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象徴天皇制の本質は「感情労働」である

大塚英志『感情化する社会』
2016.9.29搬入

 このような象徴天皇制に見てとれる「機能」、つまりひたすら相手の「感情」を汲み続ける行為を「感情労働」と呼んだのは北米の社会学者アーリー・ラッセル・ホックシールドである。つまり、象徴天皇制の本質とは「感情労働」にほかならないのである。

 ホックシールドはポストフォーディズム的社会、脱工業的社会では「労働」は単純な「身体労働」や「頭脳労働」に対して、「感情労働」という領域が見えない形で成立している、とする。かつてマクドナルドが日本に上陸したとき、メニュー表に「スマイル0円」と記されていたことをどれほどの人が覚えているか定かでないが、マクドナルドのアルバイトはただハンバーガーのレジを打つだけでなく、購入者に対して「快適な客対応をすること」も労働のうちに求められたのである。そのために「スマイル」という感情も「売る」業態が成立する。私たちはいまではすっかりそのことに慣れているから、外国に旅したときの飲食店の「無愛想さ」に愕然とし、日本人の「おもてなし」に自己満足するが、このようなサービスのあり方はマクドナルドやディズニーランドのマニュアルによって八〇年代に日本に概念として持ち込まれた労働形態であることは忘れるべきでない。

 先のホックシールドは「感情労働」をこう定義する。

この労働を行う人は自分の感情を誘発したり抑圧したりしながら、相手のなかに適切な精神状態─この場合は、懇親的で安全な場所でもてなしを受けているという感覚─を作り出すために、自分の外見を維持しなければならない。この種の労働は精神と感情の協調を要請し、ひいては、人格にとって深くかつ必須のものとして私たちが重んじている自己の源泉をもしばしば使いこむ。

(アーリー・ラッセル・ホックシールド著/石川准、室伏亜希訳『管理される心──感情が商品になるとき』世界思想社、二〇〇〇年)

 ホックシールドがこう書いたのは一九八三年のことである。彼は飛行機の客室乗務員の「労働」と雇用主による「感情管理」の分析から「感情労働」において雇用者に労働者の感情が管理されることを新しい疎外の形式と考えた。つまり労働者は、「肉体」だけでなく、「心」も労働として管理されるのである。

 そして二〇〇〇年代に入ると家事や介護の「感情労働」としての側面が議論として出てくる。

 「感情労働」が問題になるのは、一つは個人の内的なものの発露をサービスとして提供することを求められることで、身体どころか精神までが資本主義システムに組み込まれてしまうこと、そしてそれがしばしば無償労働である、ということの二点だ。私たちが日頃接するサービスに対して常にユーザーの評価の形で相手に快適な対応、つまり「感情労働」を求め、それが点数やコメントとして表出される仕組みになっていることは、働く側にとってもサービスを受ける側も現に日々、経験しているだろう。他方、肉体労働としての作業や身体の拘束、時間の切り売りの対価は払われても、「感情労働」の部分は奉仕的精神的な美徳としてしまうことで曖昧化される。

 それと天皇を一緒にすべきでない、という反論は当然あるだろう。

 しかし、天皇もまた本来は宗教的な司祭であり、それこそ明治から昭和前期にかけては「神」として定義されていた。だから「国民」はその名残で神聖者としての天皇の「感情労働」を自明のことと思ってそれを彼に要求してきた。事実、天皇は「機能」として国民の感情を快適化することを局面局面で求められ、しかも、政策的提言や実践は許されず、感情労働のみが求められる。例えば被災地におもむき、彼は、感情を汲みとる。しかし、それは復興政策には少しも反映されない。

 ぼくはここでだから天皇が政治にコミットすべきだと言っているのではない。そうではなく、彼らの一族をある意味で徒労である「感情労働」からいいかげん解放してしかるべきだ、と言っているだけだ。

 そもそも「感情労働」が問題なのは、相手の感情に共感するためには自己の感情管理を、労働者の場合であれば企業から求められ、それが個人の内面を疲弊させ、尊厳さえも損ないうるからである。今日、天皇が「個人として」発言し、その象徴天皇の「機能」に体力的な限界がある、と表明したことは、象徴天皇制が「感情労働」としてのみ成立している、という特異性をようやく私たちに気づかせてくれる。そのとき、彼に「感情労働」を求めるユーザーや「感情管理」を要求する雇用主は誰なのか。私たちはユーザーとしてwebサービスに「感情労働」を求めていることが自明だし、web企業は労働者にそれを求める。だとすれば「天皇」に「感情労働」を求めているユーザーは「国民」であり、天皇に「感情管理」を求めている雇用主も主権者としての国民である。

 そもそも皇室の人々は選挙権や職業選択や住居や国籍選択の自由、そして政治的発言が禁じられている点で表現の自由も与えられていない。つまり、憲法下の「人権」の例外規定である。「個人」であることをそもそも禁じられている。その上で「感情労働」のみが求められる。

 「感情労働」に対して無償労働や奉仕の精神によって曖昧化されるのは、すでに言及したように、本来、このような他人の感情を慰撫する行為が神やその代理者としての聖職者に求められたからである。しかし、身体に限界がある以上、つまり、人間である以上、そこに限界があると、「個人としての天皇」の所在を彼は表明したのである。そして「個人」としての「お気持ち」の理解を求めたのである。その意味では「お気持ち」は現行天皇の人間宣言であった。

 なるほど、それは「人としては」わかる。しかし、そうであれば「人」を「象徴」にして国民全体に対する感情労働に強制的に就かせる制度が正しいのか、もし、それを存続させるとして、今回、主張された象徴天皇制を「機能」としてどう定義し直すか、という問題は、彼の発言が「お気持ち」である限り届かない、という矛盾がそこにある。

 そして何よりも皮肉なことに、天皇の今回の「お気持ち」に国民の九割が「共感」する形で全面的に天皇の感情労働に依存する、感情の国民国家とでも言うべきものが象徴天皇制の帰結としていまや完成したのである。(*つづきは『感情化する社会』でお読みください)

感情化する社会
著者:大塚英志
発行:太田出版
価格:1500円+税
搬入日:2016.9.29
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〈プロフィール〉

大塚英志

大塚英志(おおつかえいじ)1958年生まれ。まんが原作者、批評家。本書『感情化する社会』に関わるまんが原作としては、山口二矢、三島由紀夫、大江健三郎らをモチーフとした偽史的作品『クウデタア2』、本書に関連する批評として、『物語消費論』 『サブカルチャー文学論』『少女たちの「かわいい」天皇』 『キャラクター小説の作り方』 『更新期の文学』 『公民の民俗学』 などがある。

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