第3回 Ⅱ 戦後はいつまでも続く

大澤真幸

Ⅱ 戦後はいつまでも続く

1. 戦後70年?

 戦後という区分が、今日でも通用するのは、日本のみである。つまり、第二次世界大戦が終結してから70年も経過して、なお「戦後」という一つの時代区分の中に、自分たちの現在を位置づけている国民は、日本人しかいない。他国では、戦後Postwarはとっくに終わっているのだ。

 70年は長い。たとえば、1975年当時の日本人が、日露戦争以降の70年間を一つの連続した時代と認識したかどうかを考えてみるとよい。あるいは、昭和初期の日本人が、明治政府が成立してからのおよそ70年間を、われわれが今日「戦後」に認めるほどの連続的な時間として感受できたかを、思ってみるとよい。中村草田男が「降る雪や明治は遠くなりにけり」と歌ったのは、昭和6年(1931年)のことである。それは、江戸幕府が終わり、明治時代に入った年から数えて63年目にあたる。明治時代が終わってからは、20年しか経っていない。しかし、現在の日本人は、十分に「戦後は遠くなりにけり」とは感じていない。その証拠に、大半の日本人がすでに戦後の生まれであるにもかかわらず、やはり戦後生まれの首相が「戦後レジームからの脱却」と唱えても、滑稽なこととは思わない。

 どうして、日本では、日本でのみ、戦後はいつまでも終わらないのか。この問いに対するほぼ確定的な回答は、白井聡の『永続敗戦論』によって与えられている〔*5〕。白井の論は、1995年に加藤典洋が『敗戦後論』で示唆し〔*6〕、またこれとは独立に、2012年に赤坂真理が小説『東京プリズン』として表現していたことを、明晰化したものだと解釈することができる〔*7〕。その結論はこうである。

 日本人は、敗戦の事実を否認したからだ、と。ある意味で、日本人は、まだ十分に敗戦していないのだ。だから、「戦後が終わらない」どころか、まだ戦「後」は、ほんとうは始まってさえいない、ということになる。敗戦を否認したがために、逆に、70年間ずっと、間延びした敗戦を続けてきた、このままではずっと敗戦し続けることになる。これが白井の論じたことのエッセンスである。

 ここで「否認」という語は、精神分析のテクニカルタームとして使用されている。人は、ときに、明白に知っているはずの事実に関して、それを信じていないかのようにふるまうことがある。知っているはずなのに、ほんとうには分かっていないかのように、である。

 フロイトは、フェティシズム的な性欲を説明するために、この語を用いた。男性は、しばしば、女性の身体や性器に対してではなく、下着等の女性の着用物や性器から隔たった身体の特定部位に対して、強い欲望を抱く。どうしてなのか。フロイトは、次のように説明する。男の子は、女の子にはペニスがないことを発見したとき、強い衝撃を受ける。この事実は、去勢の恐怖と結びついているので、男の子はこれを否認しようとする。女の子にペニスがないというあからさまな事実と女の子にもペニスがあるはずだという幻想とを架橋するために、男の子は、「女の子のペニス」に相当するものを見出すことになる。それが、たとえば「女の下着」(女の子のしかるべき場所にペニスがないことを発見する直前に見たもの)であり、フェティシズム的な性欲の対象となる。

 フロイトのこの説明が、この種の欲望の発生メカニズムとして妥当かどうかは、今はどちらでもよい。いずれにせよ、「否認」に相当する現象が存在することは確かである。知っているのに、心底からは納得できていない、ということがある。あるいは、後になってから、何らかの出来事や経験がきっかけとなって「オレはそれまで『あれ』をほんとうには分かっていなかった」と理解することもある。

 日本人の敗戦の事実への対しかた、それがまさに、ここに述べたような意味での否認だった。この「否認」の内容を、実態に即して、もう少し厳密に見ておく必要がある。アジアに対するそれと、アメリカに対するそれとでは、いくぶんか異なっているからである。

2. 対中国・対韓国への「敗戦」

 まず、対中国の「敗戦」。これに関しては、精神分析学的な「否認」以前の、単純な否定が支配的だと言ってよいだろう。つまり、大半の日本人は、中国に(も)負けたことを端的に「忘れている」。つまり、「中国に負けたつもりはない」というのが、日本人のホンネだろう。たまに、戦勝国は中華民国であって、中華人民共和国ではない、と言う人がいるが(こういう人は、現在、台湾にある中華民国に対して敗戦の意識をもっているかと言うと、もちろんそうではない)、これは詭弁である。もちろん、中国の側は、「そのこと」を、つまり自分たちが勝ったことを、忘れてはいない。

 この認知のギャップのために、中国政府や中国人が「戦勝国」として振る舞うと、(一部の)日本人は異常に立腹する。たとえば日本政府の閣僚がA級戦犯を合祀している靖国神社を参拝したことに対して中国政府が抗議したりすると、激しく怒る日本人は少なくない。日本が「敗戦」を受け入れるということは、A級戦犯に、戦争についての政治責任があったと認めることを含んでいる。別の見方をすれば、A級戦犯が政治責任を負うことで、もっと責任がありそうな人や大半の日本人が、政治的には免罪された。中国政府の抗議は、こうした戦後の約束にそったものである。この抗議を批判する者は、それならば、あの間違った戦争に関して(A級戦犯以外の)誰に責任があったのかを、はっきりさせる必要があるだろう。

 同じ東アジアでも、対中国関係よりもいささか複雑なのは、対韓国関係である。韓国は、戦中は、「日本」の一部なので、第二次世界大戦において、日本が韓国に負けたわけではない。しかし、韓国が日本の一部であったという事実自体が、広義の(日本による朝鮮半島への)侵略の産物である。したがって、韓国の観点からすれば、日本に植民地化(併合)されて以来の長い抗日運動の勝利が、1945年8月15日に到来した、ということになる。ところが、日本は、韓国と戦争したわけではないので、「敗者」であるとの感覚が乏しい。ついでに付け加えておけば、日本人は、公式には植民地支配が正しくなかったと認めてはいるが、ほんとうには、何がどう誤っていたのか、納得できてはいない。したがって、韓国に対する「敗北」は、日本人にとっては、否認などわざわざしなくても、もともとなかったことになっている。

 韓国からすれば、抵抗の末の勝利がそこにあり、日本の観点からは、そもそも戦い自体がなかったということになる。彼我の間のこの極端な相違が、日韓関係の亀裂の原因になっている。その一例が従軍慰安婦問題である。従軍慰安婦をめぐる事実に関しては、私は、ここで特にあらたに言うべきことをもたない。ただ、従軍慰安婦の件がかくも紛糾してしまう究極の原因については、実はほとんどの人がわかっているのに、あえて口にする人がいない要因があるので、ここで指摘しておこう。従軍慰安婦について、日韓の解釈が大きく異なるのは、この事実を、どのような歴史的コンテクストまで視野に入れているかということについての暗黙の前提が双方で異なっているからである。日本側は、その直接の「事実」だけを問題にしている。しかし、韓国側は、その歴史的コンテクストが、つまり自分たちが「日本人」であるということ自体が、すでに「強制連行」であったという無意識の前提の中で、この「事実」を解釈している。

3. 戦争という災難

 敗戦の「否認」ということが、固有の意味で発動されたのは、アメリカに対してである。中国に対してとは違って、さすがにアメリカに対して、「お前に負けたつもりはない」と言うわけにはいかない。つまり、日本人は、アメリカに負けたという事実を単純に否定することはできない。ごく平均的な日本人は、70年前に、日本がアメリカとの戦争に負けたことを知ってはいる。しかし、日本人は、この事実を否認した。いかにして?

 この点については、白井聡や加藤典洋、赤坂真理等によって、すでに多くのことが書かれているので、だいじなポイントだけを述べておこう。戦後すぐに、(平均的な)日本人はこう見たのである。「アメリカ」は、「われわれ」を救ってくれたのだ、と。「アメリカ」を、「われわれ日本人」にとっての「救済者」と見なすことで、敗戦を否認したのだ。アメリカが救済者ならば、ほんとうには、アメリカに負けたことにはならない。アメリカは、われわれのために活動しているのであって、われわれの「敵」ではなく「味方」、われわれの「友」だということになるからだ。

 だが、そうだとすると、アメリカは、日本人を何から救ったのだろうか。この点をあまり徹底して追究すると、(日本人にとって)やぶ蛇になってしまう。つまり、この(敗戦の)否認がまさに隠蔽しようとしていることそのものを探り当ててしまう可能性がある。そのため、日本人は、アメリカを救済者のように見るとき、アメリカがいったい何から自分たちを救ってくれたのかを、あいまいにしている。が、とりあえずは、アメリカは、日本人を「戦争(の悲惨)」から救ってくれた、このように日本人は観念したのだ。

 この認知は、しかし、まことに奇妙なものである。日本もアメリカも、まさにその戦争の当事者だからである。日本は、自ら惹き起こした戦争から、敵であるアメリカによって救われた、という構図になる。この構図の不合理を不可視化するためには、戦争を、津波や台風のようなものとして、つまり外から襲ってくる災難、非人称の災害のようにイメージする必要がある。

 たとえば、竹山道雄の名作(だとされている)『ビルマの竪琴』(1947-48年)をとりあげてみよう。川村湊・成田龍一等の鼎談集『戦争はどのように語られてきたか』によると、この作品は『二十四の瞳』とともに日本人による戦争の語りの原型となった小説だからだ〔*8〕。これは、終戦をビルマで迎えた「水島上等兵」が、当地で亡くなった日本兵の慰霊のために、日本に帰る仲間から離れ、僧としてビルマに留まる、という話である。この中で、水島上等兵はこんなふうに語る。「まちがった戦争とはいえ、それにひきだされて死んだ若い人にどんな罪があるでしょう」と。この認識が変なのは、誰が「まちがった戦争」を遂行したのか、だれがまちがったのか、ということがまったく不問に付されていることである。ビルマで戦った日本兵に、全面的に戦争責任があったとはとうてい言えないが、つまり命令に従わざるをえなかった彼らには大いに情状酌量の余地はあるだろうが、しかし、なお、最前線で兵士だった者が、「まちがった戦争」の「まちがい」に対して、一片の道義的責任も負わないのだとしたら、つまり彼らが「〔あなた方に〕どんな罪があるでしょう」と言ってもらえるほどに潔白であるとしたら、誰に戦争の責任があるというのだろうか。

 ともあれ、戦後の日本人は、戦争を、このように、非人称の災難のようなものと見なし、アメリカが、そこから日本人を救済した、という構図を無意識に描くことで、敗戦の事実を否認したのである。戦後の日本人の認知(否認)がこのようなものであったと解釈できる根拠はいくつもあるが、ここでは、次の事実だけを指摘しておこう。日本人が、戦争を主として、他のどの日付でもなく「八月一五日」と結びつけてきたこと。そして、この日が「終戦」の日であるという認識は−−−佐藤卓己の研究によると−−、終戦の直後ではなく、終戦から十年近く経った1950年代の半ばに定着したということ〔*9〕

4. 「喧嘩はよくない」?

 戦争をどの日付によって記憶するかは、その戦争への態度に規定されている。たとえば、アメリカ人は、太平洋戦争を「12月7日」によって記憶しているが、日本人には、その日(日本時間では12月8日)は、8月15日に比べれば、広くは記憶されてはいない。中国人には、9月18日は、中日戦争に関連したきわめて重要な記念日だが、普通の日本人は、この日が何の日なのかも知らない。

 そして、日本人は、主として8月15日によって戦争を記憶している。ところで、それは何の日なのか。最近の若い人は、この日が何の日かも知らないということが、嘆かわしいこととして報道されているが、並の教養をもった日本人ならば、たいてい、この日を知ってはいる。終戦の日だと。

 だが、ほんとうにこの日は終戦の日なのだろうか。戦争なのだから、当事国のすべてがその日を「終戦」として認知していなくてはならない。しかし、実は、「8月15日」は国際的にはまったく通用しない日である。この日を特別視している国民は、世界中で二つしかない。日本人と韓国人である。韓国人にとっては、この日は、日本からの独立記念日(光復節)である。アメリカ人も、この日を終戦と見なしているはずではないか? とんでもない! アメリカ人は、8月15日を終戦の日とは見なしていないし、相当な知日家でも、この日が何の日なのかを知らない〔*10〕。アメリカ人で、この日が(日本人にとって)終戦の日だと知っているのは、近代日本史の専門家くらいのものである〔*11〕

 そもそも、第二次世界大戦(あるいは太平洋戦争)がいつ終わったかは、厳密には、定めがたい。太平洋戦争の始まった日ならばはっきりしている。宣戦布告がなされているからだ。しかし、終わった日は、確定しがたい。あえて確定しようとすれば、それは、日本が敗北を正式に認めたのはいつなのか、で決まるだろう。すると、いくつかの日が候補になる。日本政府がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を認めた日だとすれば、8月14日ということになる。また、降伏文書が(東京湾上の戦艦ミズーリ号の上で、外務大臣重光葵によって)調印されたのは、9月2日である。国際的に最も一般的に承認されている終戦の日は、9月2日である(ただし、かなり知識のある人しか知らないが)。

 では、8月15日には何があったのか。もちろん、玉音放送である。昭和天皇が、ラジオを通じて、日本国民に、ポツダム宣言を受諾したことを告知したのだ。だが、厳密には、天皇による国民へのこの布告の日付は、8月14日である。つまり、天皇は、はっきりと最後に「昭和二十年八月十四日」と言っているのだ。玉音放送は、生放送ではなく、前日、録音されたものだったからだ。日本人が、8月14日付けの文書を、15日に聴いた、ということである。

 なぜ、日本人は、8月14日とか、9月2日とかといった、国際的にも承認され、戦争の終結にもっと相応しい日を選ばずに、8月15日によって、戦争を記憶したのか。その理由は、簡単に分かる。8月14日や9月2日は、どうしても、「敗」戦の日にならざるをえない。しかし、天皇が日本国民に「戦争をやめた」と告知した日であれば、「終」戦の日になる〔*12〕。日本人は、「敗戦」を否認し、これを「終戦」に置き換えたのである。加藤典洋は、『敗戦後』論で次のように述べた。日本人は、「負けた」と発すべきところで、「喧嘩はよくない」と声をあげたのだ、と。

5. なぜ1955年が転換点に?

 もっと興味深いのは、8月15日が終戦の記念日だという認識は、終戦の直後からあったわけではなく、終戦から十年ほどたった1955年頃に確立された、という佐藤卓己が指摘した事実である。述べたように、もともと、戦争がいつ終わったのかは不確定であった。だから、8月15日だけが特別だという認識は、日本人にも、最初はなかった。

 さらに、今日でも、「8月15日=終戦」には、法的根拠はない。法的根拠に最も近いものは、1963年5月に、第二次池田勇人内閣によってくだされた閣議決定「全国戦没者追悼式実施要項」だそうである〔*13〕。つまり、その日が戦没者の追悼式典が実施されるから、その日が終戦の日なのだろうと推定しているだけであり、しかも、追悼式がその日でなくてはならない理由は、閣議決定にあり、法律にあるわけではない。こうした点にも、一応、8月15日を「終」戦として受け入れはしたが、そのことに対してさえも、日本人は、腰が引けているということ、できることなら直視したくないという態度がありありだということ、強い決意をもってこの日を選んではいないということが現れている。

 有山輝雄「戦後日本におる歴史・記憶・メディア」によれば、GHQによる占領の末期に至って、マスメディアは、戦争の過去を記念すべきではないかとして、二つの日を、徐々に提示しだした。二つの日とは、8月6日と8月15日である。戦争に関係している他のいくつもの重要な日付、たとえば、9月18日(満洲事変の始まり)、7月7日(日中戦争の始まり)、12月8日(真珠湾攻撃)、あるいは9月8日(サンフランシスコ講和条約調印)、4月28日(講和条約発効)などは、まったく問題にされなかったという〔*14〕。こうした選別の中にも、すでに、戦争を、外から不可抗に襲ってきた大災害のようなものと見なそうとする無意識の論理が働いているのを、読み取ることができるだろう。

 そして、結局、1950年代の中頃、8月15日の方が選ばれ、終戦の日として認識されるようになった。まず、ラジオ番組が、「お盆行事」編成から「終戦記念日」編成へと変化したのは、1954年である。そして、新聞など多くのマスメディアが、8月15日に終戦の企画を出すようになったのが、1955年である。たとえば、『朝日新聞』は、「終戦十周年」の大型企画を打ち出した。佐藤卓己は、こうした状況の変化を総括して、1955年が記憶の転換点だったと結論している。

 では、どうして、戦争が終わってから十年も経過してから、「8月15日」が定着したのだろうか。ここから後は、推測である。

 まず、1955年が、日本の国内政治にとっては、重大な転換点あることを、あらためて確認しておく必要がある。この年に、いわゆる55年体制が確立した。55年体制とは、教科書的に言えば、自由党と民主党が合同したことで成立した自由民主党と社会党との間の、疑似二大政党制である。もう少し、日本人の(無)意識の機微に触れた形で言い直せば、それは、穏健な保守系政党(自民党)に絶対に勝たないという条件のもとで、社会党がそこそこ強いことが許された——あるいはむしろ要請された——体制のことである。要するに、55年体制は、国際的な冷戦の国内政治への写像である。

 この「冷戦」ということを尺度にして東アジア情勢を見たとき、地政学的条件が、戦後の十年で、とりわけ1950年代前半で、激変していた、ということに気づく。1950年に朝鮮戦争が勃発して、朝鮮半島が南北に二分された。また、その前の1949年には、大陸に、中華人民共和国が生まれた。戦争が終わったばかりのときには存在していなかった、共産圏に属する二つの国家が、東アジアに誕生したのだ。この事実が、日本の地政学的な価値を、とりわけアメリカから見た価値を変えざるをえない。

 ここで、われわれの仮説を思い起こしてほしい。日本人は、アメリカを救済者と見なすことによって、敗戦を否認した、と。このような構図で世界を見るときには、しかし、一つの障害がある。アメリカはどうしてわざわざ日本を救い、助けてくれるのか。こうした懐疑によって、基本的な構図が崩壊しないためには、日本人は、自分たちがアメリカに愛されている、という確信が持てなくてはならない。あるいは、少なくとも、アメリカに求められている、アメリカに必要とされている、という確信なしに、こうした構図は維持できまい。本来はアメリカは、「赤の他人」である。普通、われわれは、自分の親ならばともかく、よく知らないおじさんが、命懸けで自分を助けてくれるだろう、などと期待をもたないだろう。アメリカは、「赤の他人」どころか、少し前までは「敵」だった。そのような他者が、自分たちの救済者だと信じうるためには、何か「根拠」が必要だ。

 1950年前後の東アジア情勢の変化が、ここで効いてくる。東アジアに二つの共産主義体制が誕生したことによって、アメリカから見たとき、軍事的拠点としての日本の価値が大きく高まった。また、アメリカは、日本自体が共産主義化してしまうことを最も恐れていたはずである。が、幸運なことに、台湾や韓国と違って、日本は、対共産圏の完全な最前線ではなく、間にワンクッションが入っていた。そのため、アメリカとしては、日本人に、デモクラシーのゲームを許すくらいの、つまり親共勢力が合法的に活動することを許すくらいの余裕はあった〔*15〕。したがって、結論的には、こうなる。1950年代の中盤までに、アメリカにとって、日本は軍事的に必要な場所だが、同時に、最小限のデモクラシーを容認できる程度には寛容に見ることができる他者でもあった。

 同じことを日本側から見れば、自分はアメリカから重視されている、大切にされている、ということになる。こうなって初めて、アメリカを半永続的な救済者と見なすことに、現実味が出てくる。アメリカが、実は救済者だったとするならば、先にも述べたように、敗戦は敗戦ではなくなる。こうしてやっと、日本人は、敗戦を「終戦」と置き換えた上で、受け入れることができるようになったのである。「8月15日」が日本人によって記念日と見なされるようになったのが、1950年代の半ばだったのは、こうした原因からではないだろうか。もちろん、これこそ、敗戦の否認以外の何ものでもない。

 だが、このような(無意識の)メカニズムによる敗戦の否認には、重い代償が伴うことになる。政治的・経済的のみならず、精神的・文化的な、つまり全面的な対米依存、これが代償である。アメリカに愛されている(と信じられる)限りで、敗戦の痛みは消える。ということは、日本は、アメリカから見たときに、よいもの、望ましいものでなくてはならない。よさの基準、望ましさの基準は、アメリカの視点である。この状況は、現在も続いている。そして、それが、戦後日本のナショナリズムを規定する執拗低音となった。

〔5〕白井聡『永続敗戦論』太田出版、2013年。

〔6〕加藤典洋『敗戦後論』講談社、1997年。

〔7〕赤坂真理『東京プリズン』河出書房新社、2012年。

〔8〕川村湊・成田龍一ほか『戦争はどのようにかたられてきたか』朝日新聞社、1999年。

〔9〕佐藤卓己『八月十五日の神話——終戦記念日のメディア学』ちくま新書、2005年。

〔10〕佐藤卓己は、知人のアメリカ人に片端から、「太平洋戦争がいつ終わったか」という趣旨の質問をしたが、一人も、「8月15日」と答えた者はいなかったという。推測するに、佐藤のアメリカ人の友人はたいてい学者で、しかもかなり日本に関心をもっているはずだ。それでも、このような結果になるのである。

〔11〕最近では、中国も、8月15日を終戦の日と見なすようになった。だが、それは、日本政府要人の靖国参拝を批判するためである。他日ではなく8月15日の参拝を特に悪い、と非難するためには、中国もまた、その日が終戦だったと認識している、ということが前提になるからだ。

〔12〕江藤淳は、「8月16日=終戦」を唱えていた(以下に収録してある江藤の講演を見よ。歴史・検討委員会編『大東亜戦争の総括』展転社、1995年)。厳密に言うと、「8月15日」で(敗戦ならぬ)終戦だとするのには、不都合なことがいくつかある。天皇が国民に伝えたことは、厳密には、「戦争が終わった」ではなく、「アメリカ、イギリス、ソ連、中国に対して負けを認めた」だったということ。また、今しがた述べたように、天皇の布告の正式な日付は、ポツダム宣言を受諾した14日だったこと。それに対して、8月16日であれば、間違いなく、「終」戦の日ということになる。それは、大本営が、全軍に対して停戦命令を出した日だからだ。江藤淳は、敗戦の否認をもっと完璧なものにしようとしたことになるが、しかし、「8月16日」説はまったく定着しなかった。

〔13〕吉田裕「戦争の記憶」『岩波講座・世界歴史 第25巻』、1997年。

〔14〕有山輝雄「戦後日本における歴史・記憶・メディア」『メディア史研究』第14号、2003年。

〔15〕朝鮮戦争の研究で知られているアメリカの歴史学者ブルース・カミングスは、朝鮮半島の全体が共産化していたら、日本の戦後民主主義は生き続けることができなかっただろう、と述べている。

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