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金革(キム・ヒョク)=著
金善和(キム・ソンファ)=訳

この論文は、韓国版『自由を盗んだ少年』に第二部として収録されている、西江(ソガン)大学公共政策学科の修士論文として書いたものを、日本の一般読者向けに編集したものです。日本版書籍では未収録となったこの論文を、当ページでWeb公開いたします。

第2章 コッチェビとは

『自由を盗んだ少年 北朝鮮 悪童日記』
著=金革(キム・ヒョク)/訳=金善和(キム・ソンファ)/2017年9月9日刊行

■「コッチェビ」の語源
 「コッチェビ」という言葉は北朝鮮の公式用語辞書には存在しない。これまでコッチェビの語源は、ロシア語の「kОЧЕВЬЕ(コチェビエ)」から来たという説と中国語の「花子(ファーズ)」から来ているという説が支配的であった。まず、ロシア語源説は、北朝鮮の小説を除いては、どこにもその痕跡を見つけられなかった。「コッチェビ」という用語を直接つかった北朝鮮の実話小説『不滅の歴史』シリーズ『閲兵広場』では、ソ連の人々が使った言葉を住民が勝手に解釈したものだと主張している。

 「ぼろのような服を着て、人々に散々踏みつけられたボロボロの麦藁帽を被り靴底が剥がれた地下足袋をはいた彼を見て子どもたちが追いかけながら「あっコッチェビだ!」と叫んだりした。埃と垢と皮脂に塗れた頭、精気のない眼、気の抜けた姿を「コッチェビ[花つばめ]」という全く似合わない叙情的な名前で呼ぶことはなんと無邪気なからかいだったろう。実際にその子たちは、ソ連の人々が流浪者、あるいは流浪者の居場所を指して言うコチェブニク、コチェボイ、コチェビエという言葉を勝手に解釈して使ったものだが、ハン・ジョンサムは一日中あてどもなしに彷徨った」 [チョン・ギジョン,2001: pp.95-97]

 この小説は2001年に出版された本で、解放直後の社会像を背景にした内容を盛り込んでいる。この小説によると、コッチェビという用語は、ロシア語の「コチェビエ」を勝手にコッチェビと解釈して使い始めたとしている。
 このほか、中国の「花子」説は、発音や意味がコッチェビとは全く違い信憑性が落ちる。「コッ」が乞食を意味するというが、発音や漢字の意味が全く違って無理がある。これらの主張は、一般的になじみのない名前の語源がわからない場合、外国の用語で類似した言葉を探す傾向のせいだと思われる。

※訳者注
2017年時点の著者の話では、1920年生まれの韓国の小説家、チュ・シクが短編小説『コッチェビ』を1958年に発表していた[『チュ・シク小説選集』2013年、ソウル、現代文学社刊]ことから、「コッチェビ」という言葉はロシア語から発生したものではないという。なぜなら、『コッチェビ』という小説に出てくるのはソウル市内の浮浪児たちであり、38度線の南のソウルでロシア語由来の言葉が使われたとは考えにくいからである。著者の推測では、北朝鮮当局がコッチェビの存在を否定するために意図的に『閲兵広場』の中でソ連人が使った言葉から派生した説を書かせたのではないかという。

■「コッチェビ」の定義
 「コッチェビ」という用語自体は、解放直後から存在していたが、一般社会に広く知られ始めたのは1990年代の初めからである。コッチェビは、彼らの間で「花(コッ)咲く春が来れば飛んでくるつばめ(チェビ)」という意味に解釈された。脱北者Bの証言によると、それはコッチェビが寒い冬には減少するが、暖かい春になると急増するためだという。一方、脱北者Cの主張によると、コッチェビという名前は、惨めな感じにならないよう、逆説的に「花つばめ」を意味するきれいな名前を付けたのだという。
 上記の2つのコッチェビの解釈の中でも、脱北者Bの季節を理由にした解釈がより適切であると思われる。つまり、コッチェビはその性質上、住所不定で渡り歩く生活が基本であるため、寒さが厳しい冬は、凍死する危険性が非常に高く、もっとも生きのびることが困難な季節だ。寒さを凌ぐためにコッチェビたちは、暖かい駅前に集まるようになるが、それを狙って当局は駅前の取り締まりを強化し、「コッチェビ救護所」に連行する。取り締まりから逃れることができても、温かいねぐらを失い、寒さの中で死亡するコッチェビが増える。そのため、冬にはコッチェビの数が大幅に減少するのだ。しかし、暖かい春が来ると、凍死する危険性が消え、寝泊まりできるところが増え、コッチェビ数は大幅に増加する。こうしたコッチェビの特性を指して、一般住民だけでなく、コッチェビ自らも「花咲く春が来れば飛んでくるつばめ」と呼ぶようになったのだ。
 本論では、コッチェビとは、北朝鮮社会で適当な住まいがなく、駅前、食堂のボイラー室、団地の地下など統制がおよばない場所で寝起きし、正式な生産活動に従事することで得られる配給を受けず、反社会主義的行為で生活する者をいう。つまり北朝鮮の統制空間から外れ、法的保護を受けられない状態の人である。放浪者、ホームレスなど、さまざまなコッチェビ[老チェビ、軍人チェビ、青チェビ等を含む]と呼ばれる人々を総称してコッチェビと定義する。

■北朝鮮で「コッチェビ」がなぜ否定されるか
 1990年代、北朝鮮で食糧危機が発生し、放浪青少年たちの数が急増するにつれて、彼らに対する国際社会の関心が高まった。北朝鮮の人権問題、特に「青少年の人権問題」が提起される一方、北朝鮮は社会主義社会の名目上存在してはならないコッチェビを当然ながら否定した。
 1997年8月21日、国連人権委員会傘下の人権小委員会は「北朝鮮人権決議案」を初めて採択した。その内容は、①強制送還された脱北者の処遇改善、②北朝鮮人権定期報告書の提出、③食糧難による被害復旧支援などがある。国連人権小委員会決議案の採択について、北朝鮮は8月28日の声明で、「第1に、50カ国が同様に定期的な報告をしていないのに北朝鮮だけが、指摘されるのは不当であること。第2に、北朝鮮の人権侵害の証拠を提示することを要求。第3に、これらの決議は敵対国が北朝鮮の人権問題を政治化しようとする策動であること。第4に、国の主権と尊厳を守るための対抗措置としてICCPR[International Covenant on Civil and Political Rights、市民的及び政治的権利に関する国際規約、自由権規約ともいう。北朝鮮は1981年9月14日加入]から脱退して、子どもの権利条約[北朝鮮は1990年9月21日加入]の施行に関する報告[1997年9月30日が提出日]を延期すること、規約を脱退しても、従来のように、同規約上のすべての権利を共和国人民に保証すること」と主張したという[北韓人権市民連合1997: pp.44-46]。
 その直後、北朝鮮当局は「9.27常務組(サンムジョ)」を組織して、コッチェビの大々的な取り締まりを実施した。1998年12月21日付のハンギョレ新聞によると、1997年9月27日に「9.27常務組」が作られ、増え続けるコッチェビたちのための「9.27常務収容所」を設置したという。

■解放後~1960年代 無政府状態の混乱
 1945年解放当時、社会にはホームレスたちが非常に多かった。ホームレスは大人だけではなく青少年にも多く発生し、それは、無政府状態がもたらしたものだった。1946年、東亜日報の社説を見ると、コッチェビに分類されたホームレスたちによる少年犯罪が深刻な社会問題だったことがわかる。

 「少年犯罪はだいたい環境犯罪が多い。すなわち、複雑な家庭の事情、悪い交友関係、映画館、喫茶店、カフェ等の誘惑が原因となり、遊ぶ金ほしさに強窃盗等犯罪に手を染めたり、彼らを操って犯罪を唆す悪徳な輩が背後にいることは決して見過ごすことはできない現象だ。このような一般的原因以外に、特殊な原因として家庭によっては、父兄の監督力が弱いことにその原因がある」[東亜日報社説、1946年4月2日]

 北朝鮮は解放以後、労働能力を喪失した人に対し、社会保険を適用して保護と管理をした。これは、当時「家と家庭をなくし一定の居所がなく放浪する人」が相当数存在しており、彼らが社会秩序を混乱させうるという認識から始まったものである。

 「いま平壌には職がなくて街をさまよっている人、孤児や身寄りのない老人が少なくありません。もしこれを放置するならば、かれらは安定した生活ができないばかりでなく、社会秩序をみだす恐れがあります。したがって、政権機関と連絡をとって職がなく流浪している人を調査して職業を斡旋し、孤児や身寄りのない老人に安定した生活ができるよう対策を立てるべきです」[金日成『金日成著作集2』1979: pp.83-84]


 北朝鮮は1948年、憲法で社会保険制度を導入したが、実際には年老いて労働能力を喪失した場合にのみ、物理的な援助を受けられるようにした。憲法第17条は、「社会保険制度の適用を受けることができる公民が老衰、病気や労働力を喪失した場合には、物質的援助を受けることができる。この権利は、国が実施する社会保険制による医療上または物質的保護を保障する」と規定している[北韓資料センター、1948年「朝鮮民主主義人民共和国憲法」第17条]
 孤児が援助の対象として明確に規定されるのは1972年だ。世話をする人がいない孤児も物質的援助を受ける権利があるとして、憲法に保護する条項が追加された。憲法第58条で、「公民は、無償で治療を受ける権利を有し、高齢や病気、または身体障害により労働能力を失った人々、世話をする人がいない老人たちと子どもたちは、物質的援助を受ける権利を有する。この権利は無償治療制、今後も増える病院、療養所をはじめとする医療施設、国家社会保険と社会保障制によって保障される」と規定したのだ[北韓資料センター、1972年「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」第58条]。朝鮮戦争後、孤児の数が急激に増加したことがその背景にはあった。
 1950年に勃発した朝鮮戦争は、戦争孤児だけでなく、戦災民[戦争で災害を受けた住民]、労働能力喪失者等も大量に発生させた。その対策として出てきたのが、他の社会主義国に孤児を委託し養育してもらうことと、孤児院の建設、戦災民収容所の建設などだった。
 北朝鮮は1952年から1959年まで、ルーマニアには3000人、中国には約2万人あまりの孤児たちを送って委託養育を受けさせた。

 「全中国人民は戦う朝鮮人民を物心両面で援助するために抗米援助運動に積極的に参加しました。中国人民は莫大な量の食糧と救援物資を朝鮮人民に送り、2万人あまりの、私たちの戦争孤児を実子のように育ててくれた」[金日成『金日成著作集13』1981: p.393]

 2004年に放映されたKBS企画放送「私の夫はチョ・ジョンホです」によると、北朝鮮は1952年から1959年まで3万あまりの戦争孤児たちを東欧社会主義諸国に送り委託教育を受けさせたという。
 
■孤児院政策
 北朝鮮の孤児院は、革命家の遺児を対象とした革命学院と、それ以外の孤児を対象にした一般学院に区別できる。革命学院については、1947年に平壌万景台(マンギョンデ)革命学院を、1951年には、現セナル革命学院[東林学院]と康盤石(カンバンソク)遺児大学[南浦革命学院]などをそれぞれ設立した。

 「万景台革命学院が創立されたとき草履にボロ服を着て学校に来た同志たちが、わが党の中堅となり、国の立派な民族幹部に育つことができたのは、完全に首領様の恩恵と配慮の結果です。首領様は解放後、国の状況がどんなに難しい中でもまず万景台革命学院を作られ、抗日革命闘争で犠牲になった烈士の遺児を一人一人探し出して学院に連れて来て勉強をさせてくださいました」[金正日著『金正日選集1』1992: p.315]

 革命学院に対する金日成の関心は非常に高く、待遇も他の一般学院に比べてよかった。

 「みなさんの両親は、祖国が解放されたら、みなさんを勉強させてりっぱな革命家に育てるよう、わたしに言い残しました。わたしはこの遺言が忘れられず、久しい以前から革命家の子弟を勉強させる学院の創設について考えてきました。そして今日、わが党と共和国政府の厚い配慮と人民の真心によって、ここ万景台に革命家遺家族学院がりっぱに建てられました。こうしてみなさんの両親の遺言はとうとう実現しました」[金日成著『金日成著作集4』1979: p.506]

 万景台革命学院創設に際しての金日成の言葉である。革命家の遺児たちを対象にしたエリート教育の基盤が革命学院であり、党国家体制を維持するための第2世代育成がその目的であることが明確に語られている。こうした差別的な扱いは、1949年1月、北朝鮮労働党中央委員会政治委員会において露骨に表れていた。

 「革命家の遺児たちの教育に党的関心を向けるべきです。かれらはかけがえのない貴重なわれわれの後継者です。かれらのためには、なにも惜しむことはありません。

 現在、一部の活動家は、革命家の遺児の教育にあまり関心を払っていません。地方の党組織では、遺児を探し出して学院に入学させる仕事をおろそかにしており、幹部によっては、学院への石炭供給なども適時におこなっていません。

 各級党組織とすべての幹部は、万景台革命家遺家族学院を創立した目的と意義を明確に認識し、革命家の遺児の教育に深い関心を払うべきです。各級党組織は、各地方の革命家の遺児を残らず探して学園に入学させるべきです。同時に、万景台革命家遺家族学院から提起される問題をそのつど解決すべきです。

 わたしは、みなさんがきょうの会議の趣旨にもとづいて、これまでの欠陥を速やかに是正し、革命家の遺児の教育に新たな転換をもたらすよう望みます」[金日成『金日成著作集5』1980: pp.29-30]

 北朝鮮の孤児政策は孤児を身分に応じて区別し、革命学院が最高のエリートグループを形成する中核的手段となった。一方、一般孤児を対象にした一般学院は、革命学院設置から少し遅れて、1950年代に入ってから建設され始めた。一般学院は6~9歳の小学校過程を担当する初等学校と、10~15歳の中学高校過程を担当する中等学校で分かれており、それぞれ道[北朝鮮の行政区分で日本の県に該当する]ごとに設置された。

 さらに北朝鮮は、外国に委託養育に出していた孤児たちを1959年までにすべて帰国させた。
 当時、北朝鮮は1956年に起きた8月宗派事件[朝鮮労働党内部の「ソ連派[背後にソ連共産党]」と「延安派[背後に中国共産党]」による金日成の失脚を狙った事件。結果的には「ソ連派」と「延安派」は粛清された]の後、反対勢力を排除することで、金日成が政治的安定を成し遂げていった時期でもあった。
 孤児の帰国事業は2つの意味を持った。他国に出ている孤児たちが内政干渉の口実になるかもしれない点を憂慮したこと、もう1つは、産業化に必要な労働力を確保するためだった。当時、農業の協同化が完成[ソ・ドンマン『北朝鮮社会主義体制の成立史』2005: p.719]され、産業の発展のため労働力が切実に必要とされた。実は、日本における在日同胞帰国事業[1959年~1984年に日本から北朝鮮に約9万人が帰国した]の推進にもこうした事情があった。
 帰国した孤児たちは生産現場に投入され、幼い孤児は一般孤児院で養育され、一時的にコッチェビたちは姿を消した。こうした状況を受け、金日成は1960年の「8・15解放15周年慶祝大会」で「残酷な戦争を経験したにも関わらず、今では国から安定した生活の保障を受け、流浪者もなく、乞食もいません」と主張した。

 「我が国では身寄りのない人、身体障害者、老人、孤児などもすべて国家から安定した生活を保障されています。わが国はもともと立ち後れていたうえにきびしい戦禍までこうむったにもかかわらず、いまでは流浪民やホームレスなどがいません」[金日成『金日成著作集14』1981: p.222]

 しかし、1969年12月党中央委第四期第20次全員会議では、金日成は一転して、社会に不良青年たちが現れており、青年たちを教育改造できていない労働党幹部たちを批判した。

 「われわれは、祖国解放戦争のあのきびしい時期にも社会秩序を乱していた孤児を教育改造したのに、まして今日のような状況のもとでわずかばかりの不良青年を教育改造できないはずはありません」[金日成『金日成著作集24』1983: p.404]

 これは、孤児に対する各種収容施設の充実、また労働力としての動員が、ある程度の効果を収めたにもかかわらず、1960年代半ば以降、再びコッチェビたちが現れたことを意味する。その要因の一つが、1960年代半ばから始まった「唯一思想体系」の構築だった。北朝鮮は当時、住民の出身成分の再登録作業を進めていた。

■北朝鮮の階層区分
 北朝鮮は1958年から1970年のあいだに、住民を3階層51の出身成分に分けて管理してきた[1990年代以降、3階層45成分に再分類した]。3階層とは、核心階層は約28%、動揺階層は45%、敵対階層は27%程度を占めた。成分の分類上、核心階層には、革命家とその遺族、栄誉軍人、金日成接見者、英雄と功労者、除隊軍人などが含まれ、敵対階層は政治的に複雑な問題がある層で地主や資本家とその家族、富農、越南者、親日派などが含まれる。[統一研究院2009: pp.331-332]中間層である動揺階層は単純な労働者、農民、インテリで政治的な問題はないが、核心層に属していない住民がその対象となる。
 労働党員は核心層に含まれ、党員数は1980年の第6回党大会で320万人と推定された核心層は党員であるため、政治、社会、経済、文化的インセンティブが支払われることによって、動揺階層とは異なり、経済危機が発生したときも影響を受けなかったと考えられがちだが、実際には1990年代、北朝鮮に経済危機が起きたときに、党員の多くが飢餓に苦しみ死亡した。これらの党員は、党への道徳的忠誠心が高い人だったがゆえに、非社会的行為などもできず、むしろ飢えて死ぬ道を選んだのだ。当時餓死した党員の数を推定するのは難しいが、一般住民よりも、党員のほうが多かったと思われる[統一研究院2009: p.49]。