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スペシャル

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金革(キム・ヒョク)=著
金善和(キム・ソンファ)=訳

この論文は、韓国版『自由を盗んだ少年』に第二部として収録されている、西江(ソガン)大学公共政策学科の修士論文として書いたものを、日本の一般読者向けに編集したものです。日本版書籍では未収録となったこの論文を、当ページでWeb公開いたします。

第4章 統制の中の変化

『自由を盗んだ少年 北朝鮮 悪童日記』
著=金革(キム・ヒョク)/訳=金善和(キム・ソンファ)/2017年9月9日刊行

■コッチェビの変化
 コッチェビたちは生き残るために組織化し、徐々に暴力的に変わっていった。
 
 「去る6月2日、黄海北道(ファンヘプッド)黄主(ファンジュ)郡黄主邑の協同農場で警備員一人が軍人盗賊に殴られて死亡する事件が発生した。加害者の軍人四名は訓練所保衛部にすぐに逮捕された。軍人たちは、「ジャガイモ畑の警備員に、最初はきちんと言葉でジャガイモがほしいとお願いした。同僚の誕生日なのでジャガイモを2袋だけ恵んでくれと頼んだが、こちらの事情を聞いてくれず、何度も追い返そうとするので腹が立ち襲いかかった」という。彼らに殴打された警備員は、治療を受けていたが2日後に腸破裂で死亡した[良い友「今日の北韓ニュース」286号、2009年7月7日]。

 このように軍人たちが住民の間で恐怖の対象として登場してから、彼らの行為を模倣する事件も出てきた。コッチェビ組織内の青年数人が軍服を着て夜道に潜み、通行人を相手に暴力を振って強奪する事件がしばしば起こったのである。脱北者Aによると、吉州(キルジュ)で組織に属し生活していた頃、組織のボスが市場で軍服四着を買って青年コッチェビたちに着せ、夜に強盗をしてこいと送り出していたという。彼らは通行人が通る道で待ちかまえ、通行人が来たときに鉄パイプで首を打って倒し、自転車や他のものなどを奪って帰って来たという。

■孤児施設、老人ホーム、成人の追放
 北朝鮮のコッチェビ管理形態は、孤児たちの場合には、各種孤児施設、老人の場合には老人ホーム、成人の場合は追放措置の形で行われる。1950~1960年代を経て、ほとんどの未成年コッチェビは孤児院に収容された。
 1980年代以前までコッチェビのほとんどは青少年層で発生したため、青少年層を管理するための施設として、継母学院をつくった。一方、扶養を受けねばならない老人の場合は、老人ホームに送って管理させたが、この老人ホームは、朝鮮戦争後からずっと存在してきたものだ。食糧危機以前は老人がコッチェビ生活をすることは事実上なかったと思われる。
 成人の場合には、別途、彼らを管理するところを作ることはなかった。代わりに、彼らは概ね農場や炭鉱などの過酷な単純労働をする現場に送られた。1970年代に入って炭鉱、鉱山、伐採場のような過酷な労働現場に彼らを強制的に移住させ管理してきた。

 「伐採場にいるときに教化所から来た人が作業班に2人もいたが、他の職場に行けずキツイ仕事ばかり行かされると言っていた。だからそこの作業班長は頑張ってやっとなれたのだと言っていた」[脱北者C]

 北朝鮮は、社会の深刻な不良問題について青少年の場合は、一般的な学院と継母学院を通して管理し、成人の場合は、炭鉱や伐採現場のような困難な生産職に強制配置して管理してきた。彼らを処罰するレベルは少年教養所、成人の教養所、教化所を経て、教化労働刑まで少しずつ厳しくなった。 1960年代の社会身分の変化を経て、コッチェビが再登場し始めると、当局は管理と処罰をさらに強化したのである。

 「区域党責任書記が学校との活動に全面的に責任をもってあたるよう強い規律を確立すべきです。生産計画を遂行できなかったり、農業実績がかんばしくなかったりすれば、区域党責任書記が処罰されるように、学校事業の指導を誤って落第生が一人でも出た場合は、当該区域党責任書記が処罰を受けなければなりません。今後、不良生徒や落第生が一人でも出れば、当該区域党責任書記が全的に責任を負うべきです」[『金日成著作集29』1985: pp.217-218]

 1974年、金日成が、これらの問題を提起すると不良たちの大々的な取り締まりと処罰が行われた。孤児院をはじめとする多くの施設、特に寄宿型施設では、ルールや秩序が軍隊のように徹底され、プライバシーはなくなった。未成年の場合、一般的な孤児院や継母学院は、寮と勉強するスペースが一緒であるため、そこを抜け出して個人的な行動をすることは非常に困難であった。したがって、施設の子が逃げ出しても、孤児院がすぐに気付いて、彼らを捕まえるため糾察隊(キュチャルデ)を駅前や市場に送り出しては連れ戻した。糾察隊につかまって再び孤児院や継母学院に戻っても、彼らは再脱出を試みて、孤児院では再び取り締まるなど悪循環は繰り返されるのである。

■糾察隊
 孤児院を脱出したコッチェビを捕まえるため、孤児院から学生糾察隊を派遣することがある。孤児院の学生糾察隊は、他の地域に出かけ駅前や市場などを回って脱走した子ども探したり、該当地域の分駐所、安全部などを回ったりして、捕えられた孤児院のコッチェビがいるかどうかを確認し、数日かけて戻って来る。これらの学生糾察隊も孤児院所属の子どもなので、孤児院を離れ、他の地域を歩き回れるように、少年団、社労青(サロチョン)指導員、院長などの承認を経なければならない。脱北者Cによると、学生糾察隊になる学生は、派遣される地域に精通しており、孤児院に戻ってくることが確実な学生で構成される。
 他の組織でも自まえの糾察隊を組織し、市場、駅前、公園などでコッチェビ生活をしている子どもを取り締まる。学生糾察隊は成人を取り締まることはできないため、成人を取り締まるため社労青糾察隊が別途存在している。
 処罰レベルには段階があり、その該当組織で第一次段階として教育活動をとおした改造を進める。教育改造事業は、組織生活の中で不誠実な組織員に与える罰として思想教育と労働教養改造に分けられる。
 思想教育改造とは、組織全員の前で自己批判し、相互批判されることをいう。労働教育改造事業とは労働を通して教育改造する事業で最高2年以下の無報酬労働をする事業をいう。そこを教養所と称する。教養所は、成人が行く一般教養所と青少年が行く少年教養所[少年院]がある。
 
■非社(ピサ)グルパと9.27常務組(サンムジョ)
 北朝鮮でコッチェビ拡散を取り締まるために、1980年代に「非社会主義グルパ」が作られたといわれる。非社グルパが形成されて取り締まりを開始し、調査を通して不良たちを大々的に捕まえ始めた。この頃から作られ始めたのが、成人を対象とした「コッバク」である。非社グルパの取り締まりにかかった人は、安全部[一般警察]の管理下で無報酬労働に動員された。「コッバク」は、現在の労働鍛錬隊の前身で、この用語が初めどのように使用されるようになったかわからない。ただし、一般の住民は、この用語を非社会主義的行為をして摘発された者が数ヶ月間無報酬の強制労働に動員されることの意味で使用している。
 1990年代半ば、ロシアに出稼ぎに出ていた伐採労働者が脱出する事件が発生し、脱北者が徐々に増加するにつれて、1997年1月、韓国で初めて「北朝鮮脱出住民の保護および定着支援に関する法律」が制定された。同年8月21日には、国連人権小委員会で「対北朝鮮人権決議案」を採択し、それまで10年間先延ばしにしてきた定期報告書の提出を北朝鮮政府に要請した。提出すべき報告書には、女性の問題、児童問題、移動の自由などが含まれていた。これらの問題について、北朝鮮社会の人権侵害に対する国際社会の懸念があり、この時期から韓国でも北朝鮮のコッチェビ問題が公に議論され始めた。
 北朝鮮は、児童の問題を解決する応急措置として、9.27常務組を各地域に派遣し、社会に蔓延しているコッチェビの大々的な取り締まりを開始した。北朝鮮が「児童の権利に関する条約」を先送りした理由も、北朝鮮社会の体制優位性を毀損するコッチェビたちを大々的に取り締まるのに時間をかせぐ必要があったからである。
 1990年代初めまでは安全部拘置所でコッチェビを一時的に収容して、親が来たら引き渡した。しかし、1990年代半ばからの食糧危機のために安全部に拘留される時間が長くなり、コッチェビを収容するのに限界があった。これらの問題を解決するために、9.27常務組は1997年末から一時収容所として救護所を設置してコッチェビを収容した。
 救護所は、「コッチェビ監獄」という言葉が最もふさわしく、一度捕まって入ると、保護者が来るまで閉じ込められたまま過ごさなければならない。保護者が来ない場合は、栄養失調で死亡するケースもあった。救護所は、青少年コッチェビだけでなく、成人のコッチェビも一緒に強制的に拘禁し、強制労働に動員することもある。「良い友」によると、両江道(リャンガンド)恵山(ヘサン)市が商売の流通が非常に良いため他地域の清津や、吉州から集まったコッチェビが多く、彼らを捕まえるために、コッチェビの救済所と青年同盟の取り締まり非社グルパなどが保安署の巡察隊と合同でコッチェビを取り締まっているという[良い友「今日の北韓ニュース」274号、2009年4月14日]。
 コッチェビたちは劣悪な環境の中で生き残るために脱出を試みる。だいたい救護所は合宿所や旅館の特定の階を改造して作るが、コッチェビたちの脱出を防ぐために、2~4階を救護所にすることが多い。しかし、コッチェビがシーツや布団を裂いて作ったロープで脱出を試みると、これを防ぐために布団さえも支給しないケースが生じた。 2階には、簡単に逃げられない子どもコッチェビを収容し、4階には青年層コッチェビを収容することにより、簡単に脱出しないようにした。それにもかかわらず、コッチェビたちは、高い階から飛び降り脱出したりするため、飛び降りた際に足を折って障害を負うこともあった。救援所の栄養価のない少量の食事より、自由に歩き回って拾ったり盗んで食べるほうがコッチェビたちには生存できる確率がはるかに高いため、リスクがあっても、脱出を試みることになる。

■孤児院
 たて続くコッチェビの脱出と救護所の収容の限界を克服するために作られた代表的な管理機構が孤児院政策である。孤児院政策は、孤児院だけでなく継父母学院まで含めて、全国的に展開された。1990年代末以降、急速に増加するコッチェビを収容して管理するために、既存の地域にあった孤児院の他に、追加して孤児院を作ったり、継母学院を増設していった。
 多くの孤児院が作られたが、支援体系の限界、収容能力の限界を既に超えた状況においてコッチェビを養うのが困難になった孤児院の中には、彼らを強制的に追い出すところも現れた。

 「平安南道(ピョンアンナンド)の孤児院で勤務しているコ・ファジャさん[48歳]さんは、その孤児院も1日1食のおかゆを与えていたと言い「子どもたちがこれだけで生きられるというの? 死ねと言うのに等しい」と語った。コさんは「あまりに食べものがなく、孤児院や救済所では子どもたちを外に送り出すところが多い。中にいても病気で死んだり飢え死んだりだから、誰も孤児院にいたがらない。子どもたちも出たがるし、孤児院は孤児院で食べ口を1つでも減らしたいから」と言った」[良い友「今日の北韓ニュース」131号、2008年5月27日]

■孤児の養子縁組キャンペーン
 コッチェビの問題を解決するための方便として、その後、当局が奨励したのが孤児養子縁組キャンペーンだった。孤児の養子縁組は、1990年代半ば以降続いたが、本格的に始まったのは1990年代末からである。孤児の養子縁組は、正式な養子縁組手続きを踏んでコッチェビを連れてきて育てるのではなく、駅前や市場などでたまたま出会ったコッチェビを連れてきて育てるだけのことであった。だからコッチェビ養子縁組は、国家的な政策で活性化したのではなく、社会のレベルで住民が彼らを憐れんで始まったのだ。

 「90年代半ば以降、コッチェビを拾って育てた咸鏡北道(ハンギョンプット)穏城(オンソン)郡豊西里(プンソリ)孤児院院長リ・フィスンに母性英雄称号を授与し、「リ・フィスンに習おう」キャンペーンまで行ったという。彼女は孤児を1人、2人と連れて来て育て始め、2008年にはなんと170人にまで増えた。この過程で、孤児院という名称がつけられ、外国の訪問者たちに模範事例として紹介している」[良い友「今日の北韓ニュース」379号、2010年12月1日]

 養子縁組政策は、地域で見習うべき道徳的模範事例として宣伝された。該当地域の党委員会、行政経済委員会などで、道徳的な賞賛を与えたり、「全国母親大会」で「母親英雄」という名誉を与えたりしたが、続く経済危機の中で、名誉は大きな力を持たずに、コッチェビ養子縁組はほとんど失敗に終わった。
 当局はこれに代わる新しい案として、コッチェビを建設突撃隊として建設現場に送り出したり、集団農場の青年分組制[ブンジョジェ=生産計画の遂行のために労働者をグループ分けする仕組み]を作ったりもした。平安南道の各市、軍の救済所ではコッチェビ80人余りを白頭山(ペクトゥサン)建設突撃隊に送ったが、脱走したコッチェビが60人にのぼる。食べものが不足して栄養失調にかかったうえ、腸疾患にかかったコッチェビが多かった。また、寒さで風邪にかかったり伝染病にかかったコッチェビもいた。
 
■コッチェビ青年分組制
 江原道(カンウォンド)平江郡(ピョンガングン)協同農場が、コッチェビ青年分組を作ったが、親が早く死んだり、行訪不明になったコッチェビ出身者50人で構成していた。午前6時30分起床、7時30分から農場の仕事を開始して一日中労働をさせた。コッチェビは放浪する悪い生活習性があるとして事実上の強制収容所に近い統制をしていると思われる。また、名前だけが青年分組農場員であり、収容所と変わらない生活で、まともに食べさせてもらえないうえ、統制も厳しく、コッチェビの頃より生活は苦しいようだと伝えられている[良い友「今日の北韓ニュース」407号、2011年6月15日]。
 北朝鮮の農業はエネルギー難のため、機械化できず、牛や人力で農業をするしかない。そのため、人手が足りなくなる田植え、草取り、収穫に各工場、企業所、学校などから農村に動員が行われる。農村動員は基本的に人材不足を補うため行われ、コッチェビたちを集めて、青年分組を構成して若い労働力を補充するのである。北朝鮮の協同農場には、すでに青年分組や青年班があり、これらは通常、除隊軍人の集団配置[別の組織に集団で配置すること]やその地域の学校を卒業した青年たちで構成したものだが、男性は軍の徴兵があるので、実際には女性が大部分だった。しかし、2000年代半ばから、コッチェビを管理・活用するために青年分組や青年作業班を作って、強力な統制を実施した。
 コッチェビ青年分組は全国各地でつくられた。江原道平江郡、咸鏡北道会寧(フェリョン)市永綏里(ヨンスリ)農場、平安南道平城(ピョンソン)市などだ。コッチェビ青年分組はすべてのコッチェビが対象となるのではなく、労働できる状態かどうかを考慮し、救護所と旅行者集結所で組織して送られる。旅行者集結所は地域を行き来する人たちの中で旅行証を持っていないもの、ホームレス、または違法越境者と疑われる場合、または一般住民のように見えるが、居住地が確認できない人々を収監するところである。[良い友「今日の北韓ニュース」273号、2009年4月7日]によると、平安南道平城市の場合、コッチェビたちを農場労働力として活用するために、旅行者集結所とコッチェビ救護所でそれぞれ35人と29人を選抜して青年分組を構成した。孤児院に入るべき未成年のコッチェビがほとんどであるにもかかわらず、青年分組に配置されており、未成年の強制労働そのものである。
 従来はコッチェビたちを帰宅させる方法を優先的に考えたが、家庭環境の問題を認識し、とりあえず一時的な住居を用意する形に変化した。それも限界に来ると、始めたのが集団農場の強制配置であった。

■統制の限界
 当局の統制力が低下した原因として、統制する側の意欲の問題があげられる。
 統制力を執行する保安員は、コッチェビを取り締まったとしても、物質的に利益を得る取引材料がないので、取り締まり期間にだけ少し取り締まるだけである。期間が終了すると、コッチェビはふたたび放置される場合が多い。
 「良い友」によると、「保安員にとってコッチェビたちはただ面倒な存在だった。取り締まっても成果も出ない、賄賂も受けられない、まったく無駄な存在だというそのような理由からか、安全員はさる1月と2月、2ヶ月間に恵山市で死んだコッチェビ数が40人を超えたと平気で言った」という[良い友「今日の北韓ニュース」400号、2011年4月27日]
 また、コッチェビを直接取り締まる9.27常務や保安員は、コッチェビをいくら取り締まったとしても、昇進や表彰とは程遠いので、積極的な意欲が生じない。彼ら取り締まり員はコッチェビを管理する必要性を感ずることができず、当局の統制は形式的なものになっていた。

 当局の統制が弱体化した第1の要因はコッチェビ収容施設の収容能力の限界である。
 コッチェビが1990年代半ば約2万人程度で、1990年代末には、なんと10倍にも増加することになった原因は、まさに食糧問題である。したがって、北朝鮮がコッチェビを統制するために、基本的に解決すべき問題は、食糧配給を正常に戻すことである。
 第2には、統制能力[人材]の限界である。コッチェビの取締機関ができたとはいえ、数は少なく、コッチェビの増加に追い付いていない。列車に乗って移動したり、あの村この村と移動しながら活動するコッチェビたちもかなり多いので、彼らを捕まえるのは非常に難しい仕事である。また、コッチェビたちの中には身ぎれいな服を着ているケースも多く、親と子のように装って歩いたり、最初から集団で安定した居住地を確保し、生活している場合もあるので取り締まりには限界がある。
 第3には、彼らを管理する施設が不足している点である。安定的に管理するためには、基本的に孤児院、救済所、救護所などの管理機関を大幅に増やす必要がある。しかし、現在の北朝鮮の実情では、これらの管理機関を拡張する予算は絶対的に不足している。
 第4は、統制する機関と統制されるコッチェビたちの間に何の利害関係も成立しないという点である。統制力を行使する機関が一般住民を対象とする場合には、権力を通して彼らを保護してやる代わりに住民から物質的な見返りを得る利益関係が成立する。しかし、コッチェビの場合は、取り締まりをしても、何の対価も与えられないため、形式的な取り締まりになるのである。
 このほか、コッチェビが味わう自由も統制を困難にする重要な要因である。1990年代以前までは、北朝鮮の組織的統制はある程度なされたし、一般住民の間でも、組織生活は必ず守らなければならないという認識が強かった。しかし、家出や組織からの離脱を繰り返し経験したコッチェビたちは、このような認識がなく、自由な活動に慣れていく。コッチェビの生活に慣れてきたら、強力な制度的統制を介して体制を維持しようとする北朝鮮社会に適応するのは、なおさら難しくなる。
 コッチェビは互いに結束しながら、組織的に活動することが増え、これらが北朝鮮体制への抵抗要因に発展する可能性がある。救護所や孤児院などから脱出する程度の消極的な抵抗にとどまらず、管理および取締り機関に積極的に対抗する状況も現れている。

 「江原道鉄原(チョルウォン)郡と平安(ピョンアン)郡などでは、2007年に両親が死んだか行方不明者であるため、保護者がいないコッチェビの中から、社会に出られる年齢になった子どもたちを集めて農場に配置した。青年分組に所属して農作業をしていた子どもたちは、昨年の決算総和[チョンファ=総括]のとき、現金分配もまともに受けられなかった。農場の労働者が半分以上を取ってしまったからである。それでも子どもたちは黙々と働いた。しかし、今年7月29日、この地域に大雨が降り、青年分組が担当したトウモロコシ畑が被害を受け、穀物の収穫に大きな支障が出ると、農場の労働者は「なぜ事前に対策を立てなかったか」と大声を出し「今年決算総和をするときに努力日収と工収を打ち切る」と語った。子どもたちは「ひどすぎる。それならこれまで私たちに支払わなかった現金分配をすべて支払って欲しい」と労働者に楯突いた。怒った農場管理委員長が村の青年書記を指して青年の分組員たちに厳しい思想闘争会議をさせた。村の青年書記は青年分組員を宣伝室に集め、幹部に反抗した子ども4人に容赦なく暴力をふるった。これに憤慨した他の子どもたちが村の青年書記に襲いかかり、袋叩きに合った村の青年書記は病院に運ばれた。コッチェビの子ども20人がその日逃げてしまった。青年分組員コッチェビは全部で27人だったが、20人が逃げてしまって農場は苦しい状況になった。最終的にこの問題が郡党に提起された。郡では「幹部が事業をおろそかにして、青年分組員の子どもたちを適切に定着させられず逃げ出させた」とし、幹部を批判した。郡はこの問題を日報として道党に上げ、その農場の管理幹部たちを解任することを建議した」[良い友「今日の北韓ニュース」296号、2009年9月15日]

 コッチェビたちで構成された青年分組は、強力な統制と組織生活をしなければならず、監獄のような生活になるため、これに対応するコッチェビたちは、より一層積極的になる。
 このように変化していくコッチェビたちの対応から、北朝鮮社会の二重性を見ることができる。生き残るための彼らの行動が他の被害者を生み出し、社会をより混乱させた面も否めないが、一方では、北朝鮮の不条理な政治体制への不満と抵抗の姿を見せてくれるという点では、新たに光りを当てるべき重要な存在である。