語っています。
「私は川をはさんでこちら側と向こう側の岸を行き来する小さな船の渡守です。チェルノブイリと福島の橋渡し、それと福島と、広島、長崎とのあいだ。まだチェルノブイリ事故の教訓は完全に総括されていませんが、これからは福島に学ぶことが多い。現代から未来へ、二つの事故の記憶も伝えていきます」8
この往復書簡「渡し舟の上で」では、おふたりの経験と思いを綴っていただく予定です。原子力発電所事故による災厄の、個人的な側面と集団的な側面の結節点が、読者にゆっくりと伝わることを念じています。〔編集部〕
Plusieurs semaines ont ainsi passées. Puis nous nous sommes retrouvés lors du 10ème Dialogue à Date et lors de ma visite à Suetsugi. A ces occasions, nous avons discuté de nombreux sujets, dont la question du rôle de la tradition et de la culture dans les territoires affectés que tu évoques dans ta lettre, mais nous n'en avons pas abordé les points essentiels. En fait, je pense que les conditions n'étaient pas réunies. Je veux dire par là le fait que, compte tenu des circonstances, il était difficile de trouver la sérénité nécessaire pour engager un échange approfondi.
De retour en France, j'ai relu une nouvelle fois ta lettre. Ce qui a retenu d'emblée mon attention c'est l'« amour émouvant pour la vie » que tu as décelé sur le visage de tes amis norvégiens. Rétrospectivement, je pense que c'est cet amour pour la vie que j'ai ressenti chez les habitants d'Olmany avec qui nous cherchions ensemble des voies d'amélioration qui a motivé ma détermination, d'une part de poursuivre sans relâche mon engagement auprès des habitants des territoires affectés et, d'autre part, de partager cette expérience avec mes collègues de la communauté de la radioprotection.
Mais je dois ajouter que cette dimension de la vie ne s'est pas d'emblée imposée à moi. Ce n'est que progressivement qu'elle a émergé par le biais inattendu de la photographie. Lorsque l'équipe ETHOS finit par être adoptée par les habitants d'Olmany, une bonne année après le démarrage du projet, il m'arrivait parfois, pour me délasser après les longues journées de travail, de me promener seul avec mon appareil photo dans les rues du village ou sur les chemins conduisant aux étangs ou aux forêts qui l'encerclent. A ces occasions je croisais en chemin des villageois qui se laissaient volontiers prendre en photo, en particulier les personnes âgées qui souhaitaient avoir un portrait en prévision de leur décès. C'est une tradition biélorusse de mettre une photo des défunts sur les tombes. J'avais donc au fil des missions photographié de nombreux villageois et j'avais pris l'habitude de sonder leurs regards entre chaque mission. C'est dans ces regards que j'ai trouvés comme toi ce mélange d'inquiétude et d'amour de la vie que tu décris si bien dans ta lettre.
Je ne sais pas vraiment ce qui m'a poussé au cours de l'été 1998 a rassembler quelques une de mes photos et celle d'un collègue dans un petit livre qui en fait fut le premier témoignage sur le projet ETHOS. Je me souviens que cet été là je ne me sentais pas très en forme et que je n'ai pas participé à la mission trimestrielle de l'équipe. Peut-être était-ce pour être néanmoins dans le village que j'entrepris ce travail qui devait donner naissance plus tard à une exposition de photos qui a été présentée dans plusieurs villes en France. Par contre, ce dont je me souviens très bien, c'est d'avoir longuement hésité avant d'adopter le sous-titre du livre : « La vie dans les territoires contaminés par l'accident de Tchernobyl ». En proposant en effet au lecteur un tel sous-titre, il s'agissait d'un renversement complet de l'image jusque là véhiculée par les médias et le discours ambiant. Pour tout le monde, les habitants des territoires affectés étaient des victimes, condamnées à mourir à terme du fait de la radioactivité. L'idée que l'on puisse faire le choix de vivre dans ces territoires et d'avoir des projets pour l'avenir était pour le moins saugrenue pour beaucoup, voire « criminelle » pour certains. Les critiques n'ont d'ailleurs pas manquées. Néanmoins, en optant pour ce sous-titre, j'avais le sentiment profond de respecter le désir des villageois qui nous faisaient confiance et de me solidariser de façon encore plus indéfectible avec leur volonté de vivre une vie décente.
A propos des réactions concernant le livre de photos, je ne résiste pas à l'envie de te raconter une anecdote qui à l'époque fut pleine d'enseignements pour moi.
A la fin de chaque mission dans le district de Stolyn au cours du projet ETHOS nous avions pris l'habitude de rencontrer brièvement le Ministre des Situations d'Urgence et de Tchernobyl de l'époque pour l'informer sur les derniers développements du projet. C'est en effet ce Ministre qui, malgré un certain scepticisme quant aux chances de réussite, avait finalement donné son accord pour expérimenter la démarche d'implication des habitants que nous lui avions proposée. A chacune de ces rencontres j'admirais discrètement une grande toile du peintre Viktor Shmatov accrochée sur un mur du bureau ministériel. Il s'avère que je connaissais Shmatov que j'avais rencontré en 1996 à l'occasion de la Conférence Internationale sur Tchernobyl qui s'était tenu à Minsk pour le 10ème anniversaire de l'accident. Il avait exposé une série de toiles consacrées à Tchernobyl dans le hall de la conférence et j'avais acquis l'une d'entre elles intitulée 'La route vers la zone'. Nous avions par la suite gardé des contacts et il m'avait invité à plusieurs reprises dans son atelier où j'avais pu ainsi me familiariser avec son parcours et son œuvre.
La route vers la zone (The road to the Zone).
Etant natif de la région de Tchernobyl, après l'accident il avait consacré son énergie à peindre son ressenti face aux conséquences du désastre mais aussi à sauvegarder le patrimoine culturel de la zone interdite des 30 kilomètres. Il a entre autre fondé la section d'ethnographie et des arts populaires de la région de Chernobyl au sein du musée de la culture ancienne biélorusse. Shmatov est décédé en 2006 dans sa soixante dixième année. Tu as certainement admiré certains des tableaux qu'il a donnés au musée de Bragin lors de ton passage dans ce musée il y a déjà deux années.
La toile dans le bureau du Ministre représente la mère de l'artiste assise au crépuscule au bord d'une barrière délimitant la zone interdite avec en arrière plan la rivière Pripiat en contrebas. C'est une toile de facture très classique de laquelle émane un profond sentiment de tristesse et de solitude (l'autre face si j'ose dire de l'amour de la vie). Shmatov en a peint plusieurs versions avant et après l'accident.
Au cours de l'été 2001, comme après chaque séjour dans les territoires, nous avons rendu visite au Ministre pour l'informer, entre autre, des préparatifs du Séminaire que nous avions décidé d'organiser à Stolyn en fin d'année pour clore le projet ETHOS. Au passage nous lui avons fait part de notre intention de distribuer le livre de photos à l'ensemble des participants ainsi qu'aux villageois d'Olmany et nous lui en avons remis un exemplaire. Après avoir feuilleté le livre avec beaucoup d'intérêt et nous avoir demandé confirmation que les personnes figurant sur les photos seraient aussi invitées à participer au séminaire, il a demandé à se faire traduire le titre et le sous-titre du livre. Il s'est alors tourné vers nous et avec émotion nous a remercié d'avoir mis l'accent sur la vie. Comme nous prenions congé, je n'ai pu m'empêcher d'admirer le tableau de Shmatov et de dire au Ministre qu'il avait bien de la chance d'avoir une telle œuvre chaque jour sous son regard. Le Ministre m'a alors demandé si je connaissais Shmatov et après mes explications il nous a raconté l'anecdote suivante :
« Shamtov a été invité il y a quelques années en France à l'occasion d'une exposition consacrée à ses œuvres sur Tchernobyl. A son retour à Minsk il m'a demandé à être reçu pour me faire part de ses impressions et m'a présenté fièrement le catalogue de l'exposition. Je lui ai demandé comment cette dernière avait été intitulée et il m'a répondu : « Mourir à Tchernobyl ». Je lui ai alors dit d'un ton solennel : « Schmatov je vous interdis dorénavant de présenter vos œuvres à l'étranger !» ». Je pense qu'en formulant son interdit le Ministre ne visait pas la liberté de voyager à l'étranger du peintre, mais qu'il lui signifiait simplement son désaccord avec le message transmis par le titre de l'exposition. Je ne suis d'ailleurs pas sûr du tout que ce titre ait été choisi par Schmatov. Je vois plutôt un choix de l'organisateur de l'exposition en France associant inéluctablement Tchernobyl et la mort comme la grande majorité du public. Peu importe finalement si il fallait prendre au sérieux le ministre et si c'était Schmatov qui avait décidé du titre. En nous racontant cette anecdote, juste après avoir salué le titre du livre de photos, je pense que le Ministre voulaient souligner cette tension entre la mort et la vie qui se joue dans les territoires. Et il nous signifiait aussi sans ambiguïté qu'il se rangeait lui aussi du côté de la vie.
Indéniablement la catastrophe rappelle leur finitude à tous ceux qu'elle touche et elle les confronte brutalement à leur mort inéluctable. Cela joue certainement comme une empreinte qui s'inscrit profondément en chacun et il n'est évidemment pas facile de revenir du côté de la vie. C'est un peu comme le travail du deuil après la perte d'une personne proche. Je pense que la mesure de la radioactivité est un passage obligé pour objectiver la réalité de l'accident et aussi une condition nécessaire pour repasser du côté de la vie. Cela va de paire avec le retour d'une forme de sérénité et aussi la restauration de la dignité. C'est le sens de la démarche de Madame Helle, mais aussi de celle que tu as suscitée et accompagnée avec la communauté de Suetsugi.
Cette expérience est d'une extrême difficulté à transmettre et comme tu le soulignes seuls ceux qui l'ont déjà vécu sont vraiment en mesure de la partager. Tu peux imaginer l'obstacle à franchir dès lors que l'on se place dans la perspective de préparer des experts à un éventuel accident. Tous les collègues du projet ETHOS ont été confrontés à cette difficulté si bien qu'à force d'incompréhension l'équipe en avait conclu que pour faire comprendre ce qui est en jeu dans la situation post-accidentelle il n'y a finalement pas d'autres moyens que de confronter directement les experts intéressés à ceux qui on vécu cette situation et qui continuent à la vivre. C'est essentiellement pour cette raison que les experts de l'IRSN se succèdent dans les Dialogues.
A propos de la Norvège tu relèves qu'au Japon presque personne ne sait qu'une partie du pays a été durement touchée par les retombées de Tchernobyl. Mais c'est la même chose en Europe bien que nous soyons voisins. Personnellement je n'ai pris conscience de cette réalité que fin septembre 2003, soit 16 ans après l'accident! Ce fut à l'occasion d'un symposium international qui s'est tenu à Salzburg en Autriche. C'est Astrid que je rencontrais pour la première fois qui m'a appris le drame qu'avait vécu la nation Sami. Il ne nous a fallu que quelques échanges pour comprendre que nous partagions le même regard sur la situation post-accidentelle. Et c'est à partir de là qu'a démarré notre coopération que je peux qualifier d'exemplaire aussi bien en Norvège et en France, qu'en Biélorussie et maintenant à Fukushima.
Mais pour en revenir au peuple Sami, le destin de ce peuple est étonnamment lié à l'histoire de l'atome (comme le peuple japonais), d'abord avec les retombées radioactives des essais atomiques au cours de la guerre froide, et puis ensuite avec l'accident de Tchernobyl. A deux reprises au cours du XXème siècle il a donc été confronté à la radioactivité de façon significative. Peu de personnes savent en effet que le niveau de la contamination interne en césium 137 des samis du nord de la Norvège était au milieu des années soixante du même ordre de grandeur que la contamination chez les samis du sud après Tchernobyl à la fin des années quatre-vingt, soit plusieurs centaines de becquerels par kilogramme. Au passage, j'ai appris par hasard il y a quelques années seulement que le niveau de la charge corporelle totale des habitants de la région parisienne en césium 137 avait atteint 800 becquerels en 1965 l'année du pic de la contamination en France due aux retombées radioactives des essais nucléaires. Je pense que cette valeur est représentative de l'exposition moyenne qui affectait tout le pays et je n'ai donc pas échappé à cette contamination! A cette époque j'étais lycéen et personne dans mon entourage n'était conscient de la situation. C'était en fait l'époque du secret concernant tout ce qui touchait à l'atome.
Avant de prendre congé je voudrais encore te dire que l'épisode de cette brave dame de Suetsugi qui se fait du souci pour moi m'a fait beaucoup sourire mais aussi beaucoup touché. En lisant le passage de ta lettre qui relate cet épisode je me suis immédiatement remémoré la promenade que j'avais faite au lever du jour dans la vallée lors de ma 3ème visite début mars 2013. Cette nuit là, j'avais effectivement bénéficié de l'hospitalité de Shinya, mais encore sous le coup du décalage horaire, je m'étais réveillé à l'aurore et m'étais glissé discrètement dehors pour ne pas réveiller mes compagnons de chambrée. Plus tard j'avais retrouvé par hasard Jun sur un chemin en train de photographier les rizières dans la lumière matinale et puis nous avions marché longuement côte à côte en échangeant quelques mots. A notre retour vers la maison de Shinya, alors que le soleil voilé était déjà haut dans le ciel, peut-être avions-nous croisé cette brave dame sur le bord de la route...
Aujourd'hui le temps est froid et pluvieux et la brume hivernale ne s'est pas levée sur la région parisienne.
Au plaisir de te lire.
Bien cordialement.
Jacques
「(n)委員会〔国際放射線防護委員会=ICRP〕は今、行為と介入の従来の分類に置き換わる3つのタイプの被ばく状況を認識している。これら3つの被ばく状況は、すべての範囲の被ばく状況を網羅するよう意図されている。3つの被ばく状況は以下のとおりである。
● 計画被ばく状況。これは線源の計画的な導入と操業に伴う状況である。(このタイプの被ばく状況には、これまで行為として分類されてきた状況が含まれる。)
● 緊急時被ばく状況。これは計画的状況における操業中、又は悪意ある行動により発生するかもしれない、至急の注意を要する予期せぬ状況である。
● 現存被ばく状況。これは自然バックグラウンド放射線に起因する被ばく状況のように、管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する被ばく状況である。
(o)改訂された勧告では3つの重要な放射線防護原則が維持されている。正当化と最適化の原則は3タイプすべての被ばく状況に適用されるが、一方、線量限度の適用の原則は、計画被ばく状況の結果として、確実に受けると予想される線量に対してのみ適用される。これらの原則は以下のように定義される:
● 正当化の原則:放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は、害よりも便益が大となるべきである。
● 防護の最適化の原則:被ばくの生じる可能性、被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは、すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら、合理的に達成できる限り低く保つべきである。
● 線量限度の適用の原則:患者の医療被ばく以外の、計画被ばく状況における規制された線源からのいかなる個人の総線量も、委員会が特定する適切な限度を超えるべきでない」(ICRP Publ. 103(2007年勧告)総括、邦訳p.xvii-xviii)
詳しくは、同文書(2007年勧告)の「6.3. 現存被ばく状況」(邦訳pp.70-72)参照。
また、『ICRP111から考えたこと――福島で「現存被曝状況」を生きる』には分かりやすい解説がある。とくに「第1回」の「現存被曝状況」:被曝と暮らす日常」参照。 http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html
戦前・戦後を通じ日本の言論空間は、このように「アジア的なもの」と表面上は切り離されているようであっても、地政学的な条件も一因となって、そのつながりが完全に切れてしまうことはなかった。冷戦期のように中国大陸との国交が絶たれた時期においては、「アジア的なもの」とのつながりは通常はほぼ意識されないレベルにまで抑圧されるが、それでも大江健三郎のような鋭敏な感性を持った作家によって、あるいは文革のような特異な現象への注目を通じて、そのつながりは常に意識されてきた。そして、冷戦が終結し、中国との経済関係や人の往来が拡大し、中国の台頭が日本の安全保障上における言論の表層レベルにおいても、「アジア的なもの」を意識しつつ議論を展開することが避けられなくなりつつある。
それではこの「アジア的なもの」の本質とは何であろうか。単純化を恐れずに言ってしまえば、それはアカウンタビリティを通じた権力の抑制という契機を欠く、「単一権力社会」のあり方そのものということになる。例えば、アジア主義に転向した戦前のマルクス主義者のように「民権」の立場に立っていたはずがいつの間にか「国権」の側に立ってしまうという現象が、日本や中国の近代史においてありふれているのはなぜか。それは、恐らくアジア的な単一権力社会のもとでは、「民権」が「国権」から独立し、権力に対抗するに至るようなことは、原理的に不可能だというところからきている。その中で20世紀初頭に中国や日本で相次いだ食糧騒擾そうじょう(「米騒動」)のように生存権を求めて、あるいは義和団事件のように排外的なナショナリズムに駆られて、一時的に民衆の怒りが爆発したとしても*1、それは継続して権力と対峙する勢力、すなわち市民社会の担い手にはなりえない。
すでに述べたように、戦後日本社会は意識的あるいは表面的な制度のレベルでは欧米化されており、アジアとは切り離されているが、より深層においてはそうではない。確かに天皇制との関係から、日本では「単一権力」の行使は抑圧されてきた。だがその一方で、権力層において単一権力社会へ向かう誘惑は常に存続してきたのではないだろうか。そしてその誘惑が、皮肉なことに他者としてのアジア、すなわち中国や朝鮮半島との関わりの中で顕在化しつつある、というのが現在の安倍政権下で生じている現象ではないだろうか。
というのも、安倍政権こそ、戦後で最も「アジア的」な性格を持った政権だからである。こういうと、すぐに反論が来るかもしれない。すなわち、同政権は少なくとも政策上の「表の顔」は「米国との対等なパートナーシップ」の構築を求める、むしろ欧米などと同じ「普通の国」の道を志向する政権ではないのか、と。
しかし安倍政権は、日米同盟を外交の主軸に据える「表の顔」とは明らかに矛盾する側面を持っている。同政権は、その閣僚のほとんどが、「新しい歴史教科書をつくる会」などの母体として知られ、神社本庁や生長の家などの宗教団体関係者が多数参加している保守系団体日本会議の出身者で占められている。これら政権を支える議員達の少なからぬ部分が従軍慰安婦の存在に疑問を呈し、靖国への参拝にこだわり、さらには復古的な教育の推進を唱える、という構図は、海外から「右傾化」として受け止められても仕方のないものだといえよう。
このような安倍政権の「表の顔」と「裏の顔」を切り分けることができるという立場ももちろん存在するだろう。たとえば、日本政治思想史が専門の苅部直かるべただしは、「右傾化のまぼろし」という論考において、日本国憲法草案の国会審議において、当時貴族院議員を務めていた南原繁なんばらしげるによる、日本国憲法前文の「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という国際協調主義の原則に基づき、日本も集団安全保障の実行に加わるべきだという主張をとりあげ、国際協調の理念として集団的自衛権の問題を捉えなければならないことを説いている。
一方苅部は、海外から「右傾化」という批判が投げかけられる背景として、「反中」「反韓」言説やヘイトスピーチの横行に見られるような、社会における排外主義的な運動の存在があることを指摘している。その上で、集団的自衛権の問題も粗野なナショナリズムのムードを抑制しながら、日本が今後、どのように国際社会にかかわってゆくかという問題として真剣に取り組むべきだと主張している。これは言い換えれば、日本政府は自らが「第Ⅱ象限」ではなく、「第Ⅰ象限」にあることをもう少し明確にせよ、という立場だといえるだろう。
しかし、そこでどうしても想起せざるを得ないのが、2012年の民主党政権末期に公表された自民党の憲法草案である。例えば現行の憲法は「国民の義務」をほとんど記していないが、自民党の草案では「家族は互いに助け合わなければならない」といった国民の私的な生活に立ち入るものも含め、国民に対する義務的な要請が数多く記されている。このような憲法における「国民の義務」の濫発は、むしろは中華人民共和国憲法その他の社会主義国憲法、すなわち近代的な立憲主義をとっていない国家における憲法のあり方を連想させるものである。確かに2012年の自民党の憲法草案に沿った主張は、安倍政権の成立後、その閣僚などによって表立って主張されることはない。しかし、その内容を完全に忘れ去ってしまうには、草案が公表されたときの印象はあまりに強烈であった。
さて、改憲/護憲が一つの対立軸となっている現在の日本の言論状況を、柄谷が示した図の改訂バージョンで示すと、図2のようになるのではないだろうか。
この図において、実線で示した枠が改憲派(I)、護憲派(IV)それぞれの自己イメージ、破線で示した枠は対立する相手に関するイメージを表わす。すなわち、集団的自衛権を容認し、将来の改憲を目指す人々は、自らはIの範囲で言論活動を行っていると認識し、対立する護憲派の平和主義は対中融和の姿勢と不可避だと見なしている。それに対しIVの枠内にとどまって議論を行っていると自認する護憲派は、改憲派こそIIの枠内、すなわち排他的な国家主義と一体になっていると見なしている。つまり、どちらもその自己・他者イメージが食い違ったまま議論を行っているのである。
苅部直と細谷雄一は、『週刊読書人』の対談の中で、現在の論壇において特定秘密保護法案や集団的自衛権の評価をめぐって二極化が進んでおり、かつての冷戦期において坂本義和氏と高坂正堯氏の間で行われたような、リアリズムを踏まえた上での生産的な対話が成立していないと指摘している(苅部・細谷、2014)。恐らくその齟齬そごは次のような「ねじれ」から来ているのではないだろうか。すなわち、今日の日本は経済面でも政治・外交面でも冷戦期に比べて格段に「アジア」への関わりを深め、アジアとの関係を抜きにしては議論を進められない状態にある。にもかかわらず、改憲・護憲いずれの陣営も、自らの立場と「アジア」との関係を主体的に認識することができず、反対する陣営に「アジア」的なものを属性として貼り付け、その仮構された「アジア」性を互いに攻撃し合っているのが現状である。このようなねじれた状況から、そもそも生産的な議論が生まれるはずはない。ここから抜け出るためには、まず自らの立っている位置がいかに「アジア」との相互関係により深い影響を受けているのか、正しく認識するところから始めるしかないのではないだろうか。
いずれにせよ、アジアあるいは非欧米社会において「近代」化の問題を論じることには固有の難しさが伴わざるを得ない。それは、現代からみて「より近い過去」という時間軸の中に位置づけられる概念であると同時に、「モダン」として抽象化された理念型としての側面も持つからである。前者の意味で捉えれば日本でも中国でも近代化(=前近代からの政治・経済的な離陸)はすでに過ぎ去った問題としてしか意味を持たないし、後者はハーバマスの表現を借りるならば「未完のプロジェクト」として、今なおアクチュアルな意味を持つ。
そして、日本にとって近隣のアジアの国々、なかんずく中国や韓国との関係を考えるとき、問題はより一層複雑化する。近隣諸国における近代化のプロジェクトは、互いに影響を与え合うからである。言うまでもないが、ここで「影響を与え合う」とは、必ずしも「モダン」という理念型に向けて手に手を取りながら進んでいく、ということを意味しない。むしろ互いに足を引っ張り合い、反動的な方向に進んでいくということもありうる。領土問題などで緊張関係が高まれば高まるほど、「強い国家」への期待が高まる傾向にある日中や日韓の現状は、残念ながら相互に足を引っ張りあう典型的なケースと考えて良さそうだ。
いずれにせよ、「未完のプロジェクト」としての近代化は国民国家の枠内で閉じるものでなく、むしろ隣接あるいは関係する国家間で相互に影響を与えつつ進行する。特に近代化において国家がその強力な推進主体になりがちなアジアでは、一方でナショナリズムのぶつかり合いを通じて、国家自身が法の支配や政府の説明責任といった近代的価値観の阻害要因として働きがちだという矛盾を常に抱えている。現在の東アジア情勢が一種の膠着こうちゃく状態に陥っているのは、まさにこのような矛盾によって、近代的な価値観の多元性を前提とした問題解決の方法が機能不全に陥っているからではないだろうか。
この状況を打破するためには、個々の国家がばらばらに取り組むだけでは限界があることは明らかであり、どうしても隣国同志が、「同時に」歩を進める必要があるのではないだろうか。そして、そのためのヒントになるような経験は、実は戦後日本の歩みの中に隠されているのかも知れない。たとえば、日本の戦争体験は、多くの日本人の中に伝統的な国家安全保障の思想に対する潜在的な懐疑の念を植え付けた。遠藤誠司の言葉を借りれば、敗戦の体験は、「民主主義に基礎をおかない政治体制が国家の安全を追求する際に起こる「体制の安全保障」と「国民の安全保障」の乖離」を国民に強く体感させるものだったからである(遠藤=遠藤、2014)。だからこそ「戦後の日本では、国家の安全と国民の安全を安易に同一視する議論に対して厳しい批判的姿勢が維持されてきた」のである。この姿勢は、安全保障の対象を国家から個々の人間に取り戻す、いわゆる「人間の安全保障(Human Security)」論を明らかに先取りしたものであった。
だが、残念ながら戦後日本は、自国の中で成し遂げられた「国家中心から人間中心へ」という一種のパラダイムシフトを、隣国に伝播でんぱさせていくことに非力でありすぎた。このため遠藤らも指摘するように、現在では、中国の台頭と米国の地位の相対的低下がもたらした東アジア域内の「パワーシフト」を背景に、日本が自ら国家安全保障を前面に出すようになっているのが現状である。幸いにして、中華圏においても「国家中心から人間中心へ」社会のあり方を見直そうとする人々の言論活動や直接行動は、たとえ政府当局の厳しい弾圧にあっても決してやむことなく存続している。そういった人々の声や行動にどう向き合っていくのか。戦後日本の平和主義の歩みを本気で尊重しようとする人々にとって、これまでになくその課題が重く突きつけられていると言ってよいだろう。(了)
内田樹(2014)『街場の戦争論』ミシマ社
遠藤誠司・遠藤乾責任編集(2014)『シリーズ日本の安全保障1:安全保障とは何か』岩波書店
加々美光行(2007)『鏡の中の日本と中国――中国学とコ・ビヘイビオリズムの視座』日本評論社
柄谷行人(1995)『終焉をめぐって』講談社学術文庫
柄谷行人(2014)『遊動論――柳田国男と山人』文春新書
柄谷行人(2013)『柳田国男論』インスクリプト
柄谷行人(2014)『帝国の構造――中心・周辺・亜周辺』青土社
苅部直(2014)「右傾化のまぼろし-現代日本にみる国際主義と排外主義」nippon.com(http://www.nippon.com/ja/in-depth/a03201/)
苅部直・細谷雄一(2014)「八月十五日に日本の安全保障を考える」『週刊読書人』8月15日号
金野純(2008)『中国社会と大衆動員――毛沢東時代の政治権力と民衆』御茶の水書房
徐友漁・鈴木賢・遠藤乾・川島真・石井知章(2013)『文化大革命の遺制と闘う――徐友漁と中国のリベラリズム』社会評論社
代田智明(2011)『現代中国とモダニティ-蝙蝠のポレミーク』三重大学出版会
野沢豊編(1971)『「中国統一化」論争資料集』アジア経済研究所
福本勝清(2012)「やわらかな「水の理論」の世界その1:「水の理論」への柔軟なアプローチ」電子礫・蒼蒼第49号
吉越弘泰(2005)『威風と頽唐――中国文化大革命の政治言語』太田出版
ただし、これは柄谷一人の責任に帰せられる問題ではないのかも知れない。僕自身、このような左派系知識人の中国認識の「混乱」についてより深く捉えるためには、戦後日本の知識人が他者としての「中国」をどのように体験したか、なかんずく「文革」をどのように体験し、それに向き合ってきたか、という点を掘り下げていく必要があるように感じている。
これはやや唐突な印象を与えたかも知れない。このテーマを持ち出したのは、一つには近年研究者の間で「文革」を前近代(プレモダン)の遺物と捉えるか、それとも近代性(モダニティ)の産物と捉えるかということで生じていた論争が念頭にあったからだ*1。ここでこの論争に立ち入ることは差し控えるが、そこで問われていることを起点にして日中のモダニティ、あるいは「近代化」をめぐる議論の盲点のようなものが明らかにできるのではないか、と考えたのである。
さて、そもそも「文革」とはなんであったか。政治闘争としての文革を説明するなら、おおむね次のようにまとめられるであろう。すなわち、それは「大躍進政策*2の失政によって政権中枢から外れていた毛沢東らが、中国共産党指導部内の「実権派」による修正主義の伸長に対して、自身の復権を画策して引き起こした大規模な権力闘争(内部クーデター)」である、というふうに。
だが、政治運動として「文革」をみるとき、それは何よりも、統治に不満を抱いた都市民が暴力を伴う大衆運動に動員され、その「多数の力」で政治を動かした現象として捉えなければならないだろう。その後の研究により、文革が生じた背景には、階級対立を根絶したはずの毛沢東時代の中国にはびこる様々な格差や矛盾の存在があり、それに対する民衆の不満が、暴力的な形で噴出したものであることが明らかになってきたからである。
例えば、文革の「政治言語」の特徴に注目してその分析を行った吉越弘泰は、それまでの共産党の統治下で地主や富農、反革命分子の子弟など、「出身が悪い(出身不好)」として低い地位に置かれ、鬱屈うっくつした思いを抱いていた人々が、文革の政治運動の中で一種の解放感を覚えたことに触れ、「毛沢東や中央文革などの文章やアジテーションが「出身不好」の造反派紅衛兵をはじめ当時の共産党統治に抑圧感を感じていた者たちにとって圧倒的な解放の言語経験であった」と述べている(吉越、2005)。
また、金野純は、このようなさまざまな社会矛盾を押し隠すものとしての「大衆動員」に注目しつつ、毛沢東時代の中国における社会変動を説明しようとしている(金野、2008)。金野によれば、中華人民共和国の建国後、初期の大衆動員は、「企業丸抱え社会」を通じた都市住民への利益誘導と、イデオロギー教育を通じて、共産党政権を磐石にすることを目標にして行われてきた。
しかし、大躍進政策の失敗後、中国共産党は、次第に各職場において外部から派遣されたメンバーによる「工作隊」を組織し、それを既存の組織系統の上におく、というやり方積極的に用いるようになった。これは、大躍進政策の失敗がもたらした共産党による統治の正当性の危機にあたって、革命初期の農村解放区における大衆動員の方法に近いやり方が、都市に対しても適用されるようになったことを意味する。そして、文化大革命こそ、そのような「農村タイプの大衆動員」が全面的に展開された事例にほかならなかった。
このことは、文革期に先立つ中国社会の大きな変化として「都市の農村化」ともいうべき現象が進行していたことを示唆するものである。そもそも都市住民は、社会の近代化の過程において、国家に対して一定の発言力を持つ中間層の核を形成していくはずである。しかし、「都市の農村化」が進むということは、都市住民の中でも「農民」あるいは「生民(生存を天に依拠する民。連載第2回参照)」的なメンタリティ、すなわち、基本的に権力のあり方に無関心な人々が優勢になることを意味する。言い換えれば、「天命」を体現したと考えられる、絶対的な正義=毛沢東の権威を借りることで、目の前の抑圧装置=官僚機構を破壊してしまおう、それこそが正義にかなうのだ、という衝動が都市を含めた社会全体を覆うことになる。その経験を通じて「出身の悪い」者を中心とした共産党の統治に抑圧を感じていた都市住民は、つかの間の「解放感」を味わい、その解放感こそがその後の暴力の連鎖を生みだした、と言えるかもしれない。
この連載の第2回でも述べたように、中国社会は統治において「道義的な正統性」が大きく重視される社会である。すなわち、ある政治的な行動に対して判断が下される際に、一種の道義的な理念、すなわち「正義」があるかどうか、それが「道理」にかなっているのか、という基準が参照されがちである。
中国社会では、伝統的に民衆が政治に不満を持って非常に苦しい状態で立ち上がることを「正義」としてとらえる傾向が存在する。問題は、その際に暴力を振るうことも含めて「正義」だととらえられるのかどうか、ということである。すなわち、「目的や理念が正しいならば罰せられるべきではない」と考えるのか、「目的が正しくても、法に触れれば罰せられるべきだ」と考えるのか。前者の考え方は言うまでもなく近代的な「法による支配」の概念とは相容れない。程度の差こそあれ、このような考えを肯定するのかどうかが、近代的な人権思想に依拠する右派と、人権に対する国家の優位を主張する左派との対立にもつながってくる。
重要なのは、単一権力社会のもとでは、抑圧的な統治に対して立ち上がったはずの民衆の暴力は、往々にしてそのときの権力によって政治的に利用され、結果的に統治を強化する働きを持ってしまう、という点である。当時の共産党による統治に何らかの形で不満を抱く都市の民衆の暴力が、毛沢東により「正義」と認定され、共産党内における敵対勢力一掃に利用された文化大革命は、その典型的な事例であろう。
また現代においても、中国社会における大衆行動と暴力が切り離せないことは2012年の尖閣諸島の領有権をめぐる日中間の摩擦の中で生じた民衆の暴動で明らかになったといえよう。中国社会において暴力を伴わない民衆の直接行動は可能か、という問題は、「文革なるもの」を乗り越え市民社会をつくることができるか、という問題とほぼ重なり合っているのだ。
中国社会において「文革なるもの」をいかに乗り越えるか、という論点が、今もなお現代中国の知識人にとってアクチュアルな論点の一つになっていることには、このような背景がある。たとえば、中国を代表するリベラル派の知識人である徐友漁じょゆうりょうは、その名も、『文化大革命の遺制と闘う』と題した書物の中で、大衆動員的な政治手法によって左派的な「重慶モデル」を推し進めようとした薄熙来はくきらいを文革期の専制的な政治を復活させようと目論んでいるとして厳しく批判している(徐ほか、2013)。徐のようなリベラルな右派にすれば、文革はそれこそ前近代的なものの象徴でありであり、中国が近代的な市民社会を目指す上で必ず乗り越えなければならない「遺制」なのである。
一方、1960年代後半の日本においても少なくない研究者・知識人が文化大革命を支持し、文革批判派との間に深刻な政治的な対立が生じたことはよく知られている。その背景には、もちろん情報の不足による状況把握の困難さもあるだろう。しかし、事情はもう少し複雑である。たとえば、日本において文革を評価した研究者や文化人の多くが、文革という大衆動員による社会変革を目指す運動のありかたに、公害・薬害・教育の荒廃など、後期近代特有の様々な問題を抱えた日本社会における閉塞観とその乗り越えの可能性を積極的に見出していったことが指摘されている。すなわち、加々美かがみ光行の言葉を借りれば、「あくまで文革の理念をもって逆に日本社会の病弊を批判することを通じて、日本の変革をめざし、また、それを通じて中国に対する日本の関わりのありようの変革をめざす」という目的意識が働いていたのである(加々美、2007)。
今日的な視点から見れば、すでに高度経済成長を経験し、後期近代へと移行しつつあった日本に、前近代的な色彩に彩られた文革を支持する知識人層がかなりの程度存在したことは、驚くべき事に思えるかも知れない。だが、それは所詮後知恵というものであり、次のように考えればそれは少しも不思議な現象ではないだろう。例えば、毛沢東思想を「前近代的」の文脈で語ることは当時は全く一般的ではなく、むしろ対米自立(米帝打倒)の先達に見えたはずだ。また、「既成の官僚機構」を容赦なく破壊し尽くす文革のパワー=暴力も、大規模な学生運動によっても社会変革の具体的な道筋は見えず、焦燥感と閉塞感が交錯する後期近代の日本、という文脈においてこそ、むしろ輝きを持って受け止められたという側面があるのではないだろうか。
その姿勢は、戦前に講座派マルクス主義から大アジア主義に転向していった知識人たちの思考と、ちょうど裏表のような関係にある。単純化してしまえば、アジア主義に転向したマルクス主義者は、日本の前近代性を変革することをいったん諦めて、「より遅れた」中国大陸への介入に活路を見出そうとした。それに対して、文革を肯定した学者・ジャーナリスト・活動家、なかんずく中国との関わりが深かった人々は、むしろ激しく変化する中国の現実を「より進んだ」ものとして肯定し、そこに日本社会の変革の方向性を見出そうとしたのだといえる。
しかし、文革の経験は、それが実行に移された時には、つまり「言語化」されたときには、前回の連載でふれた柄谷による四象限の概念図を援用すれば、きわめて暴力的で専制的な「第Ⅱ象限」の現象として現れるしかなかった。戦前日本のアジア主義が観念的なレベルでは「第Ⅲ象限」に位置しながら、それが実行に移されるときには帝国主義的な侵略としてあらわれざるを得なかったのと同じように、である。
また、日本国内においてこのような「中国社会の近代性」が議論される際には、また別の問題が頭をもたげることになる。すでに述べたように、もともと日本社会と西洋的な近代社会との異質性にこだわる講座派的な視点が、「アジア」という西洋以外の他者に対して用いられるとき、容易に帝国主義的な侵略の思想に転化してしまうという問題があるからである。言い換えれば、日本と中国の現実に対峙するものにとって、日本社会を果たして「前近代的なもの」を乗り越えた、真に近代的な社会と規定してよいのか、という問題が常に突きつけられてきた、と言ってよい。いずれにせよ、そこで問われているのは、日本社会と「アジア的なもの」の関わりをどう考えるのか、という古くて新しい問題である。