いがらしみきお
特別インタビュー

いがらしみきお

――――― 先頃、いがらしさんの『かむろば村へ』が松尾スズキさんの手で『ジヌよさらば〜かむろば村へ〜』(15)として映画化されましたが、最近映画は御覧になってらっしゃいますか?

いがらし 昔ほどではないですね。でも、毎週1回は映画館に行ってますよ。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15)はもう3回も観ています。最初は、70才のジョージ・ミラーがまた監督するというのでちょっと半身に構えていたんだけども、まさかあんなに面白いとは。ブッ飛んでたねえ〜。観ながら、「この歳になって、こんな映画と出会えるとは!」という悦びと感動がドドっと押し寄せて、少し涙目になりましたよ。

――――― おお〜! 翻って、最近の漫画のほうはどうですか。

いがらし 日本の漫画界で、あそこまで初期衝動だけで突っ走れる人はいないんじゃないか。言い換えれば、『マッドマックス』的な、マイルストーンと呼べる作品は過去にはごろごろあったってことです。ところが映画界ではいまだに出てくる。『マッドマックス』だけではなく『神々のたそがれ』(13/監督アレクセイ・ゲルマン)なんていうハチャメチャでスペクタクルに汚い……もちろんこれは褒め言葉ですけどね、そんな3時間の作品が誕生し、普通に公開されている。まだまだアナーキーなことをやれる人が生息してる映画界って怖くて、素晴らしいなあ。漫画界では無理でしょう。

――――― どちらもエクストリームな作品ですね。ゲルマン監督は惜しくも74才で亡くなってしまいましたが、日本の漫画界には、いがらしさんがいます!

いがらし それは過大評価ですよ。

――――― いやいや、最新刊『誰でもないところからの眺め』のエクストリームさと言ったら! 東日本大震災から3年後の宮城県を舞台に、〈私〉を疑い、〈家族〉を疑い、〈言葉〉や〈社会〉を疑って、読む者を深い深い〝沈黙の彼方〟へと連れ去る。あの作品はどのような経緯で描かれたんですか?

いがらし もともと、認知症などで自分の記憶を失ったあとも〈私〉は〈私〉のままなのか、それとも別の〈私〉が生まれるのか……と、そういうことをずーっと考えていたんです。で、前作『I(アイ)』で長年描きたいと思っていた「神様と〈私〉」をテーマに、3年間連載を続けたんですけど、〝神様〟のほうにどんどん引きずり込まれてしまって、〈私〉に関してはそんなに追求できなかった。どこかやり残した気持ちがあったところ、昨年、未知の編集者の方から執筆依頼の手紙をもらって、そこで〝遊動民〟というキーワードを提示されたんですよ。そうしたら〈私〉というテーマの結末と〝遊動民〟が繋がって、「これだ!」と閃いて。

――――― 詳しくは明かせませんけども、黙示録的な後味が残りました。

いがらし まあ一言でいえば〈私〉を捨て去った人たちのトライ、新たな共同体の〝芽生え〟を漫画にした感じですかね。人間っていうのはトライ&エラーの繰り返しですが、そのことに意味があるかというとさしたる意味はないと思う。むしろわたしは、意味なんてものから脱出したいんですよ。

――――― ふと思い出したのは、12年に出された自伝的エッセイ『ものみな過去にありて』の中の、「幸せというのはもしかして、自分がなんなのか、どこから来たのか、そしてどこに行くのか、それを忘れていられる時のことを言うのでは」という印象的な一文です。

いがらし 意味の世界から脱け出したあと、そこから始まるものもあるかもしれない……と考えるんですよ。思想家の方々は、論理で自分の考えを彫刻みたいにどんどん形にし、意味を築き上げていく。ただ、それを実践するのは誰なのか。書き手本人なのか読者に「実践したまえ」と訴えかけているのか、そのへんがいまひとつ曖昧で、だから普通の人は思想というものに取っ付きにくさを覚えてしまう。わたしの場合は本能的に、自分の勘に、予感に従って描いているだけ。読者の皆さんにも本能で感じていただければいいんです。

――――― 予感ですか。なるほど、いがらし漫画はときに、予言めいた展開をすることがありますよね。

いがらし 「預言者みたい」と言われたことはあります。神様の言葉を預かって、民に届けるほうの〝預言〟。といっても単に、態度が大きいからなんだけど。子供の頃からね、キライな奴には口を開けば「お前さあ、明日、大ケガするかもしれないから気をつけろよ」って、ビビらせることばかり言っていた。預言というより恫喝でしたね(笑)。なぜそういう振る舞いをしたのかといえば、誰ともつるみたくなかったからです。ずーっと孤立していたかったので。

――――― 群れたくなかった、と。

いがらし そうそう! 群れるのが大の苦手なんですよ。人間、ひとりでいるぶんにはさして問題は起こさないのに、2人以上になるともうダメ。群れるというのは端的に言うと、ヤンキー文化なんですね。「お前はそのままでいいんだ」と、集団の中に埋没した自分を肯定してくれる文化。わたしはデビューして以来一貫して、人間社会すべてに対して懐疑の眼差しを向け、問題提起ばかりしてきたと思います。だからヤンキー文化とは相容れないんですよ。嘘くさいじゃないですか。嘘くさいものを見るとついつい攻撃的になってしまいますね。テレビを見てても画面に向かってディスってばかり。娘に「うるさいからあっちに行って!」と言われてしまう(笑)。

――――― あははは。例えばどんなことをディスっちゃうんですか。

いがらし お笑い番組でも、芸人たちが群れていると怒りがふつふつと涌いてくるし、それから、芸能人やスポーツ選手が何か賞をもらうと、「皆さんのおかげです」とか「支えてくれた家族に感謝します」ってよく言うでしょ。あれは「皆さんや家族に感謝できる人間」と、人前でアピールしてるのと同じで、つまりは「私はいい人間なんです」と自己宣伝してるのと変わらない……って、何だか酔ってカラみまくってる飲み屋の客みたいじゃないですか、わたし?

――――― いえいえ(笑)。では再び漫画の話に。テクニカルなことをお訊きしますが、前作『I(アイ)』と『誰でもないところからの眺め』とでは、コマ割りやアングルのタッチが変わったと思うのですが。

いがらし 最初ね、『誰でもないところからの眺め』は構想としては、「群像劇をやりたい」と。ところがテーマが何しろ〈私〉なので真っ向から矛盾するわけですよ。なのでいろんな登場人物が出てきて、群像劇的に進んでいき、なおかつキャラクターそれぞれの〈私〉が刻一刻と変わっていくのを順々に捉えています。それに比べると『I(アイ)』の視点というのはもっと俯瞰的で客観的。時々、「いがらしさんの絵の構図って神様からの視座ですよね」と言われることがあるんですが、わたし、ごく普通に描くと全部俯瞰になっちゃうんです(笑)。たぶん、4コマ漫画をやっていたのが一番の影響だと思いますね。コマが4つしかないので、ひとコマで説明できるアングルを探すと、ついつい俯瞰になる癖がついているんです。ですから必ずしも神様の視座というよりも、手癖みたいなものなんです。

――――― 『誰でもないところからの眺め』が完結した今、次のビジョンはございますか?

いがらし 「神様と〈私〉」というテーマに関しては、もういいかな。じゃあ別なものとは何か。神様でも〈私〉でもないもの……つまりそれは〈他人〉ですね。ずーっと自分のことばかり描いてきましたからね、『ぼのぼの』も含めて。その『ぼのぼの』は、わたしではなくあえて赤の〈他人〉に任せ、「脱いがらしみきお」化を試みてみようかと思っています。文法的にも技術的にも成熟した漫画というジャンルですが、まだ壊せる余地はあって、トライ&エラー、スクラップ&ビルドはやったほうがいい。あと、赤の〈他人〉にインタビューをして、ある人物が生まれてから死ぬまでをたったの12ページくらいで描きたい。山田風太郎に『人間臨終図鑑』という著書がありまして。大好きな本なんですが、取り上げられているのは歴史的に有名な人ばかりなんですね。わたしは、有名な人には興味がない。描くのならば市井の人々、それも完全に無名な人がいい。

――――― いがらしさんの脳内を通しての〈他人〉の一生ですね。

いがらし そうです。わたしが赤の〈他人〉としてダイジェストしちゃう。やっぱり臨終のあたりが一番、ページ数を使うでしょうね。偉人伝ではない、ごくごくとりとめのない一生、ドラマチックではない人生をこそ描きたいです。

いがらしみきお
このインタビューは、『Quick Japan』vo.121に
掲載されたものを再編集したものです