第6回 現存被曝状況*から、現存被曝状況へ entre deux situations d'exposition existante

ジャック・ロシャール/安東量子
Ryoko Ando et Jacques Lochard
親愛なるジャック
 あわただしかったダイアログセミナーとその後のいくつかの行事も終わり、一息ついて見渡せば、日本では梅雨も終わり、夏本番です。この時期、ヤマユリが豊かな香りを放って、いつもの夕暮れの散歩道をいろどってくれます。

 広島に育った私にとって、この季節は、子供の頃から「あの日」が近づいてくることを感じさせる時期でもありました。8月6日、広島に原爆が落とされた日です。身内に被爆者がいない私のような人間にとっても、その日は、特別な一日でした。投下時間の午前8時15分にあわせて鳴り響くサイレン、そして、黙祷もくとう。私は、空を見上げていたことの方が多かった気がします。夏の盛り、雲ひとつない青い空に、あるはずのない半世紀近く以上前の機影きえいを透かし見ようと、蝉の声だけが鳴り響く静けさの中で、目をらしていました。

 私の両親は広島出身ではありませんでしたから、私が知る広島は、常に「原爆後」でした。戦前の広島は、原爆で焼けてなくなってしまった、それ以上考えることはなく、そういう自分に疑問を抱くこともなく、育ってきました。その不思議さに私が気づいたのは、大学進学をきっかけに、広島県外で暮らすようになってからでした。最初は、ぼんやりとした違和感でしたが、ある時に、驚きと共にはっきりと気づいたのでした。どの街にも、建築物の建て替わりが激しい東京にさえも、戦前の街並みが存在し、文化を伝える人がいて、老舗しにせと呼ばれる店があるのに、広島の街中には存在しない! 自分が当たり前のものと思ってきた都市が、当たり前ではなかった、そう気づいてから、私は、当たり前であったはずの広島、つまり、原爆が投下されなかった広島を思い浮かべようと、しばしば努めました。原爆が投下されなければ、戦前の広島と戦後の広島は、他の多くの都市がそうであるように歴史をつなぎ続けたのでしょう。歴史を繋ぐとは、文化を繋ぐこと、文化は人が伝えるもの、だから、歴史が途切れたとは、文化が途切れ、文化を伝えるべき人がいなくなったということ。広島から消えた最大のものは、街並みでも店でも風景でもなく、人であったのではないか。私の中に立ち上がってきたのは、人の不在でした。そう気づいて、自分が当たり前に暮らしてきた街を見渡してみると、今では平常そのものとなっている街の足下に、穏やかな日常のさざめきがそこで唐突に消え失せてしまう場所が潜んでいて、それは、あたかも巨大な不在が口を広げているかのように感じられました。その時、私は、原爆によって広島が失ったものの端緒を掴んだような気がしました。

 ちょうどその頃、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』を手にしました。私が感じた巨大な不在と、『ヒロシマ・ノート』に描かれた被爆者の「尊厳」は、ついをなしているかのように思えました。大江が描く被爆者の足下には、巨大な不在が広がっている、と私は感じられました。しかし、それは、著書の中で直接的に語られてはおらず、大江の視線の焦点のほとんどは、原爆後に向けられていましたね。

 私は、他のほとんどの広島の子供がそうであったように、学校の課外学習として、何度となく被爆者の体験談を聞きながら、あるいは、読みながら、育ちました。けれど、それは、『ヒロシマ・ノート』同様、原爆投下後の広島と被爆者の経験についてでした。私が話を聞いたときは、『ヒロシマ・ノート』が書かれた時期(1965年)からさらに時が経過し、原爆投下後半世紀近く経ていましたから、体験の生々しさも薄れ、子供心に、この体験談は、とっくに終わった過去の物語なのだと感じられていたほどでした。

 けれど、本当は、その物語は完結していなかった。私が聞いた「物語」の奥には、多くの語られなかった物語があり、それらは、今も、生々しい不在をたたえている。あの頃の自分の戸惑とまどいを、今も鮮明に思い出すことができます。

 その頃、私のうちに湧き上がってきたのは、不在となってしまった人々の尊厳についての疑問でした。一瞬のうちに、その存在を一顧いっこだにされぬうちに消し去られてしまった人々の尊厳は、どこにあるのだろう?

 この問いに対する私の考えを語る前に、少し遠回りをしていいでしょうか。

 私は、2年間ほど、福島の中でも、多くの人は馴染みが薄いであろう、山間の小さな集落に住んだことがあります。戦中戦後のエネルギー事情がよくない時に、燃料用の薪炭しんたんを生産するために人が移り住んできたという、開拓集落でした。美しい阿武隈あぶくま高原の集落の中でも、とりわけ美しい場所でした。真冬の、寒さの厳しい時期の明け方には、杉の幹が凍結して裂ける音が遠く聞こえ、そんな日には木の枝が凍り輝く樹氷を見ることができました。冬の薄い朝日を受けて輝くその姿は、この世のものとは思えないと、地元の人でさえ口を揃えるような場所でした。けれど、自然の美しさは、生活の厳しさと引き替えでもありました。その集落に電気が通ったのは、日本でも最も遅い時期になる1959年でした。なぜ、ごく短い期間、仮住まいしただけの私がそんなことを知っているのかと言うと、その集落のその年生まれの人たちは、「光二」「照男」というように、皆、「明かり」を意味する漢字を名前に付けていたからです。

 その集落でのお年寄りの暮らし方は、いまだに電気が通る前の生活を引き継いだものでした。冬の暖房は炭火の炬燵こたつで取り、それ以外は石油ストーブがあるばかり、日の出とともに働き、日没とともに家に帰る。米と野菜は自給自足、春の山菜や秋のキノコ、渓流のヤマメやイワナを堪能たんのうする、そんな暮らしぶりの人たちがいました。

 その中に、開拓者として親の世代に移り住んできたというお婆さんがいました。彼女が子供の頃には、あたりは一面山林、田畑もなく、木を切り倒して、根を起こしては耕作に適した土地にすると言う、気の遠くなるような開墾かいこん作業を続けていたそうです。野菜を育てる畑は、比較的容易にできました。けれど、水路を必要とする田は、近くの川の流れを変える必要があったため、なかなかできませんでした。それでも、どうしても米が食べたかったお婆さんの兄は、仕事の合間を使って、川の流れを変えるという作業を続けました。重機のない時代、すべて手作業です。苦労の末、難工事は成功し、田に水を引くことができるように流れを変えることができました。ところが、その直後、彼女の兄は倒れ、そのまま亡くなってしまったのだそうです。

 その話を彼女がしていた時、私たちの視線の向こうには、まさに、その水路と田がありました。彼女の兄が苦労して流れを変えたそのままの姿で。お婆さんは、田と水路を眺めながら「死んじまったわ。つまんない人生だったわ」と、視線をこちらに向けもしないで、素っ気なく言いました。

 この話を聞いた当時、その田には、彼女と彼女の夫が毎年米を作り続けていました。これからの秋の時期になれば、色づいた田で、老夫婦がふたりで稲を収穫し、天日に干す作業をしている様子が見られました。光を受けて、黄金色に輝く田で作業する老夫婦の姿は、印象派の絵画を眺めるようでした。

 とある時、その集落での景色を眺めながら、気づいたのでした。ここでは、彼らが暮らすどの場所も、ただの土地というものはなく、それぞれの来歴が、そこで生きてきた人の名、それから暮らしと共に刻み込まれているのだと。外から来た多くの人は、その場所の澄み切った夜空にきらめく星が美しいことや、自然の豊かさをめました。けれど、私にとっては、それよりもなによりも、この場所に生きてきた人たちが自然と共に織りなしてきた暮らし、そして、作り上げてきた景観こそが、なにより価値あるものと思えました。

 彼らにとっては、ここでの暮らしは自分たちが作り上げてきた歴史そのものでした。時の経過とともに少しずつ、時には大きく変化しながら、織りなされてきた暮らしは、彼らの人生と不可分でした。それは、人生そのもの、彼らにとっての、尊厳そのものである、と、私は感じたのでした。

 その場所は、歴史が長くない開拓集落という場所であったため、暮らしと尊厳の関係がわかりやすい形であらわれていました。けれど、これは、大抵の多くの人にとっても同じなのではないでしょうか。暮らしを築くということは、誰にとっても、自分の歴史を、人生を築くということであり、一人一人の尊厳と呼ぶにふさわしいものではないでしょうか。

 そうして、話をふたたび広島に戻します。この集落での暮らしを経て、私は、広島で奪われたもの、私が感じた巨大な不在について、実感をもって理解したのでした。広島では、人々が築き上げてきた歴史、書物に記されたものだけではなく、ひとつひとつの暮らしの総体としての歴史がまるごと、その痕跡さえ残さずに奪われてしまったのでした。そのことに気づいた時に、私は、言葉を失いました。大江が描いた被爆者の足下に広がる不在は、私たちの日常とはまったく質を異にするものであるように思えました。それを受けとめ、理解する、それだけで、非常な困難を来す、日常からの深い断裂を孕んだものであると感じられたのでした。それは、私が子供の頃に聞いた、それが彼らにとって当たり前の人生の一部であるかのように語られる、穏やかささえ帯びた被爆者の体験談とのすさまじい乖離かいりがあり、自分の中で、どのように整理すればいいのか、わかりませんでした。いまでも、わからないままです。

 福島で事故が起きた時に、私がひどく動顛どうてんしたのは、ここでの暮らしが根こそぎ奪われる未来を予期したからでした。そのことは、前便で書きました。

 あなたは先のお手紙で、広島と福島の相違について書いていましたね。私は、広島、チェルノブイリ、福島で、もたらされた災厄に共通点があるとしたら、私たちが通常意識することのない、けれど、暮らしを根っこのところで支えているあらゆるつながりからの「断裂」なのだろうと思うのです。今日の次に同じような明日が、その次には似たような明後日が来る、という時間の連続、そして、過去との繋がりを信じられる感覚、あるいは、この道を曲がれば隣には、同じような、けれど少し違う次の集落がある、といった、感覚を共有できる暮らしや、隣人を信じられる、ごく素朴な私たちの日常を支える感覚は、引き裂かれました。原爆投下、また、福島第一原発事故という事象そのものによって、ついで、あなたが書いたように、五感で関知できない、それゆえに、共有することがとても難しいという放射能の性質によって、断裂はさらに深く、大きなものにされました。そして、だからこそ、回復のために、私たちは、ひとたび引き裂かれたものを、ふたたびつなぎ直す必要があるのだと思うのです。

 あなたのお手紙にあった、ガリーナの誇りに満ちた顔を、想像することができます。恐らく、そのプロセスを知らない人にとっては、元あったものを、再び取り返した、それだけのことでしょう。言葉にしてしまえば、ただの1行で終わる、出来事とも呼べない、ささやかな変化です。けれど、そこで成し遂げられたのは、事故によって引き裂かれた自分たちの暮らしを自分の手で再び繋ぎ直す、という困難な作業です。私は、ガリーナと同じ表情を、末続すえつぎの人たちの顔に見て取る時があります。これまで自家野菜の話をしていても「そんなに(セシウムは)出ないとは思うんだけれど、向こうが嫌がるとねえ」と、どこか自信なさげにしていた女性が、集会所の測定に持ってきて測った後、子供のところに送るのだと、ご近所の女性と会話していました。向こうが嫌がらないかしら、と言うもう一人の女性の言葉に対して、彼女は自信満々に断言しました。「大丈夫よ、測って大丈夫だったんだもの!こんなに美味しいんだもの!」それは、きっと、私が知らない、震災前の彼女の快活さそのままの調子で語られた言葉だったでしょう。彼女もまた、つなぎ直したのです。事故前と事故後の自分の時間を、そして、自分と子供達の関係を。おそらく、失えば、そこには、巨大な不在が広がるのみだったでしょう。

 グスコヴァ氏とイグナチェンコについても思うのです。私は、グスコヴァ氏と共にチェルノブイリ事故の対応にあたったL. A. イリーンの本の中に、グスコヴァ氏が第6病院で、イグナチェンコをはじめとする消防士達の治療にあたったという記述を見つけました。イリーンは、グスコヴァ氏と病院のスタッフがいかに献身的に治療にあたったか、治療が不可能であるとわかった時に、苦痛をやわらげるために最大限の努力を払ったことを記していました。その記述を読んだとき、私は大きく救われた気がしました。なぜ、自分がそのように感じたのか、自分でも掴めないでいたのですが、いま、わかりました。あの事故において、もっとも悲劇的な形で一切から「断裂」されることとなった消防士達にとって、そこで、差し向けられた彼らを救うための懸命の努力が、彼らに残された数少ない「つなぎ直し」であるかのように、私には感じられたのだと思います。その努力が、唯一、彼らの尊厳を保ち続けるための、深く暗い不在の闇の中で差し向けられた一条の光であった、という表現は、あまりに感傷的すぎるでしょうか。

 福島の事故後、国が定めた基準は、あなたが4番目の手紙(「渡し舟の上で」第5回を参照) で触れて下さった私の発表〔*1〕で言及したように、すべて、この断裂をさらに、手が付けられないほどに深める結果をもたらしました。これについては、また手紙を改めますね。

 けれど、ひとつだけ、ICRP111〔*2〕で記載されている、長期目標としての1mSv/y〔*3〕だけは、まったく逆の「つなぎ直し」を目指しているということだけは書いておきますね。平常の基準が1mSv/yであるならば、長期的、段階的にそれを目指す、被災地の外が1mSv/yであるならば、被災地も同じようにやがては1mSv/yを目指す、この考え方は、事故後、政府が定めたあらゆる基準とはまったく異なりました。事故前と事故後、被災地外と被災地、双方を繋ぎ直すことを意識して考えられている、と私は思いました。私たちは、誰だって、心の奥底では、事故前と同じ環境に戻り、暮らすことを望んでいます。私も、そうです。いつかは、事故前と同じような環境に戻る日が来る、暮らせる日が来る、それが可能であるかどうかは別として、そう願い続ける権利くらいは持っていてもいいでしょう? 1mSv/yは、そんな私の、そして、きっと同じように願っていたに違いないブラギンの人たちの思いを強く肯定してくれているように思えたのでした。

 ここのところ、日本はひどい暑さで、なにもかにもがだるくて、すっかりお返事も遅れてしまいました。書いているうちにヤマユリも終わり、もうすぐ、秋の花が咲き始めます。広島の原爆の日を前に。次のあなたのお返事を読むときには、涼しい風が吹いていることを祈りながら。

2015年8月5日

安東量子

編集部註
〔*〕現存被ばく状況 [Existing exposure situation]: 「自然バックグラウンド放射線やICRP勧告の範囲外で実施されていた過去の行為の残留物などを含む、管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する状況」 ("ICRP Publ. 103, The 2007 Recommendations of the International Commission on Radiological Protection"(2007年勧告)邦訳の用語解説、G4 http://www.icrp.org/docs/P103_Japanese.pdf

「(n)委員会〔国際放射線防護委員会=ICRP〕は今、行為と介入の従来の分類に置き換わる3つのタイプの被ばく状況を認識している。これら3つの被ばく状況は、すべての範囲の被ばく状況を網羅するよう意図されている。3つの被ばく状況は以下のとおりである。

● 計画被ばく状況。これは線源の計画的な導入と操業に伴う状況である。(このタイプの被ばく状況には、これまで行為として分類されてきた状況が含まれる。)
● 緊急時被ばく状況。これは計画的状況における操業中、又は悪意ある行動により発生するかもしれない、至急の注意を要する予期せぬ状況である。
● 現存被ばく状況。これは自然バックグラウンド放射線に起因する被ばく状況のように、管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する被ばく状況である。

(o)改訂された勧告では3つの重要な放射線防護原則が維持されている。正当化と最適化の原則は3タイプすべての被ばく状況に適用されるが、一方、線量限度の適用の原則は、計画被ばく状況の結果として、確実に受けると予想される線量に対してのみ適用される。これらの原則は以下のように定義される:

● 正当化の原則:放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は、害よりも便益が大となるべきである。
● 防護の最適化の原則:被ばくの生じる可能性、被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは、すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら、合理的に達成できる限り低く保つべきである。
● 線量限度の適用の原則:患者の医療被ばく以外の、計画被ばく状況における規制された線源からのいかなる個人の総線量も、委員会が特定する適切な限度を超えるべきでない」(ICRP Publ. 103(2007年勧告)総括、邦訳p.xvii-xviii)

詳しくは、同文書(2007年勧告)の「6.3. 現存被ばく状況」(邦訳pp.70-72)参照。

また、『ICRP111から考えたこと――福島で「現存被曝状況」を生きる』には分かりやすい解説がある。とくに「第1回」の「現存被曝状況」:被曝と暮らす日常」参照。
http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html


〔*1〕 ICRP(国際放射線防護委員会)の「Supporting Task Group 94」による「Workshops on the Ethics of the System of Radiological Protection」での発表。
http://www.icrp.org/page.asp?id=237
このページの「2nd Asian Workshop: Jointly organised by Fukushima Medical University Fukushima and ICRP, Fukushima, Japan, June 2015」に、安東さんの発表概要がある(PDF、英文)


〔*2〕ICRP111: ICRP(国際放射線防護委員会)によって2009年に刊行された勧告で、通称「ICRP Publication 111」あるいは「ICRP 111」。「原子力事故または放射線緊急事態後の長期汚染地域に居住する人々の防護に対する委員会勧告の適用」という長い表題を持つもので、本往復書簡の著者、ジャック・ロシャール氏らが執筆。邦訳は以下に掲載されている。
http://www.jrias.or.jp/books/cat/sub1-01/101-14.html
また、解説として以下がある。

「ICRP111から考えたこと——福島で「現存被曝状況」を生きる」(PDFおよび電子書籍、無料、2012年)
http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html

『語りあうためのICRP111——ふるさとの暮らしと放射線防護』(日本アイソトープ協会、2015年)
http://www.jrias.or.jp/books/cat/sub1-01/101-19.html

オリジナル(英語および翻訳)は、ICRPのウェブサイトにある。
http://www.icrp.org/publication.asp?id=ICRP+Publication+111


〔*3〕1mSv/y: 本文にある「国が定めた基準」「長期目標としての1mSv/y」は、国際放射線防護委員会(ICRP)が、放射線防護にあたって勧告している「参考レベル」という考え方を念頭に置いています。
 ICRPの言う「参考レベルreference level」は、厳密に管理された放射線源に対して適用される「線量限度dose limits」「拘束値dose constraint」ではありません。「超えてはいけない値」ではないのです。
 ICRPの考え方では、「参考レベル」は、その線量を超えたら、なんらかの対策を優先的に講じるべき放射線量を指します。放射線源の管理の難しい現存被曝状況においては、一時的に「参考レベル」を超える被曝をする人々がいる可能性があります。その際、「参考レベル」は、その線量を超える、あるいは、その線量に近い線量に対して、優先的に低減措置を講じるための指針となるのです。時間の経過とともに、住民全員の被曝線量は、最終的に、参考レベルを下回るようになるはずです。
 現存被曝状況に対して、ICRPは、参照レベルを年間1-20ミリシーベルト(1mSv-20mSv/y)の低い部分から選択するように勧告しています。その際、基底的な状況、すなわち、関係する住民の被曝線量の分布を考慮に入れて、参考レベルを決めるように勧告しているのです。
 ICRPは、参考レベルを上回る被曝をする人、あるいは、参考レベル近くの被曝をする人が減るに従って、参考レベルを引き下げて行き、長期的には年間1ミリシーベルト(1mSv/y)を目標とするよう勧告しています。
 ICRPは、核事故あるいは放射線事故によって引き起こされる「緊急被曝状況」に続く回復過程は、「現存被曝状況」として管理されなければならないと考えています。というのも、「現存被曝状況」では、住民個々の被曝線量の厳密な管理は不可能で、あらゆる被曝線量を1mSv/y以下に維持できると保証することが可能でないからです。1mSv/y以下とは、平常時の「計画被曝状況」に用いられる指標です。
 しかし、長期的な目標は、すべての被曝線量を1mSv/yあるいはそれ以下の範囲に低減することであり、これは平時(計画被曝状況)のあるいは平時に近い状況を回復することです。言い換えれば、長期的な目的は汚染地域と非汚染地域の放射線防護レベルを可能な限り同じものになることを保証することなのです。これは汚染地域の住民に対する公平性の問題であり、彼らに対する敬意・尊重の問題です。

注釈〔*3〕(英文ではNote〔*2〕)の執筆に際して、ジャック・ロシャール氏から専門的知見に立った有益・貴重なご助言をいただきました。深く感謝しています。(編集部)

Dear Jacques,
Now that the ICRP dialogue seminar and some related events are over, I am enjoying some quiet moments of my own. As I look around, I am surprised to find that the rainy season has passed, and, it is already the height of summer. At this time of the year, golden-rayed lilies bloom along my favorite walking-path, their rich flavor filling the evening air.

I grew up in Hiroshima. From when I was a child, this time of the year always reminded me that “the day” was coming—the 6th of August, the anniversary of the a-bombing of Hiroshima. Even for someone like me who does not have “Hibakusha (Japanese for ‘explosion affected people’)” among family members, it has always been a special day. Sirens blow in time with 8:15 a.m. when the bomb was dropped, and, people pause for silent prayer. I have more memories of looking up at the sky on the day, straining to find the shadow of the B-29 bombers in a cloudless blue sky of summer, fully aware they are long gone, when all except the cicadas stood silent.

My parents are not from Hiroshima, so the only city I know is Hiroshima after the atomic bomb. I grew up thinking that the a-bomb burnt down the pre-war city; my imagination did not extend beyond the simple fact, nor did I question my thinking. It was only when I entered college and started living outside of Hiroshima prefecture, did I ever become aware that it was not ordinary at all. Initially, all I felt was a vague sense that something did not quite fit. Then, all of a sudden, awareness hit me. In all Japanese cities, even in Tokyo, where buildings are being demolished and rebuilt all the time, pre-war townscapes exist; there are long-established stores going back to pre-war years, and, residents who carried on traditional lifestyles. But not in Hiroshima. Hiroshima did not have these! The city I took for granted was not so ordinary. Since then, I have often tried to imagine Hiroshima when it was just an ordinary city, Hiroshima sans atomic bomb.
If not for the a-bomb, history would have continued between pre-war Hiroshima and post-war Hiroshima, as in many Japanese cities. For history to continue, culture must be handed down, which is only possible through human hands. Thus, history is disconnected when culture cease to be passed on, because there is no one to do so. The most significant loss experienced by Hiroshima was neither townscape or long-established stores or landscape, but the people. Once I became aware of this loss—the people who used to live in Hiroshima—I could not take my eyes away from their absence. Just glancing at the city that I thought was just ordinary, I could sense all was not as it appeared; underneath the city which resumed its beat lurked a spot where the noise of a bustling city suddenly disappeared, as if a huge mass of absence took over the space.

It was around this time that I first read Kenzaburo Oe’s “Hiroshima Note”. The dignity of the Hibakusha that he depicted seemed to stand in contrast to the huge absence that haunted me. I imagined that the huge absence lay beneath the Hibakusha’s feet in Oe’s writing. However, Oe mostly focused on what happened after the atomic bomb; his books did not touch on the topic of absence.

As with most children in Hiroshima, I grew up listening to or reading the episodes of the Hibakusha as part of non-academic curriculum in school; however, they were mostly about what happened after the a-bomb and their experiences as Hibakusha, as was in “Hiroshima Note”. The book was written in 1965, and, almost half a century had passed by the time I listened to the stories of the Hibakusha. So, I could not help feeling that the episodes must be from quite some time ago, a story that had ended in the past.

However, the story had not ended. There were countless many stories that could not be told behind the stories I listened to. The untold stories still retain the raw power of absence. I can vividly recall how lost I felt after reading Oe’s book then.

In those days, I also struggled with the question about the dignity of those absent people. Where is the dignity of these people, whose existence was completely wiped instantaneously, with no regard for their individual lives?

Before I try to give my answer, please allow me to make a detour into a different place in different time.

I lived in a small village in the hills of Fukushima for about two years, in a community so remote that most people would not have heard of. The village began its history as a frontier settlement when people moved in to log fuelwood during and after the war. It was a spectacular place, even among the beautiful Abukuma Highlands. I remember that, on deep winter nights, the sound of the cedar trees freeze-cracking drifted from far away before dawn. On such bitter cold day, frost covered the tree branches, forming “soft rime.” When pale winter sunlight light the frost covered trees, they shine like diamonds; even locals used to be struck by the other-worldly beauty. Such natural beauty came hand in hand with hard life of the frontiers. The village got electricity only as late as 1959, lagging behind other villages in Japan. The reason why I know this, when I only lived there for few years and moved on, is because the first name of the villagers born in that year all used Chinese characters related to “light,” such as “Koji (光二) ” or “Teruo (照男) ”.

The elders in the village continued to live in the style since before electricity. Heat during winter was by kotatsu, a low table with charcoal foot-heater, supplemented by oil heater. They rose at dawn to start working, and went home at sunset. They grew their own rice and vegetables and relished seasonal delicacies. The forest brought gifts of herbs in spring and mushrooms in autumn, and the river carried Yamame (landlocked mass salmon) and Iwana (char).

In those days, I became friends with an old lady whose parents migrated to the village as settlers. When she was a small girl, the entire area was still covered by forest, with no patch or field in sight. Settlers like her parents cut down trees and grubbed up roots and tree stumps to turn forest into arable land; they continued this mind-boggling labor to cultivate land. Fields to grow vegetables were relatively easy to cultivate, however, it was much harder in the case of paddy fields, because water channels are necessary to grow rice, which was only possible by diverting a nearby river. The old lady’s elder brother could not give up the dream of eating rice. He devoted all spare time outside of daily labor for river work. Needless to say, they did not have heavy machinery, all works were by hand. After much hardship, the river work concluded and river water could be channeled to paddy fields. However, immediately after the accomplishment, her brother suddenly collapsed and never recovered.

As she recounted her brother’s story, the water channel and the paddy fields were within our view—they existed just as the way her brother worked on. She looked over and murmured, “Yeah, he was gone like that. What a life.” She did not show any emotion nor did she look in my direction.

She and her husband grew rice each year on those paddy fields at the time of this conversation. In autumn, we used to pass by the elderly couple working in the paddy field, harvesting and drying rice. I recall the picture of the two working in bright sunlight amid the golden paddy fields like a figure in an Impressionist painting.

Once, when I was lazily gazing the village scenery, I had an epiphany. Here, there was no piece of land without a story; each was engraved with its unique history together with the names and lives of people who had lived. Guests used to praise the beauty of the stars shining brightly in the clear sky or the abundant nature; for me, nothing was as precious as the lifestyle that the residents formed in partnership with nature, or, the landscape developed through such lifestyle.

The daily lives of the residents were the history of the people. The passage of time brought incremental changes to their lifestyle, while certain events caused large changes; throughout the process, their lifestyles were inseparable from their lives. Their lifestyle constituted their lives, and also their dignity.

Being a frontier settlement developed not so long ago, the relation between lifestyle and dignity was clearly visible; however, I cannot help thinking that this may hold for most people to some extent. For anyone, to make a life, forming a lifestyle, is writing up your history through the walk of your life; dignity of a person can only be based on this endeavor.

Let me get back to the story of Hiroshima. Only after living in this village, was I able to fully understand what was taken away from Hiroshima, symbolized by the huge absence I sensed. In Hiroshima, history was totally annihilated; not only those written up in books, but also history as the whole sum of individual lives. Completely wiped out, without a trace. How could I not lose words knowing this? I started to see the absence Oe depicted beneath the feet of the Hibakusha as something totally alien to our daily lives; an enigma containing an abyss separating it from our ordinary lives, thus by its nature almost impossible to perceive and understand. It was hugely different from the Hibakusha testimonies I listened to as a child, stories told gently as if those episodes were merely a part of their ordinary lives. It was a piece of puzzle I could not find a place to fit in; in fact, I still have not found the answer.

What frightened me when a nuclear power plant accident happened in Fukushima was the fear that the lives in Fukushima might be uprooted and destroyed, something I wrote to you in my last letter.

In your last letter, you wrote about the difference between Hiroshima and Fukushima. My view is that, if there is any similarity between the disasters experienced by Hiroshima, Chernobyl and Fukushima, it would be the “abyss” which severed any ties to all connectivity at the root of our daily lives, although said connectivity is not noticed in ordinary times. The Fukushima Dai-ichi NPP accident destroyed the sense of continuity in time that a tomorrow like today will come in the morning, and it will continue in the same way, the sense of trust in the ties with the past, or, the sense supporting our daily lives such as trusting one’s neighbor or sharing common knowledge—for example, by taking a turn, the road will take you to the next village, which is similar to ours, but different in some ways. The divide created by the abyss was further deepened and widened in the case of Hiroshima and Fukushima primarily due to the significance of the events, the a-bomb in the former, and, the Fukushima Dai-ichi NPP accident in the latter, and, secondarily due to the nature of radiation which, as you wrote, human sense cannot detect and therefore causing the difficulty of forming shared notions. Despite, and, because of these difficulties, I believe that we are called to reconnect what was once severed in order to reclaim our lives.

You wrote about Galina in your last letter; I can easily imagine the proud smile on her face. For someone who is not aware of the process of reconnecting, it is just reclaiming what you used to have. It is such a small change, a no-event hardly worth mentioning in record. However, it is nothing other than an almost impossible accomplishment, patching up the fabric of daily lives that was once torn apart by the Chernobyl accident with nothing but your own hands. Sometimes, I see Galina’s face in the faces of the people in Suetsugi. There was a lady who used to speak about vegetables grown in her garden with some wariness, like, “I am almost certain not much (Cesium) will be detected from these, but the recipient may not feel so.” Recently, she brought her vegetables to the weekly measurement at the community center. She was chatting with another lady from her neighborhood, saying that once she had the measurement, she was going to send the vegetables to her children. When the other lady questioned whether those vegetables would be welcomed, she gave an upbeat reply, “There is no problem, we measured them and the result was fine! And, who can turn down such delicious vegetables?” The cheerful words matched who she must have been before the accident, a lively, happy lady whom I do not know personally. Just as Galina, she succeeded in re-connecting her life, before and after the accident. It is likely that she patched up the relations with her children. Otherwise, that absence would have taken hold of Suetsugi.

Your third letter also referred to Professor Angelina Guskova and Vasily Ignatenko. I read the book “Chernobyl, Myth and Reality” by L.A. Illyn, who responded to the Chernobyl accident with Professor Guskova. There was a passage where she treated the injured firefighters including Mr. Ignatenko at Hospital No.6. Illyn wrote how Professor Guskova and the hospital staff devoted themselves to provide the best care, and, how they did their best to reduce pain and discomfort, once it became evident that the severe damages were untreatable. I felt relieved by reading about the care the firefighters received in their final days. Until now, the reason why I felt so has been a mystery to me. But now I know. Those firefighters took the hardest blow from the Chernobyl accident; they were “disconnected” from everything in their lives in a most tragic manner. The devoted support they received in the hospital seemed to be the saving grace to “reconnect” them with their lives available in their final days. Would it be too sentimental to call such effort as a ray of light reaching into the deep darkness permeating that absence?

As I pointed out in my presentation which you referred to in your fourth letter (http://www.ohtabooks.com/homo-viator/barque/12153/)〔*1〕 the standards set by the Japanese authorities resulted in almost irreversibly deepening the abyss. Let me discuss this in another letter.

However, there is one notable exception. Setting 1mSv/y as the long-term goal [for individual annual effective residual dose]〔*2〕 as stated in ICRP Publ. 111〔*3〕, seem to aim for “reconnecting” what was severed. That is, if the standard during ordinary times is 1mSv/y, multi-phased and long-term measures would be taken to reach said level; if the standard used outside the affected areas is 1mSv/y, the affected areas would also aim for 1mSv/y. This way of thinking is completely at odds with all the other standards set by the Japanese government. In my view, it was designed with a mind to reconnect the pre-accident with the post-accident, or, the affected areas with the rest of Japan. I believe that most people secretly wish they could somehow return to before the accident; to continue living in the environment that once was. I am one of them. That someday, somehow, the environment will be what it was before the accident, and, we can live in such environment. Aren’t we allowed to keep dreaming whether it is an impossible dream or not? Adopting 1mSv/y as the target seemed to affirm my said dream, as well as those that the people in Bragin must have once dreamed.

Due to the harsh heat spell in Japan for the past few weeks, I have been feeling lethargic. It was like watching everything slipping between my fingers. The golden-rayed lilies that were in full bloom as I started writing are gone. Soon the flowers of autumn will start to adorn the fields and forests. I end this letter the day before the anniversary of the a-bomb in Hiroshima, hoping that a cool breeze will be blowing by the time I receive your reply.

August 5, 2015

Ryoko Ando

The English Translation by T.A. (thanks to K.N)
(英訳|by T.A. Thanks to K.N)
Notes
〔*1〕 Refers to Workshops on the Ethics of the System of Radiological Protection organized by Supporting Task Group 94 of ICRP (http://www.icrp.org/page.asp?id=237). The 2nd page, “2nd Asian Workshop: Jointly organized by Fukushima Medical University Fukushima and ICRP, Fukushima, Japan, June 2015” include links to the summary of Ms. Ando’s presentation (English, PDF)

〔*2〕 “The standards set by the Japanese Authorities” and the “1mSv/y as the long-term goal” referred to in this letter are based on the concept of “reference level” recommended by ICRP to be used for radiological protection.
A “reference level” is different from a “dose limit” or a “dose constraint” used for strictly controlled radiation source (called planned exposure situation). Thus, it is not a value which an individual’s dose should not exceed. It is a level to make decision about protection actions.
For ICRP, any dose exceeding the “reference level” should be considered in priority for implementing some protection action. In existing exposure situation, when controlling the radioactive source is difficult, there may be individuals whose dose exceed the reference level temporarily; the “reference level” would then be used as a guide to take action with the objective to reduce in priority those doses that are exceeding or are close to the reference level. With time, the doses of the entire population would ultimately fall below the reference level.
For existing exposure situations ICRP recommends selecting the reference level in the lower part of a,1-20 mSv/year band taking into account the prevailing circumstances i.e. mainly the distribution of doses to the concerned population. As the number of individuals whose dose exceed or are close to the reference level decreases, the reference level is lowered. In the long term, ICRP is recommending to adopt 1mSv/y as the target.
ICRP considers that the recovery phase following an ‘emergency exposure situation’ generated by a nuclear or a radiation accident must be managed as an “existing exposure situations” because the individual doses are not strictly controllable and it is not possible to guarantee that doses will be all kept below 1mSv/y as it is the case in planned exposure situations.
However the long-term objective to reduce all exposures in the range of 1mSv/y or below is to recover a situation similar or at least close to a normal situation i.e. a planned exposure situation. In other words the long-term objective is to ensure as far as possible the same level of protection in the affected and non-affected territories. It is a question of fairness and respect for the affected populations.

We, editor, are deeply garateful to Mr. Lochard for his expert advice on the draft of the note no. 3 (in English, no.2 in Japanese) concerning the concept of “reference level” recommended by ICRP.


〔*3〕 “Application of the Commission’s Recommendations to the Protection of People Living in Long-Term Contaminated Areas after a Nuclear Accident or a Radiation Emergency” published by ICRP in 2009, usually referred to as “ICRP 111” or “ICRP Publication 111”. Jacques Lochard, the writer in this letter exchange, was one of its authors.
The Japanese translation is available from:
http://www.jrias.or.jp/books/cat/sub1-01/101-14.html

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