【対談】日本の保育はイギリスに学べ!?〔後篇〕

【対談】 日本の保育はイギリスに学べ!?〔後篇〕 トニー・ブレアの幼児教育改革について

  • 2016.05.20

保育士を増やすには?

ブレイディ いま日本では保育園が不足していて待機児童の数が増えていますよね。保育士資格を持っていながら、保育士として働いていない、いわゆる「潜在保育士」が多いと聞いたんですが、この原因は何なのでしょうか。

猪熊 「潜在保育士」は厚労省の発表では70万人以上いるといわれています。また、これは2011年の調査ですが、卒業すれば保育士資格を取れる「保育士養成校」の卒業生全体のうち51.2パーセントしか就職していません。
 この原因のひとつは給料の問題です。保育士の平均給与は、他の職種の平均よりも10万円低い、という調査があります。実際には手取り12万~13万円というひとも多く、これでは自立できません。実家に住んでいる結婚前の若い女性が保母さんをしていたり、結婚しても夫の扶養の範囲内で働く時代の名残が、そのまま続いているんです。学生が保育士になりたくても、この給料では奨学金も返せないですし、最近では男性の保育士さんも増えていますが、結婚すると家族を養えないという理由で辞めるケースも多いです。

ブレイディ 保育士の給料が安いのは、イギリスもまったく同じです。給料も限りなく最低賃金に近い。私が働いていた保育園でも、若い保育士は一人暮らしできるほど給料がないから、友人とシェアハウスをしていました。家庭を養うなんてとてもできないので、仕事を辞めてベビーシッターやチャイルドマインダーに転職するひとが多いですよ。そのほうが短時間だけ働けばいいし、仕事の掛け持ちもやれる。

猪熊 一緒なんですね。あと日本の保育士試験にも問題があると思っています。政府は保育士を増やすために年1回から年2回の実施に増やしました。ですが、はっきりいってこの試験の回数を増やしても、保育士不足解消にはあまり意味がないと思うんです。
 現在、日本で保育士になるにはふたつの方法があります。厚生労働省指定の「保育士養成校」である専門学校や短大、四年制大学を卒業すれば、保育士の資格を習得できる。もうひとつは年に2回おこなわれる保育士試験をパスすればいい。共に同じ資格ですが、中身が違います。養成校を卒業するためには保育施設での実習があるんですが、保育士試験は実際の保育現場で実習をしなくても、筆記試験と実技に合格すれば保育士になれるんです。

ブレイディ 日本の保育士試験はどんなものなんですか?

猪熊 マークシート形式のペーパーテストが9科目と実技です。実技は一次試験を受かったひとだけが受けられるものですが、言語、音楽、造形の3つで、試験官の前で絵本を読み聞かせたり、ピアノの弾き語り、絵を描いたりします。だから、受験で保育士資格を取る場合、実際に子どもを保育する場面は一度もありません。

ブレイディ えー?! それだと保育試験では全然ないじゃないですか。

猪熊 実は私も試験で保育士資格を取っているのですが、試験に合格しても、実習をする機会がなければすぐに保育園で働くことは無理だと思いますね。資格を持っていても素人同然で現場に入ったら、あまりの大変さにすぐに辞めてしまうと思う。保育士を増やしたいなら、逆にしっかりした保育士を養成する実習期間をつくらないといけない。
 保育士試験を受験するひとの多くは、保育園の園長先生を長年やっているけど資格を持っていないひとや養成校ではない大学を出て保育を専門にしたいというひとたちです。試験の受験資格にも壁があって、無条件で受験できるのは短大卒以上なんです。中卒だと児童福祉施設で5年以上、7200時間以上働かないといけません。学歴の壁があるんです。たとえば、富士見市ベビーシッター事件の容疑者は、中卒だったので保育士資格を得ることができなかったんですね。

ブレイディ イギリスで保育士になるためには、実際に現場で働かなくてはいけないんです。トニー・ブレアが幼児教育改革をおこなったときに、私は保育士の資格を取りました。もう10年前、ちょうどEYFS導入が発表されて保育業界が大騒ぎになっていたころです。当時移民が増えていたので、外国人が保育士になるのを奨励していたんです。人種や民族の違うひとを採用して、職場の多様性を高めようというもので、多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)といわれる理念です。小さなころから外国人と接していれば、偏見もなくなる、と。
 私はロンドンで働いたんですが、子どもが生まれて遠距離通勤もできなくなって、どうしたものか、と考えていたときに、政府が保育士になることを奨励していることを聞いたんです。
 保育士になる費用は全部政府が出してくれました。まず現役の保育士の方が、保育とはどんな仕事か、どうやれば資格を取れるか、説明するセミナーがあったんですが、会場への交通費は行政側が出してくれた。保育士になるためのセミナーや講義も、保育施設でボランティアをすれば、無料だったんです。当時のブレア政権は人種や民族も異なるいろんな保育士を本気で養成しようとしていたんですね。
 まず、貧困層の家庭を支援する慈善団体経営の託児所にボランティアで週4日働き(当時の規定では週15時間以上)、週1回はセミナーを受けて、1カ月に1回レポートを出す感じでした。ボランティアしているときにも、研究現場に必ずチューターが来て、実際に働いている現場をチェックされます。私ももう少し子どもに話しかけないとダメ、と注意されました。
 レポートも、保育している子どもの様子をさまざまな手法で観察する「オブザベーション」というテクニックが含まれていて、いまその子が発達のどのレベルにいるのか、を見極めて、どういう遊びを提供すれば、その能力を伸ばせるのか、といった保育計画を書いたものをチューターに提出してチェックを受けるんです。だから、ペーパーテストだけで保育士になれるのか、疑問ですね。

猪熊 日本の保育士試験では、ペーパーテストもマークシート形式のひっかけ問題ばかりで、本当に保育に必要なのか、と思ってしまうものも多かったです。

ブレイディ レポートの課題は、子どもの学習能力をサポートする環境のつくり方はどういうものか、とか、障害児教育について自分の考えを述べなさい、というものでした。そして、最後の質問は毎回同じで、この答案が、多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)という理念とどう関わっているのか、書きなさいというものでしたね。

猪熊 すごい! それは保育士にとって重要ですね。
 いま大学院でイギリスの保育制度と市場化について研究しているんですが、日本の保育士の問題を変えるためには、保育士は「ケアする職業」だという考え方から変えないといけないのではないか、とも思っています。「福祉」だと考えられている限り、お給料はなかなか上がらないんじゃないかと。実際に保育士さんがしているのは、ケアもありますが、主に子どもの「教育」ですよね。そういう意味でも私はイギリスみたいな保育士のレベル分けも必要だと思っています。働いている年数や能力によっていろいろランクに分けて、レベルが上がると給与水準も上がるようにしていけば、将来のステップアップを目指して頑張れるんじゃないでしょうか。

ブレイディ イギリスは保育士の資格をランクに分けているのですが、私はレベル2、レベル3まで取りました。レベル2で有資格の一人前の保育士と見なされ、レベル3は部下を率いたり研修をしたりできるようになる資格で、大学に行ってさらに幼児教育を学びたいと思ったらこの資格が必要になります。賃金的には雀の涙ぐらいしか差はないですけど。レベル3だと書くレポートにも、評論家や学者の本から引用しなければいけないんです。
 これは全国的に統一されています。ブレア政権のときには、改革の一環として、4歳児以上に特別な教育ができるEYPS(Early Years Professional Status)という資格をつくりました。各保育施設常駐の教育カリキュラム責任者兼保育士たちのアドバイザーというポジションになり、実際に子どもを教えることはほとんどなくなります。全国の大学にEYPSコースがつくられ、それまではレベル3しか持ってなかった主任クラスの保育士がたくさん通うようになりました。授業料は返済不要の奨学金でカバーされたので無料でした。EYPSになると給料は1.5倍から2倍に増えます。

猪熊 日本でも、社会福祉法人の改革にともない、「キャリアパス」という制度ができました。勤続年数や能力で、レベルが上がっていくシステムなんですが、全国共通のルールがあるわけではなく、あくまでもその法人内でのキャリアパスにすぎません。とくに保育園を運営している社会福祉法人は小さくて保育園1園しか持っていないところが多くて、全体の職員の数も少ないので法人内でのキャリア形成は実質的に難しい。保育園を家族経営しているところも多いですしね。

ブレイディ すると保育士さんの給料はほぼ横ばいですか?

猪熊 そうですね。一方で「教育」という面では、幼稚園の先生は「教諭」という国家資格ですが、保育士と同じで給料はあまり高くありません。
 2006年から幼稚園と保育園の機能をあわせた幼保一体型の「認定こども園」という制度ができて、2015年4月からの子ども・子育て支援新制度に発展的に組み込まれています。「幼保連携型」認定こども園、というのが完全な幼保一体化施設ですが、こども園だからといって、全部が全部、幼稚園と保育園が一体化されているわけじゃないんです。「幼稚園型」「保育園型」というようにどちらかがメインになっているタイプや、「地域裁量型」といってその地域が認めれば「認定こども園」になれるものもあって全部で4つの「認定こども園」の種類があります。けっこう、複雑です。資格についても、いまでは幼稚園教諭と保育士の両方の資格を持っているひとが多く働いています。認定こども園を拡げていくために「保育教諭」という資格を新しくつくろうという動きもありますが、なかなかそこが統一できずにいるのが現状です。
 長い人生において0歳から5歳という絶対にやり直しがきかない期間にたずさわるひとが、大切に扱われないのは本当におかしいと思いますね。

著者プロフィール(ブレイディみかこ猪熊弘子

猪熊弘子 ジャーナリスト、東京都市大学客員准教授。著作に『「子育て」という政治』(角川SSC新書)『死を招いた保育』(ひとなる書房)、『命を預かる保育者の子どもを守る防災BOOK』(学研教育出版)、『なんで子供を殺すの?』(講談社)など。翻訳書に『ムハマド・ユヌス自伝』『貧困のない世界を創る』(いずれも早川書房)などがある。

ブレイディみかこ 1991年よりイギリス・ブライトンに在住。保育士、ライター。著作に『花の命はノー・フューチャー』(碧天舎)、『アナキズム・イン・ザUK』『ザ・レフト――UK左翼セレブ列伝』(いずれもPヴァイン)。Yahooニュース!の連載などをまとめた『ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート』(岩波書店)を6月に予定。ほか月刊『みすず』で「子どもたちの階級闘争」を連載。

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