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金革(キム・ヒョク)=著
金善和(キム・ソンファ)=訳

この論文は、韓国版『自由を盗んだ少年』に第二部として収録されている、西江(ソガン)大学公共政策学科の修士論文として書いたものを、日本の一般読者向けに編集したものです。日本版書籍では未収録となったこの論文を、当ページでWeb公開いたします。

第2章 コッチェビとは(つづき)

『自由を盗んだ少年 北朝鮮 悪童日記』
著=金革(キム・ヒョク)/訳=金善和(キム・ソンファ)/2017年9月9日刊行

■1970年代
 社会が安定化した後、1970年代に入ると、コッチェビは身分差別と家族環境によって発生した。1969年12月5日、朝鮮労働党中央委員会第4期第20次全員会議拡大会議で、青少年の教育の問題が提起され始めた。この問題は、1967年から1969年まで行われた3階層51分類の身分区分作業のために浮上した。家族環境が複雑な身分に分類された青年たちに「複雑な[問題のある]階層」というレッテルを貼るという現象が多数生じたのだ。

 「家族関係が複雑な青年との活動に関連してさらに一つつけ加えておきたいのは、不必要な文書をしきりにつくりだし、人びとに複雑な階層というレッテルをやたらに貼りつけてはいけません」[金日成『金日成著作集24』1983: p.403]

 これらの問題は、革命学院出身者を対象にしたものではなく、金日成の革命学院に対する関心の高さが社会において、一般的な孤児院出身に対する身分差別として現われたものと言える。そのため、1971年には、「複雑階層」というレッテルだけでなく、孤児出身の身分の問題にまで拡大し、育児院、初等学院を出た戦災孤児まで「出身成分」が原因で差別の対象にされた。

 「成分の問題と関連して、初等学院を出た戦災孤児の問題についてお話しします。今労働者の中には、初等学院を出た戦災孤児たちの家庭の土台[どんな親や祖父母だったか]が解明されていないとして、彼らを党員にはできないとしているが、これは非常に間違ったことです。初等学院を出た青年たちと言えば3、4歳の時に戦争で父、母を失い、あちこち彷徨っていたのをわが党が胸に抱いて育てた人々です。

 それを今になって党幹部たちが、初等学院出の青年の出身階級を調べ、彼らを問題視するとはもってのほかです。人びとの出身階級を調べる目的は、その人がどういう環境でどんな影響を受けながら育ったかを知るためのものであるのに、ものごころもつかぬ幼いときにみなしごとなって、党のふところで育った人にとって、その父親が地主であろうと労働者階級であろうと、それがいったい何の関係があるというのでしょうか」[金日成『金日成著作集26』1984: pp.59-60]

 金日成のこれらの発言は、家庭不和、離脱青少年の増加、不良者、ホームレスなどが急速に増加し始めたことによるものであった。この問題と関連して道の社労青[サロチョン=社会労働青年団]委員長たちと会った席で、金日成は「不良青年たちがなぜ発生するのか分からない。これは、青年学生における道徳教育と組織生活を強化していないからだ」と批判して不良青年をなくすように指示した。

 「つぎに不良青年をなくさなければなりません。われわれの社会でどうして不良青年が生まれるのかよく理解できません。みなわれわれの社会で勉強させた青年なのに、不良になる理由がどこにあるのでしょうか。社労青がまだ全般的に深みのある活動をしておらず、青年学生のあいだで共産主義道徳教育と組織生活を強化していないため、否定的な現象が現われるようです。社労青組織は、不良青年の発生理由を具体的に究明し、これを一掃しなければなりません」[金日成『金日成著作集27』1984: p.564]
 「これからは、平壌市で不良生徒が一人も生まれないようにすべきです。中区域、牡丹峰(モランボン)区域、三石(サムソク)区域、兄弟山(ヒョンジェサン)区域などいくつかの区域を調査してみたところによると、不良生徒が何人かいます。区域党委員会では、学校事業にたいする指導に力を入れて不良生徒を教育改造し、今後そのような生徒が生まれないよう徹底した対策を講じなければなりません」[金日成『金日成著作集29』1985: p.216]
 「詐欺とペテン、強姦、窃盗行為が一般的現象となっている資本主義社会に不良生徒が生じるのは避けがたいことですが、社会主義社会には、不良生徒の生じる社会的根拠がありません。一部の学校で不良生徒がたまに現れるのは、党組織が生徒の教育相応の関心を払わず、学校で社労青組織生活や少年団組織生活を正しく指導しないためであり、他に原因はありません。学校の社労青や少年団組織で放課後、運動会、学習コンテスト、弁論大会など様々な課外活動をおこなえば、不良生徒が生まれるようなことはありません。社労青や少年団組織が手をやかせる生徒に演説原稿を書いてやり、いついつまでに練習してどこそこに行って演説するように言えば、その生徒は準備に専念し、つまらぬ考えを起こすひまがないでしょう。[中略]

 不良生徒がいるのは、われわれが生徒をよく統制していないすきに乗じて、悪い連中が後ろで一部の生徒をそそのかして悪いことをさせるからです」[『金日成著作集29』1985: pp.216-217]

 これらの不良学生たちの間では、継母と暮らす学生も多かったが、この問題を解決するため、1974年、金日成は継母学院を作ることを主張する。

 「継母をもつ子どもの中から不良生徒が生まれるならば、そういう生徒のための学校を別に設ける必要があるでしょう。平壌市でまずそうした学校を2カ所ほど設けて運営してみるのがよいでしょう。そのような生徒をみな寄宿舎に入れ、担任教員が受け持って勉強をさせ、課外活動も活発にさせるのがよいでしょう」[金日成『金日成著作集29』1985: p.217]

 身分による強制移住の問題は、1970年代半ばに入ってから本格化した。1976年末「板門店事件」の影響で、平壌市民の40%が強制的に追放され、平壌市青少年犯罪を取り締まるためのパトロール隊が結成され大々的に取り締まりをおこなった[イ・チョルウォン1995: p.51]。このとき、発生した強制移住政策で平壌だけでなく、江原道(カンウォンド)、黄海道(ファンヘド)、など、各地域の老弱者、悪い出身成分階層を含む25万人が咸鏡北道(ハンギョンプット)地域に大量移住させられた。[イ・ソンロ2006: pp.120-121]
 このときから既にパトロール隊が強化され、集中的な取り締まりに入ったにも関わらず、コッチェビを消滅させることはできなかった。

■1980年代
 1980年代のコッチェビたちは、当局から強制的に移住させられて家族がバラバラになったり、不平等が広がったことで現れた。1980年代初頭から始まった「地方疎開」は、身分に問題がある平壌市の住民を地方に大挙移動させたもので、「韓国放送協会のセミナー及び報告書」[イ・ムチョル2003: p.114]での脱北者の証言や、チョ・ヨンホの証言をもとにした実話小説『ピョンコ』[イ・チョルウォン1995: p.17, pp.28-29]でもこのような事実を確認することができる。
 『ピョンコ』に記されたチョ・ヨンホのコッチェビ生活は学校に行く途中、「ジャージャー麺」が食べたい一心で先生のお金を盗んだことをきっかけに始まり、一緒に生活していた「フンコ」[咸興(ハムフン)出身の子]は孤児院から空腹のあまり飛び出し、チョンコ[清津(チョンジン)出身の子]は在胞[チェポ=在日同胞]で、両親が政治的発言をしたため、清津から強制追放された後、家を出て、コッチェビ生活を始めたという物語だ。チョ・ヨンホの両親は1980年頃、身分問題が原因で離婚し、母は平安北道(ピョンアンプット)東林(トンリム)炭鉱に追放されたという。

■配給制度の劣化と差別
 配給制の劣化は限定的ながらも維持されてきた平等性を崩壊させ、ついには貧しい人は益々貧しく、富める人は益々富む現象を広めた。配給制度の不平等は、家族ごとに支給されるべき配給量の量的、質的な差別で現れ始めた。
 まず、質的な差別として、例えば白米や雑穀[とうもろこし、小麦、大麦、キビ]などの比率が少なくなり、トウモロコシ粉の割合が増える形に変化したときも、幹部の場合は、米の割合が多く、一般住民の場合は、はるかに少ない割合で支給されたのだ。量的な面でも幹部の場合には、社会的地位や権力を利用して、割り当てられた配給量をすべてもらえたが、一般住民の場合は、配分を受ける途中で不足するともらえず、次の機会に繰り越される場合が多くなった。このように繰り越された未配給量は、1990年代初めになると、ひと家族につき年間1.5トンから2トンに達するほどだった。

 「80年代末から配給が少しずつ減りました。89年度の配給はよく覚えていませんが、2~3か月分をもらい損ねました。そんなもらい損ねが1990年代初めまで1.5トンになりました。うちばかりでなく、清津ではほとんどがそうでした」[脱北者C]

 配給制度の問題は、工場、企業所、学校、人民班などですでに現われ始めて、社会的に豊かな暮らしの家庭と貧しい家庭が明らかに区別された。米飯だけを食べる家と、7対3で米を多く混合する家と、5対5で混ぜる家、トウモロコシだけ食べる家に差別化された。1980年代末から発生したこのような区別に質的な差が現れて豊かな家と貧しい家に分かれ始めた。人民班では、人民班の計画をちゃんと実行するだけのお金があるか、支援品を必要なときに出せる家とそうでない家で分かれた。

 「学用品にはどのような差が出るかというと、3種類に分けることができます。1つは、中国や日本に親戚がいるような子たちで、ノートの紙もまっ白だし、鉛筆や消しゴムが上等です。第2は、中国や日本に親戚はいないけれど、親がお金をもうけて買ってもらえる子たち。その他は、鉛筆、ノートもない子たちです。 人民学校1年生[1989年]のときは私も持っていました。2年生からはずっとなかった気がします。だから1冊のノートを何度も消して書いて使い、小さい鉛筆を使って書いていました」[脱北者B]

 配給制による不平等は、私的所有の欲望と相対的剥奪感をもたらした。学校でのお金持ちの友だちの誇示欲が、貧しい境遇の友だちに相対的剥奪感を感じさせ、所有欲を満たしたいための逸脱行為につながった。逸脱行為をすると、処罰を受けることになり、これがコッチェビ生活を開始するきっかけとなっていった。

■1990~2000年代
 1989年からの社会主義圏崩壊に加え、北朝鮮の生産現場が悪化して国の配給制度も徐々に麻痺し始めていた。1990年代初頭から始まった食糧危機は、なんと300万人にも及ぶ住民が飢えに苦しみ死亡する事態にまで至った。特に咸鏡道地域だけで90万人が餓死したという説もある[イ・ソンロ『北朝鮮の社会不平等構造』2008: p.217、海南出版社]。
 金正日の現地指導を扱った実話小説『江界(カンゲ)精神』[リ・シンヒョン、2002年]も、この餓死者の問題をありのままに扱うほど、当時の食糧危機は、非常に深刻なレベルだった。『江界精神』は、1990年代の経済危機の時に金正日の足跡を小説化して作成された『不滅の嚮導』シリーズの1つである。
 内容を見ると、「苦難の行軍」の時期[1994~98年頃]、北朝鮮最大の工作機械工場である熙川(ヒチョン)機械工場の重要な職人さえも餓死した事件、親を失った放浪児や、草がゆを食べる子どもなど、当時、金正日が現地指導をしながら経験した出来事を詳細に記している。
 「苦難の行軍」とは、もともと1938年12月から1939年3月まで100日間、金日成が率いる抗日パルチザンが満州で過酷な寒さと食糧難の中でも、日本軍の追撃を振り切り行軍を敢行した時期を指す。北朝鮮はその後、2度にわたり政治的、経済的危機を迎えたときに「苦難の行軍」と呼んで危機を克服しようとした。

 子どもたちを養えない状況になると、親は子どもを孤児院や継母学院に捨て、他の地域に引っ越してしまうことなどが起こった。親が家を捨てたり、行訪(ヘンバン)[買い出し]に出て帰って来ず、孤児になった子どもたちは、村の人々が孤児院に送る場合もあったが、生きるために子ども自身がすすんでコッチェビになる場合もあった。行訪とは、必要な食料を手に入れるために遠出をすることを指す用語である。脱北者Bの証言によると、両親が行訪に出て帰って来なかったため、食べ物を求めて駅前や市場に初めて行ったという。そんな状況だったため、親の生死を確認することができないコッチェビが孤児院には非常に多かった[リ・シンヒョン2001: p.42]。
 北朝鮮では、離婚する場合、基本的に子どもの親権は父親にある。しかし、経済危機以降、北朝鮮では男性の経済力が女性に比べて低下したため、離婚家庭の子どもたちのほとんどがコッチェビになった。離婚書類に印鑑を押さなかった場合でも、お互いに合意して別れたり、または女性が家を捨てることも多く、家庭崩壊は、全く珍しいことではなかった。女性が食糧を手に入れるために行訪に出かけ、他の男性と出会って長く家に帰ってこないこともあった。待っていた夫と子どもたちがバラバラになったり、正式な離婚をすることなく、彼らはコッチェビ生活を始めることになる[チェ・ワンギュ編,ク・カブ他著『北朝鮮都市の危機と変化』2006: p.214]。

■家族の解体
 コッチェビの家族環境の調査資料を見ると、150人のうち、両親とも死亡した場合が22%、どちらかの親が死亡した場合が38%、両親が病気になった場合が26%である。兄弟関係を見ると、兄弟が死亡したコッチェビが15%であり、その兄弟もコッチェビになっている場合が46%であることが分かった[キム・ヨンス『脱北者問題の発生原因と現住所』2003: p.24]。生計を維持することが困難で、両親が死亡したり、または片親だけだったり、両親ともに子どもの面倒が見られない状況が1990年代のコッチェビが発生した主な原因だったことがわかる。
 韓国国家情報院の報告によると、1994年頃、ホームレスが1万3000人から1998年には20万人に急増したという。北朝鮮の特性上、統計指標が正確かどうかの判定は難しいが、ホームレスの増加率からコッチェビたちもまた急速に増加したと推察できる。
 脱北者Cの証言によると、1990年代に経済危機で暮らしが難しくなると、一般住民はコッチェビたちに同情でくれていた食べ物をくれなくなったという。これにより、餓死するコッチェビが続出した。物乞いに頼っていたコッチェビはそのままでは餓死するしかなく、生き残るためには、積極的に変化せざるを得なかった。この変化は、暴力的な行為に現われたり、暴力を伴わない場合でも、石炭を拾う、山菜を取る、砂金を集める、貨物車に乗るなどの行為として現われた。
 脱北者Gによると、コッチェビたちはひったくりのような単純な行為では暮らせなくなり、攻撃手やスリのような行為をするようになったため、一見、市場のコッチェビが減ったように見えたという。

■社会主義圏の崩壊と貿易量の減少
 北朝鮮の最大の貿易相手国だったソ連が1991年1月外貨決済[ドルなどの国際通貨による決済]に切り替えたため、貿易量は1990年から1991年にかけて40%近く減少した。社会主義圏の交易の形態は、基本的にはルーブルに裏付けされたバーター型取引を基本としていた。バーターとは、お金で売買するのではなく、直接物と物を交換することで、取引の最も原始的な形態である。現在のロシア連邦などソ連から独立したほとんどの国がルーブルを通貨単位の基本として使用していたが、社会主義が崩壊して、これらの貿易市場が消えたのだ。北朝鮮はいきなり世界市場で外貨を支払い方法とする交易をしなければならない状況に立たされた。当時、北朝鮮は外貨が不足していたため、基本的な必需品を除く消費材の輸入は減少せざるをえなかった。
 それに加えて、北朝鮮の外貨がさらに足りなくなった背景がある。1988年にオリンピックを開催した韓国は、一躍国際的に有名になった。北朝鮮も韓国に対抗し1989年に世界青年学生祝典を平壌で開催するため、初めて外貨交換金券と国債を発行した。当時世界青年学生祝典のために使用されたお金は、ドルで60億ウォン台にのぼることが知られており、このお金は当時、北朝鮮の外貨保有量のかなりの部分を占めたと推定される。これは、1990年代に入って貿易がバーター型から外貨決済型に変化したとき、北朝鮮が支払う外貨が実質的に不足した理由でもあった。
 このように減少した輸入のせいで北朝鮮の配給も必需品だけを支給するほかはなく、消費材が不足した。
 1990年代初めから電力難が徐々に広がり、北朝鮮の住民たちは、石油燈、ガス燈を使用し始め、食糧の配給量も徐々に減少し始めた。時間帯別に電気が使える時間を決め、残りの電力は、製鉄所などの産業工場に集中的に供給しなければならなかった。
 1993年以後、食糧問題は、都市労働者が多い主要な産業都市を中心に発生し始めた。北朝鮮は食糧不足問題を解決する方策として価格が安いタイ米を輸入したりしたが、結果的にはその場しのぎにしかならなかった。
 住民は配給が再開されることを期待してしばらくの間、食料を他の家庭から借りたり、おかゆを炊いて過ごしたが、北朝鮮当局は、食糧の適時配給を再開できなかった。配給再開がもはや望み薄になると、女性たちは仕事をやめ家で内職を始めた。副業で小さな家畜を育てたり、山菜を採り、米を求めて農村に行くなど、さまざまな方法を試した。

■行訪(ヘンバン)に出る
 特に1994年に入ってから食糧危機はさらに深刻になった。男性も務めている工場や企業所に短期休暇を願い出て、妻と一緒に、独自に経済活動をする必要が生じた。その頃、最も代表的なものが行訪[買い出し]だった。
 行訪は女性に比べて力が強い男性がおこなっていたが、1995年には、より多くの食糧を持って帰れるように子どもを残したまま夫婦が一緒に出掛けるケースが多くなった。
 人々は食糧を手に入れるために行訪に出かけ、その過程で荷物を紛失したり、列車が遅延し、持っていた食糧をすべて使い切ってしまう場合もあった。当時、電力事情が急速に悪化し、列車の遅延が深刻だった。住民の基本的な交通手段は列車であり、電力事情の悪化で6時間で行くことができる距離を、3日から6日かかる状況だった。
 このほか、利用可能な移動手段は、自動車に乗ることだったが、自動車のほとんどは軍人車両または企業所の車両だった。このような自動車を利用するには、高い料金を支払う必要があるだけでなく、ガソリン、ディーゼルオイルの輸入が減少したため、車両での移動も急速に減っていた。これを補うために、代替エネルギーを利用した木炭車が登場したが、馬力も弱く速度も非常に遅く、頻繁に手入れしなければならず、その効率性は著しく悪かった。
 これらの移動手段の悪化は、北朝鮮の住民の生存を一層困難にする結果をもたらした。
 大人のコッチェビは、1993年まではほとんど見られなかったが、1994年末から少しずつ現れ、特に老人が多かった。食べものが不足したため、老人が家族の顔色を見て、自分から家を出て旅行者相手に物乞いをすることが次第に増えていったのだ。この当時、旅行者は、汽車の遅延時間と予測不能な列車の運行で、いつも駅で待機しなければならなかったので、彼らを相手にする老人や子どもたちの物乞いが急速に増加した。
 
■大人がコッチェビ生活をしている理由
 1995年頃には、若い青年、成人男性もコッチェビ生活を始める人が出始めたが、その典型的な経緯はいくつかあった。まず、旅行中、特に行訪の過程で荷物を失くし、もはや旅行を続けることができなくなったときである。移動の難しさは前述したが、一度荷物を失ってしまうと列車を待つのにも限界がある。列車を待っている間、食べるものがないので、本人の服や靴などを市場に売って1日、2日程度を持ちこたえる。しかし列車が来るまで数日かかる場合、列車以外の車両[トラックなどの木炭車]を使用する場合でも、高い料金を支払わなければならないため、これもまた容易ではなく、結果的にその地域でコッチェビ生活をするしかない。
 家族が所有する財産を処分しながら生計を維持していたが、それもなくなれば最終的に家を捨て市場に出るしかないケースもある。TV、録音機などの贅沢品から優先的に売り、それで得たお金もなくなると、洋服箪笥、布団箪笥を売り、その次は食器や布団などの必需品まで売るようになる。最後の手段として自宅を売ることになるが、家を売却すると居住する場を失い、そのときからコッチェビ生活になる。
 1995年までは国から与えられた家を売ることは違法だったので、家を捨て生活する場合がほとんどであった。1996年頃から裏取引で家の売買が始まった。家を捨てるときには、アパートの窓ガラスを外して市場で売ってしまうので、まるでゴーストタウンのようになる。
 商売に失敗したり、または他人から借りたお金や食糧を返済できなくなりコッチェビになるケースもある。彼らのほとんどは、北朝鮮の配給が再開されることに漠然とした期待感を持っていたため、大きな利益を追求するよりも、配給が再開されるまで食い継げればよいと考えていた。ほとんどの北朝鮮住民が市場や市場原理に対する基礎的な理解がなく、利益を得る方法を知らなかった時期でもあった。この他にも、長期間の行訪に出ていてしばらく欠勤をした場合、非常に厳しい処罰を受けなければならなかったので、最終的には、職場への復帰を断念することもあった。
 
■旅行者宿泊所
 多くの北朝鮮住民が行訪に出かけ、社会秩序が弱まると、これを統制するために、北朝鮮当局が新たに採った方法が旅行者宿泊所だった。
 旅行者宿泊所は、中朝国境を行き来する人々が多くなり始めた1990年代後半にできた。旅行者宿泊所は、旅行者のように見える人々の中から本物の旅行者とコッチェビを選別するところだった。偽の旅行者を選別する任務以外にも、国境を行き来する人々を摘発もする。例えば、駅前に旅行者らしからぬ人がいる場合は鉄道の安全員、9.27常務組、非社(ピサ)グルパ等、取り締まり要員が調査し、単純な行訪や旅行者であれば、そのままお咎めなしだが、確認が難しく、疑わしい人物は旅行者宿泊所に送る。非社グルパは非社会主義的現象を取り締まるために作られたチームを指す。「グルパ」という言葉は、グループを指すロシア語で、北朝鮮は、言語もロシア語の影響を大きく受けたためロシア語式に発音するものが非常に多い。
 旅行者宿泊所に入れられた人は、身元が確認できて違法性がないと判断されると、釈放されるが、何か問題がある場合は、その旅行者の居住地域の担当者が直接引き取りに来て連れて帰るのである。しかし、ほとんどの居住地域の担当者たちはコストがかかるので、引き取りに来ない。このような理由で、旅行者がそこで働いてそのまま死ぬこともある。
 つまり旅行者宿泊所は成人コッチェビの救護所だった。救護所の性格は、当面行くところがないか、解放しても再びコッチェビ生活を繰り返す可能性が高い人々を収監することである。長期間の収監生活は、収監者の死亡につながる。そこで与えられる食事は、栄養価が非常に少なく、栄養失調のために多くの収監者が死亡し、それを避けようと、収監者たちはどうやってでも、そこを抜け出そうとするのだ。
 この他にも身元が確認されても犯罪との関連性がある場合は、その地域の労働鍛錬隊に移管する場合が多い。労働鍛練隊は犯罪事実[軽犯罪]が明らかになった旅行者のほか、該当地域の住民で処罰の対象になった者も含めて収監し、2カ月~1年の強制労働をさせるところだ。この労働鍛錬隊は社会安全部が管轄し、より過酷な収監施設である教化所とは異なり、公式の司法や裁判が存在しない。つまり、社会安全部が自主的に運営する機関と見ることができる。



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