【寄稿】連載第3回:柳田國男で読む主権者教育

【寄稿】 連載第3回:柳田國男で読む主権者教育 「世間話の研究」を読む/柳田國男の「フェイクニュース」論 

  • 2017.04.18

※柳田國男「世間話の研究」の抜粋を、当記事最後部に掲載しています。
大塚英志『感情化する社会』
大塚英志『感情化する社会』
太田出版

 「世間話の研究」に戻ろう。

 だから、柳田が「世間話」(噂話、流言)を問題にしたのは、既に述べた普通選挙や「宣伝」(プロパガンダ)といった文脈とは別に、以下のような近代への認識が明確にあったからだ。

ハナシが始めて我々の間に出現した頃には、是が今日の様に数千万の同種族を繋ぎ合わせる、唯一の手段にならうと迄は予想し得た者は無かつたやうである。
(「世間話の研究」『綜合ヂャーナリズム講座 第11巻』雑誌ヂャーナリズム、記事篇、昭和6年10月20日、内外社)

 「ハナシ」による共同性を「国家」と呼ぶか「社会」と呼ぶか、議論はあろう。しかし、近代が要求する共同性は、「ハナシ」というコミュニケーションツールによってのみ可能だ、と柳田はこの時、言い切っている。
 webどころか未だラジオさえなく、しかし全国区のメディアとして雑誌と新聞はあった。
 そういう状況下で「ハナシ」の公共化を柳田は直近の問題として語ろうとしているのである。今、見ればあまりに早すぎる議論だが、しかし、この時にこそしておくべき議論であったことはいうまでもない。
 このように、柳田を読んでいく上で重要なのは、現在に至る問題をしばしばその「起点」で立論していることである。柳田はしばしば重要なテーマを説く場合、「?の話」と題することが多いが、柳田にとって「ハナシ」とは公共的なことばなのであり、それをメディアあるいはジャーナリズムに求めようとしている。それが「世間話の研究」の論旨である。

 ここで少し柳田が普通選挙に関わる評伝的な流れを確認しておこう。柳田は大正13年、ジュネーブから帰国の船上で関東大震災のニュースを聞く。そして朝日新聞の論説委員として普通選挙の「社説」を書く。このあたりが評伝としての定説である。
 しかし、柳田の比較的リアルタイムの記述にはそのニュアンスがこう記されている。
 大正13年2月に行われた「普通選挙への準備作業」なる神戸青年館での講演である。

加藤首相の柩を送りて三日の後、世にも怖ろしい大地震大火事で、首相の市民が呻吟の声を放つて居る中へ、咄嗟の間に計画を立てゝ山本伯の一団が乗込み、青山御所の芝生の上とかで、新内閣の部署を定めた。さうして第一着手には、大小の政党に対する方策を立て、やがて普通選挙即行の意の有することを、非公式に新聞に公表せしめた。其当時私は西洋からの帰り途で、汽車汽船の中で見る小さな電報、かくれて届く日本の新聞に由つて、後藤子であつたか或は他の智慧者の案であつたか知らず、兎に角こんな場合に場馴れた政治家の考へ出しさうな、面白い一趣向を立てゝ現れて来た一幕には興味が深かつた。
(「普通選挙の準備作業」『時局問題批判』鈴木兼吉編集、大正13年3月25日、朝日新聞社)

 ここに記された「政局」の詳細は政治史に譲るが、関東大震災直後、山本権兵衛内閣が「普通選挙即行」のフェイクニュースをリークし政争の手段として流した、と柳田はあたかも言いた気であることがわかる。そして普通選挙時期尚早論を唱えていた政友会との対立を演出し、議会は閑散、結果、普通選挙は先送りというシナリオであったと内幕さえ明かすのである。このくだりだけだと柳田は、現在、テレビなどで「政府筋」の情報をしたり顔で語る政治評論家の類に見えてしまうが、政治家たちのいう「普通選挙」論など、所詮は彼らの利益と党利党略だと言ってのけた後で、こう話す。

此辺の処は殆ど芝居にも何にも成つて居ませぬが、而も山本内閣の置土産の大きな一つは、此次にどんな内閣が起るとしても、選挙法を改正せずに元の儘の制限選挙にして置くことが、到底不可能だといふ状勢を作つてくれたことです。
(「普通選挙の準備作業」『時局問題批判』鈴木兼吉編集、大正13年3月25日、朝日新聞社)

 まこと、辛辣である。政治家たちの「芝居」にさえなっていない政争の具として持ち出された「普通選挙」は、しかし、その流れだけは彼らの意とはべつに、もはや止められないと挑発的に語る。ならば、理念なき政争が産み落とした「普通選挙」を理念として実現すればいい。これが柳田の決意であり、覚悟である。
 ぼくは柳田國男の「公民の民俗学」を震災後の思想、と表現することがあるが、より正確に言えば、それは震災後の政局が場当たり的に産み落とした「普通」への以降を「理念」とし、立て直そうとするものであったことが以上からわかるだろう。
 だから柳田はこの講演では、選挙民のあるべき倫理をこう説くことも忘れない。

一人ばかり力んで見ても仕方が無いか知らぬが、事は一身一家、乃至は一階級の利害のみでは無い。如何に選挙権が弘く民衆に賦与されても、理想的の普通選挙にはまだ遠い。我々はいつでも幼弱無告の多数同胞の為に代つて善き政治の早く発現することを図らねばならぬのであります。内地は普通になつても日本の領土内には、尚多数の民族が住んで居て、今迄は不完全な代議制の議員に於て、各自の死活問題までも討議せられて居たのである。旧式の選挙に由つて作り上げた政党者流の為に、彼等は最も多く迷惑を蒙つて居るのであります。
(「選挙生活更新の期」『時局問題批判』鈴木兼吉編集、大正13年3月25日、朝日新聞社)

 選挙に於いて一票とは自身の階級のみの利害ではなく、より、弱者のために投じられるべきだと言い切る。しかも「日本の領土内」の「多数の民族」、つまり民族的マイノリティーの存在にさえ言及する。今ならwebでただちに「在日」認定されるところだが、このようなくだりにこそ、この時、「普通選挙」が目指すべきだった理念は鮮明に語られるのである。

 これ以降、柳田は家永三郎がかつて指摘した通り、朝日新聞紙上で普通選挙実現のための論陣を張る。その「社説」を手がかりに、その過程を少し見ておくことにする。
 「普通選挙」へと政治の舵切りがなされながら、しかし、民主主義の理念に基づく選挙制度の改正案が既存の政治家によって骨抜きにされていくのは今に始まったことではない。そのことに柳田は常に手厳しい。
 柳田が強く拘るのは、参政権の公平性である。そうでなければ当たり前だが普通選挙にならないのである。
 この点について、例えば「社説」は以下のように語る。

比例代表を無視して有権者の四割九分までの不満を顧みず、選挙費の一万何千円を公認して、事実清貧の政治家を駆逐し、請負人に被選権を与へて金力政治に便ならしむる如き、問題はかなり多く、之を辛抱するのは全く普通実現の、一日も早からんことを希ふが為であるが、さりとて此政府のやうに、通過さへすれば如何なる形でも、構はぬと言ふ無定見は心細い。
(「選挙法案の運命」『東京朝日新聞』論説、大正14年2月24日、東京朝日新聞社)
新選挙法では強い理由も無いのに国の請負人の被選権を認めて居る。
(「選挙法施行例」『東京朝日新聞』論説、大正15年1月31日、東京朝日新聞社)

 「比例代表」というのは国民の社会階層の構成が議席に正しく反映されるべきだ、という普通選挙の原理原則を意味している。しかし、政治資金の上限を高く設定してしまうことで、結果、立候補できる階級が限られてしまう。つまり階級を「比例」しない議会ができてしまう。
 また「国の請負人」の被選挙権も問題とする。実は公共事業を請け負う法人の役員の被選挙権を明治期に選定された選挙法は制限していた。しかし、普通の名の元にそれが「改悪」されたのである。今日の公共事業と政治の利権化は、この時点で合法化されたようなものだ。
 あるいは、別の社説では警察の選挙への介入に、こうも挑発的に記す。

日本国民はいはゆる官憲の監視の下においてのみ、正当なる選挙を遂行し得る者と見縊られて居るのであらうか。乃至はまた警察は別に事犯を減少せしむべき、特殊の手腕を具へて居るのであらうか。
けだし指導監督の任に在る人々の、国家に対する第一番の本務は、多数の新選挙人に警察の怖るゝに足らぬこと、彼等は寸分の干渉をすらもなし能ふ力の無き者なることを、教へるにあるは固よりである。
(「警察と選挙」『東京朝日新聞』論説、昭和3年1月25日、東京朝日新聞社)

 有権者は警察を恐れるな、と新聞の社説で言い切るのである。2016年の参院選で大分県警別府署が民心党候補の支援団体事務所の敷地に監視カメラを仕掛ける事件があったが、公平な選挙の実施を方便に警察が「我々の総選挙に一種合法の干渉」をすることがあってよいものか、という柳田の怒りとこの事件は、やはり地続きである。
 更には「社会科学は如何」なる社説にも注意しよう。直接は選挙がテーマでない社説だ。しかし、柳田は、国の学術支援が自然科学に重きが置かれ、社会科学が軽んじられる予算配分の不均衡を批判する。

始めて自然科学奨励の声を揚げた者は、好景気時代の実業家であつた。彼等は内心久しく学問の効用をあざけつて居たところ、国際競争の勝敗が知識の優劣にもとづくことを実験して、たとへば共同の技術顧問を雇ふが如き用意をもつて、学者を使役しようとしたのであつた。
(「社会科学は如何」『東京朝日新聞』論説、大正15年8月19日、東京朝日新聞社)

 自然科学を偏重するのは短期的な経済的利益を喜ぶ風潮の反映で、それが国際競争力と錯誤する。その一方で、社会科学には予算がいかない。政治家は「社会科学」の研究がマルクス主義の温床であると疑心暗鬼で、それが結果、自然科学の偏重と社会科学の排除を産んでいる、と柳田はこの社説で指摘さえする。
 これまたたった今、この国で繰り返されている愚かしさがこの時に既にあったことがうかがえるではないか。
 だから柳田はこう結論する。

その結果はいつまでも民衆は知らず、空しく社会科学の名におびえて、一層政治家の愚蒙を長養せんとするのである。これだけは誠に情ない世相である。
(「社会科学は如何」『東京朝日新聞』論説、大正15年8月19日、東京朝日新聞社)

 社会科学の軽視は国民を社会に対して無知に留める、つまり愚衆化を推し進め、政治家の「愚蒙」のみが放置されるという、この指摘もまた現在にはね返ってくるのである。

 このように、普通選挙法制定に至る過程の中でなされた多くの不徹底さが現在にまで持ち越され、この国の民主主義を機能不全にしていることが柳田の普通選挙論から、わかるだろう。
 こういった論陣をはることによって、柳田は普通選挙の実現に加担した。元々明治国家の官僚であった柳田の農民政策は、農民の経済的自立と自己決定権にあったからその意味で、農民の参政権を可能にする「普通」はその重要なプロセスでもあった。
 だからこそ新聞という「公器」で論陣を張り、選挙制度が実現することに柳田は力を尽そうとしたのだった。

 その結果、普通選挙が実施された。しかし、そこで柳田は選挙民たちが個人としてではなく「選挙群」、つまり「群れ」として動き、投票行動を起こす。その憤りを柳田が記したのが、いずれ扱う、『明治大正史世相篇』である。
 「世間話の研究」もまた「普通後」の文章である。その中で柳田の中で改めて「世間話」が議論の対象となったのである。

 この「世間話の研究」に至るまで、柳田の社説は選挙の中で「ゴシップ」に人心が流されることにいらだつ文章が散見する。醜聞が政治を動かすことに柳田は怒りを隠さない。

心有る人々はたゞに一身の精白を期するに止まらず、進んでは隣人のために愛市の急務を力説しなけえればならぬのであるが、時あたかも中央政局の多事に臨んで、兎角街頭のゴシップまでが、その方に傾き勝ちなのは残念なことである。
あるいは選挙制度の適用の、何かまだ実情と調和し難いものが有るのかも知れぬ。この新興大都の特殊なる社会構造が、あるいは法の効果を妨げんとして居るのかも知れぬ。
(「興味ある市会選挙の現況」『東京朝日新聞』論説、昭和4年3月3日、東京朝日新聞社)

 「ゴシップ」によって政治や選挙が左右されるのは、普通選挙制度が現実の中ではまだ機能し得ていないこと、そしてそれは都市の社会構造の問題と関わってくるのではないか、とさえ指摘する。

実際に大震災を一つの堺として、市民の大半はいれ代つて居る。仮ぐう(ヽヽ)者の数もまた激増した。彼等の大多数は本当の意味における隣人を有たず、たまたま特殊の縁故によつて少数の結合を試みる者も、いまだその力を市政の上に行ふだけに、市の実務を理解せぬ場合が多いのである。市民として自己の政策を持たざること、これが現在の最大弱点といつてよいと思ふ。
(「興味ある市会選挙の現況」『東京朝日新聞』論説、昭和4年3月3日、東京朝日新聞社)

 ここで柳田は震災によって東京に於ける「社会」が一度、解体したと述べていることに注意すべきである。近世的な都市空間や近隣は震災で解体し、他方、『明治大正史世相篇』が問題とする「郊外」は近代を通じ肥大していく。かつての「社会」はもはやなく、新しい「社会」は未だない。その状況の中で、「選挙」はいかに可能なのか、と柳田は問う。
 「特殊の縁故」による「少数の結合」しかない現状で普通選挙は困難である。だからこそ新しい人と人との結びつき、つまり「社会」を可能とすることばを柳田は改めて、ジャーナリズムに求めるのである。
 そう考えると柳田の議論は極めてわかり易い。

著者プロフィール(大塚英志

大塚英志(おおつかえいじ)1958年生まれ。まんが原作者、批評家。最新刊『感情化する社会』。本書は韓国での翻訳出版が決定。本書に関わるまんが原作としては、山口二矢、三島由紀夫、大江健三郎らをモチーフとした偽史的作品『クウデタア2』、本書に関連する批評として、『物語消費論』『サブカルチャー文学論』『少女たちの「かわいい」天皇』『キャラクター小説の作り方』『更新期の文学』『公民の民俗学』などがある。

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