第4回 医師は神様ですか?(その2)

冨田香保里/高野利実(虎の門病院 臨床腫瘍科部長)/中嶋一
編集部から
冨田香保里さんの問いかけに、高野利実医師が答える「Q&A」スタイルで連載しています。冨田さんは昨年(2015年)3月23日にお亡くなりになっていますが、生前、高野医師への質問(Q)は全部書き終えておられました。文末「妻 冨田香保里のこと」では、冨田さんのご主人・中嶋一さんに文章を寄せていただいています。冨田さんの人となり、仕事、病との対し方、さまざまな葛藤など、患者と医師の「Q&A」に収まりきらない部分を執筆いただきました。

<連載目次>
第1回 はじめに(冨田香保里+高野利実)
第2回 医師と患者のコミュニケーション
第3回 医師は神様ですか?
第4回 医師は神様ですか?(その2)
メモランダム:妻 冨田香保里のこと(中嶋一)
(以下次号)
病院というもの
治療について
番外編 おわりに(高野利実)

Q.2 医師は神様ですか?(再掲)

 死に至るまでのプロセスを見通してなのか、医師は、患者の病状に対して常にネガティブな見解を述べます。とても慎重です。治ると言ったのに治らなかった、そうなれば裁判になる? それが怖いのでしょうか。ウソでも「治す」と言ってほしい。患者の気持ちを理解してほしい。たしかに、医師は命の終わりのごく近くにいますが、医師が生死を決定することはできません。人はいつ何で死ぬかわかりません。そんなことはもうほとんど神の領域です。患者には、余命宣告を聞かない権利だってあります。余命宣告を聞いた私は、泣いて怒りました。しかし、あれから5年、もうとっくにその年数(余命)は過ぎました。

A.2 高野医師の回答

(前回に続き、冨田香保里さんからの質問への私のお答えを続けます。)

 冨田さんは、「医師は、患者の病状に対して常にネガティブな見解を述べます」と書いていますね。患者さんにとって「ネガティブ」と思われるような現実が待っているのであれば、それをある程度は伝えなければいけないわけですが、ネガティブなことを言ったあとには、必ずポジティブなことを言い添えるようにします。ネガティブなことを言わないようにすれば解決するという問題ではないというのが難しいところです。

 前にも書いたように、「治らない」という事実はきちんと伝えるべきだと思っています。冨田さんは、「ウソでも『治る』と言ってほしい」と書いていますが、ウソをつくのはいけません。現実と違う説明をして、そこに希望を持ってもらうというのは、そのときはいいにしても、結局は「見せかけの希望」にすぎませんので、いずれ、患者さん自身が、厳しい現実に気づき、医師の説明がウソだったと知ることになります。
 そこで直面する現実というのは、期待が大きかった分、より絶望的に感じられるかもしれません。そのあとで、医師がいくら「希望」の言葉を添えても、なかなか信用してもらえません。現実から目を背け、「見せかけの希望」にすがりつき、その見せかけの希望のために過剰な治療を受け、そのあとで絶望的な現実を知るよりも、まずは現実を受け止めた上で、その現実の中から「真の希望」をいかに見出すかが重要なのだと思います。それは容易なことではないわけですが、だからといって、安易に、「見せかけの希望」に逃げてしまうのは得策ではありません。

 私は、治らないがんと向き合っている患者さんには、「治らない」という事実を伝えます。その上で、「でも、」と続けるわけです。
 「がん細胞が体からすべて消えてなくなることを『治る』と言うのなら、冨田さんのがんは、治りません。がん細胞を根絶することを目標に負担の大きい治療をあれこれやっても、結局その目標は達成できません。でも、がん細胞をゼロにすることがそんなに重要でしょうか。たとえ、ゼロにならなくても、それが悪さをしないように適度に抑〔おさ〕えながら、うまく長くつきあっていくというふうに考えたらどうでしょうか。うまく長くつきあって、『天寿〔てんじゅ〕』を全〔まっと〕うできるとしたら、それは、『治る』のとどう違うでしょうか。がん細胞がゼロになるかどうかよりも、いい状態を保ちながら長生きすることの方が重要ですよね。これからは、『がんとうまく長くつきあう』という目標に向かって、そのためにプラスになるような治療を選び、マイナスになるような治療は使わず、力を合わせてやっていきましょう」。

 「天寿を全うする」という言葉を私はよく使いますが、この言葉の意味は曖昧で、患者さんの受け止め方も様々です。そんな曖昧な言葉は使わない方がよいという意見もあるかもしれませんが、「いい方の可能性」を、幅を持って表現するには、ちょうどよい言葉だと、私は思っています。
 「天寿」というのは、「天から授〔さず〕かった寿命。自然の寿命」という意味だと、『大辞林 第三版』に書いてあります。多くの人がイメージするのは、「平均寿命よりも長生きして、老衰で亡くなる」という感じでしょうか。がんで命を落とすのは、どうも「自然」とは思われていないようで、「天寿を全うした」というよりも、「非業〔ひごう〕の死」と表現されることが多いようです。
 がん患者さんが「天寿を全うする」のは、「がんで命を落とすのではなく、それ以外の原因で命を落とすこと」なのかもしれませんが、がんでなくとも、不慮〔ふりょ〕の事故で最期を迎えたりしたら、「天寿を全うした」とは言えないですね。逆に、日本人の死因のトップを占める「がん」という病気で亡くなるのは、誰にでも起こりうる「自然」なことであって、それが「天から授かった寿命」なのだと言えなくもありません。
 死因が何であれ、年齢がいくつであれ、その人なりの人生を生き切ったのであれば、「天寿」なのではないかと思います。「生き切る」というのも曖昧な表現ですが、自分の人生を振り返って「幸せだったなあ」と思えること、まわりの人たちに感謝しながら、満足して死を迎えられること、と言い換えられるでしょうか。
 不条理な死に直面しながら、満足なんてできるわけがない、と思われるかもしれません。でも、がんで最期を迎える方の中には、「天寿を全うした」と思える方が、確実にいます。それは、年齢とは関係なく、私よりも若い方をお看取〔みと〕りするようなときにも感じることがあります。
 ただ、現代の日本人で、そうやって最期を迎えられる方というのは少数派です。「もっと長く生きられたはずなのに、無念だ」という「不全感」や「満たされない気持ち」を抱きながら終焉〔しゅうえん〕の時を過ごす方が多く、特に、がん患者ではその傾向が強いようです。
 「10年後に生きていればもっといい治療を受けられたのに」「アメリカにいたら、夢の新薬を使えたのに」といった思いを抱く患者さんも多くおられますが、この傾向は、新薬が多く開発され、医療が進歩すればするほど強くなっているように感じます。実際、この10年でがんの治療はだいぶ進化していますので、10年前に無念の死を遂〔と〕げた患者さんが切望していた医療が、今ここにあるわけですが、結局、それで満足は得られていないということです。「10年後」を夢見る患者さんが10年後にタイムスリップできたとしても、やはり、「満たされない気持ち」は変わらないのではないかという気がします。
 逆に言うと、今のような医療がなかった時代、たとえば、抗癌剤なんてものが存在しなかった20世紀前半の人類の方が、満足して最期を迎えていたのではないか、「天寿を全うした」と言える方が多かったのではないか、と想像します。

 がんとうまく長くつきあって、天寿を全うすることを目指す。これこそが、治らないがんに対する医療の目的なのだと、私は思っています。新薬を開発し、がん医療を進化させていくのが、われわれの使命ですが、それと同時に、「天から授かった寿命」を生き切るには、医療の限界についても知り、がんという病気の意味、人生の意味、そして死の意味について思索〔しさく〕していく必要があるのだと思います。
 今ある医療の中で最善を尽くしつつ、ときには、そういう医療を受けられることに感謝しつつ、医療を超えたところにある「幸せ」を一人ひとりが見つけることが重要なのではないでしょうか。

 医師は、神ではありませんが、私は、人間として、患者さんとともに「死」と向き合い、「生」を楽しみ、「幸せ」を語り合いたいと思っています。
 冨田さんとも、生前にもっと、こんなことを語り合ってみたかったですね。


メモランダム:妻 冨田香保里のこと 第3回
中嶋一

 冨田は旧姓です。私との結婚前からスタイリストの仕事をしており、結婚後も旧姓で仕事していました。昭和29年(1954)11月1日山口県下関市で生まれ、父親の転勤で新潟、東京と移りました。子供の頃から絵を描くことが好きで、東京芸大の受験をしたそうですが失敗したということでした。
 1981年、私が24歳、香保里さんが27歳の時結婚しました。渋谷区東の私の自宅兼事務所が二人の生活の始まりでした。
 二人ともフリーランスでしたので、新婚生活といった感じのものはなく、結婚式の翌日、彼女は数週間ニューカレドニアのロケに行って、私は結婚前と変わらず自宅兼事務所で仕事。その頃、DCブランドと呼ばれるアパレルメーカーやアパレル企画会社を相手に、広告制作を受注したり、商品企画を提案したりする仕事をしていました。
 いつも、香保里さんのアシスタントが自宅兼事務所の一室で撮影の準備をしたり、私の仕事仲間や友人が出入りしたりして賑〔にぎ〕やかな生活でした。
 一般的に、スタイリストは、師匠のアシスタントを数年やって独立するのが普通です。カメラマンやヘアメイクの方々も同様です。
 香保里さんは広告代理店の博報堂時代に出会った、当時松屋デパートのファッションコーディネーターの西山栄子さんに可愛がられ、アシスタント経験なしで松屋デパートの仕事をいただき、本格的にスタイリストとしてのキャリアを積んでいきました。
 その後、メルローズというアパレルブランドでプレス業務をしていた津田朱美さんと出会い、85年から2013年までマネージメントをお願いしていました。
 83年頃から彼女は、当時の中央公論社から発行されていた『マリクレール』というファッション誌のレギュラースタイリストとなって、パリコレや年数回の海外ロケに参加していました。
 本人には人に言えない苦労があったはずだと思いますが、スタイリストとしては、わりと順調にキャリアを積んできたと思います。
 2003年発病当時は、キャリア30年近い古株スタイリストとして、仕事に微妙な変化があった後で、これからの仕事や生活に不安を感じていました。
 長引く不景気感、ファストファッションの台頭やWEBの隆盛にともなって、多くの女性ファッション誌は時代を表現するメディアとしての機能を失いつつありました。つまり、広告出稿者の意向が強く反映される、女性誌のカタログ化が進行していたのです。
 広告制作の現場も同様で、「商品を売るために」がなにより強調・優先される風潮が強くなり、説明的な広告が主流となっていました。かつてのように、ファッション性やモード感を広告の中に求められなくなりつつあったと思います。
 そんな雰囲気の製作現場で、キャリア30年近い古株スタイリストは、ある意味面倒な存在になりがちだったと思います。若いカメラマンやアートディレクターにとって、やりづらいところもあったはずです。撮影の後、帰ってきて「今日も私が一番年上だったよ」という会話が多くなりました。
 また、ファッション誌や広告の仕事のご縁から、ミュージジャンや女優さんといった、芸能系の方々との仕事も増えていたように思います。しかし、そういった方々からプライベートな買い物への同行を求められると、きっぱり断ってしまうのです。香保里さんにはそういうところがありました。それは、二度と仕事の依頼が来なくなることを意味します。
 スタイリストに仕事を依頼する側が、時代の変化によって、若い才能や新しい能力を求めるのも当然です。
 彼女の周囲の人たちは、時代は変わるのだから、彼女らしい仕事をすればよいとアドバイスしますが、本人は仕事の依頼がなくなるのではと不安になりながら、依頼内容に不満を抱くという、折り合いの付かない、厄介な心持になっていたと思います。

 私は1999年にそれまで勤めていた会社を辞め、中目黒で餃子屋を営んでおりました。
 当連載担当の赤井さんもよく来ていただいていましたし、友人たちや香保里さんの仕事関係者もよく顔を出してくれましたが、実際の収入はひどいものでした。
 ランチの準備のため、朝9時には家を出て、帰りは深夜1時頃、定休日も仕込みと掃除、年末は31日まで営業し、年明け2日には営業という生活でありながら、実収入は、会社員時代に比べるべくもないものでした。
 月末になると、仕入れ先の支払いに充てる店の売り上げを生活費として家に入れ、仕入れ分の支払いは猶予〔ゆうよ〕してもらうという自転車操業です。
 そのくせ、古い友人が来れば、一緒になって飲んでしまい、一晩中店でDJをして、泥酔〔でいすい〕して家に帰るというだらしなさです。
 香保里さんの仕事上での変化が顕在化〔けんざいか〕しはじめた時期でしたから、私の独立開業に続き、商売や経済観念に無自覚な私の生活態度は、相当なストレスや不安を香保里さんの心に与えていただろう、と後になって思いました。
 2002年6月には、香保里さんが親しくしていた、イラストレーターでコラムニストの友人が、深夜帰宅途中のタクシー内で心臓発作を起こし、車内で亡くなるという出来事がありました。その友人の死は、香保里さんに甚大〔じんだい〕なショックを与えることになりました。
 その日、亡くなった友人と彼女の古い友人、香保里さんの三人は、私の餃子屋で食事をしていました。亡くなった友人が食後、これからみんなでカラオケ行こうよと誘いましたが、もう一人の友人が明日入稿だから今日は帰るといって、三人は店を出て、中目黒の駅前で別れたとのことです。
 香保里さんは、もし一緒にカラオケに行っていたら、発作が起きても救急車を呼び、病院に連れて行けたら、助かったのでないかと悔やんでいました。
 コラムニストとして週刊誌の連載も順調で、イラストレーターとしても絶頂期の彼女は、その特徴的な身体と健康に不安を持ち、香保里さんに相談していたようです。
 そして、今度こそ病院へ行く、と本人もやっとその気になった矢先のことだったので、もっと早く、強引にでも病院に連れて行き、診察してもらえば良かったんだと毎日泣いていました。
 家の中は暗く、私には堪えがたかった。店を言い訳に、朝は可能な限り早く家を出て、夜はできるだけ遅く帰る。香保里さんの悲しみから逃げるような毎日でした。
 約一年後の2003年9月に告知を受け、香保里さん本人が死と向き合う生活が始まります。私は逃げ場となっていた餃子屋を閉め、香保里さんの治療生活をバックアップするために、フリーランスで仕事を始めました。
 しかし、その後数年間は、バックアップするどころか、店を閉めるために内緒で借金したことが香保里さんに発覚したり、私がフリーの仕事の収入をごまかしたり、諍〔いさか〕いが絶えませんでした。
 香保里さんも私も、告知当時ハッキリと離婚を考えていました。でも不思議なことに、冷静に正面から話し合うことはありませんでした。
 治療方針や今後の生活について、毎日言い争いが起きます。その中で、「出ていく」、「死んでしまう」と、感情的になって別れを口に出しても、喧嘩が終わると、そのことにはお互い触れないのです。
 香保里さんは、離婚したらこの人は本当に出鱈目〔でたらめ〕なまま人生を終えてしまう、と心の底から考えていました。自分が何とかしなければという責任感を持ち続けていました。
 当然、病気を抱えて一人で生活していけるかという不安はあったと思いますし、治療方針が不明確のままでは、両親に病気のことを話すこともできずにいました。

 香保里さんの病気が、なぜ・いつ発症したか、はっきりとはわかりません。でも1999年頃から2003年9月まで、仕事上の壁に突き当たり、連れ合いの独立開業、友人の死といった、過去に経験のない精神的・肉体的ストレスや不安が重なったことが、この病気の一因であったのかと思っています。

「もの言う患者」目次一覧