伊丹十三さん 映画監督としての素地を作った俳優時代の業績

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2月15日に発売された雑誌『ケトルVOL.47』は、特集のテーマとして「伊丹十三」をピックアップ。映画監督として数々の傑作を残した伊丹十三さんを大特集しています。伊丹さんを語る際、一般的には「映画監督」という呼称が使われることが多いですが、俳優としても抜群の存在感を持っていたのは、映画ファンには有名な話し。映画監督としての素地を作った俳優時代を振り返ってみましょう。

晩年、映画監督としてその才能を発揮した伊丹さんですが、その素地には俳優をしていた頃の経験が大いに活きています。商業デザイナーとしてのキャリアを捨て、舞台芸術学院で芝居を学んだ伊丹さんは、1960年1月、26歳の時に大映に入社します。

当時の芸名は「伊丹一三(1967年に伊丹十三へと改名)」。その頃の大映社長・永田雅一さんが、名付け親です。そして2月公開の映画『嫌い嫌い嫌い』でスクリーンデビュー。その年は、ほかにも『男は騙される』『銀座のどら猫』『偽大学生』といった映画に出演します。

しかし翌年、日本映画界の巨匠・市川崑さんが監督を務めた『黒い十人の女』への出演を最後に、伊丹さんは大映を退社。そしてすぐに『理由なき反抗』などの監督を務めたニコラス・レイがメガホンを取った『北京の55日』に出演するために、ヨーロッパへと旅立ちます。ちなみに、この時に見聞したものを帰国後にまとめたのが、稀代のエッセイ集『ヨーロッパ退屈日記』になりました。

1963年11月。『北京の55日』が公開された直後、伊丹さんはロンドンでスクリーンテストを受けていました。リチャード・ブルックス監督の『ロード・ジム』に出演するためです。ここで伊丹さんは、流暢な英語を話す日本人俳優(しかも、大柄!)として注目を集めることになり、見事に出演の切符を手に入れることに成功。すぐさまカンボジアでロケが行われました。

この『ロード・ジム』が公開されたのは、それから2年後の1965年。この年に伊丹さんは、人生初となるテレビドラマにも出演します。後に妻となる宮本信子さんと初共演を果たした「あしたの家族」を皮切りに、「源氏物語」では主役の光源氏役を務めることに。一気に活躍の場を広げました。

その後も伊丹さんは、数々の作品にキャスティングされます。中でも1983年、50歳の年に出演した『細雪』『家族ゲーム』『居酒屋兆治』での演技は、俳優としての到達点との呼び声も。この年、伊丹さんはキネマ旬報賞助演男優賞や報知映画賞助演男優賞を受賞。その評価を不動のものにしました。

◆ケトルVOL.47(2019年2月15日発売)

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※この記事は、「太田出版ケトルニュース」に当時掲載した内容を当サイトに移設したものです。

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